JPOPにおけるガールクラッシュの未来は彼女にかかってる!!! 完全&最強「弓桁朱琴」論
いきなりイヤーーーーーな書き出ししてしまいますけど
ポップミュージック史という大きく俯瞰した視点から言うと
JPOPにおける女性アイドルグループとしてのモーニング娘が果たした最後の輝きって
2012年、今から14年前?!??!?!に何故か突然狂い咲いたようにEDM化した「1.2.3」「愛の軍団」で残念なことに終わってるわけですが
実は去年2025年TIKTOKの方でAIMVを作った時に「ななななななんだこのおんなのこ!!???」と驚いたのが

弓桁朱琴チャンで!!!! その「圧」ともいってくらいのつんのめった身体性と
それが文体にもあらわれるという驚異のブログにも驚愕!!!
アップフロント様でお仕事させていただいていたにも関わらず不義理で全くモーニング娘情報には触れてなかったんですが
今年2026年奇しくも小田さくら、そして牧野真莉愛という現在のモーニング娘におけるアイコニックなメンバーが二人も卒業・脱退するということも知って
あーーーもうこれはモーニング娘。本体のみならず中々日本で定着しそーーーでしない
どころかKAWAII LAB系的な「幼児性への回帰」路線によって全く彼方においやられてしまった
ガールクラッシュ
をJPOPにおいて担うのは弓桁朱琴チャンしかいないのでは?!?!?!

ガールクラッシュの本質は「善良性の過剰さ」
ガールクラッシュとは、単に「強い女」のことではない。
ましてや、黒い服を着て、低い声で睨みつけて、世界に中指を立てる女のことでもない。
もちろん、ちゃんみな、NENE、Awichのような女性ラッパーたちは、圧倒的に強い。
彼女たちは、社会の傷、欲望、怒り、サバイブ、そして女であることに貼りついた暴力を、自分の声で撃ち返してきた。
そこにあるのは「BAD」の美学だ。
不良性。
アウトロー性。
夜の匂い。
傷を隠さない強さ。
奪われたものを奪い返すための声。
それは間違いなく、ひとつの女性の強さである。
だが、ガールクラッシュの本質は、そこだけにはない。
むしろ、ほんとうに恐ろしいガールクラッシュは、「BAD」ではなく「GOOD」の過剰性から立ち上がる。
善良であること。
まっすぐであること。
努力すること。
前を向くこと。
人を信じること。
全力で笑うこと。
全力で踊ること。
全力で生きること。
普通なら、それは「いい子」で終わる。
優等生で終わる。
健気で終わる。
応援したくなる存在で終わる。
しかし、その「GOOD」が限界を超えた時。
善良性が、もはや人間の許容量を超えて暴走しはじめた時。
そこに、ほんとうのガールクラッシュが現れる。
それは、優しさではない。
それは、道徳ではない。
それは、清楚でもない。
それは、暴力的なまでの善良性である。
ジャンヌ・ダルクがそうだった。
彼女は不良だったわけではない。
アウトローとして世界を破壊したわけではない。
むしろ彼女は、信じすぎた。
祈りすぎた。
まっすぐすぎた。
自分の中にある「正しさ」を、世界のほうが耐えられないほどの熱量で燃やしてしまった。
だから彼女は、少女でありながら軍勢を動かした。
善良でありながら、戦場を変えた。
純粋でありながら、権力を震え上がらせた。
ここで大事なのは、ガールクラッシュとは「悪くなること」ではなく、「良すぎること」でも発生するということだ。
良さが過剰になる。
真面目が過剰になる。
身体性が過剰になる。
言葉が過剰になる。
存在そのものが、ステージという器から溢れ出す。
その時、アイドルはただのアイドルではなくなる。
では、J-POPにおいて、その「GOODの過剰性」を誰が担っているのか。
答えはひとりしかいない。
弓桁朱琴である。
彼女のパフォーマンスには、まだ完成されきっていないがゆえの凶暴さがある。
弓桁朱琴のすごさは、いわゆるクールな女王感でも、わかりやすい不良性でも、計算された強めのビジュアルでもない。
彼女の本質は、過剰なまでの身体性にある。
踊る。
動く。
跳ねる。
ぶつかる。
前に出る。
全身で歌を受け止める。
ステージの空気を、自分の筋肉と呼吸で塗り替える。
彼女のパフォーマンスには、まだ完成されきっていないがゆえの凶暴さがある。
綺麗に収まらない。
上品に終わらない。
アイドルのフォーマットの中に入っているはずなのに、身体の熱量がそこからはみ出してくる。
そのはみ出し方が、決定的にガールクラッシュなのだ。
しかも弓桁朱琴の場合、過剰なのは身体だけではない。
ブログの文体もまた、過剰である。
あのテンション。
あの情報量。
あのまっすぐさ。
あの自己開示。
あの「今、自分が世界をどう見ているのか」を、遠慮なく言葉にしてしまう力。
それは、今の時代においてかなり異様な才能だ。
多くのアイドルが、炎上を避けるために、角を丸め、感情を整え、言葉を薄めていく。
しかし弓桁朱琴の言葉は、薄まらない。
むしろ濃い。
濃すぎる。
煮詰まっている。
身体から出た汗が、そのまま文章になっているような迫力がある。
ここに、彼女の決定的な異物性がある。
彼女は「BAD」だから強いのではない。
「GOOD」が強すぎるから怖いのだ。
真面目すぎる。
全力すぎる。
信じすぎる。
書きすぎる。
動きすぎる。
届けようとしすぎる。
その「しすぎる」が、ある地点を超えると、アイドル的な可愛さを突き破って、ガールクラッシュになる。
つまり弓桁朱琴は、J-POPにおけるジャンヌ・ダルク型ガールクラッシュなのだ。
不良少女ではない。
善良少女である。
しかし、その善良性が過剰すぎる。
過剰すぎるがゆえに、戦場を作ってしまう。
ステージ上で彼女が放っているものは、余裕でも、達観でも、クールネスでもない。
もっと原始的なものだ。
「私はここにいる」
「私は全部やる」
「私はこの身体で、この言葉で、この時間を燃やし尽くす」
その宣言である。
だから弓桁朱琴は、ただ可愛いだけでは終わらない。
ただ元気なだけでも終わらない。
ただ期待の若手でも終わらない。
彼女は、J-POPにおいて「GOODの過剰性」がどこまで暴力になりうるのかを、いま最前線で証明している存在なのだ。
「1.2.3」期において驚異のEDM化によって奇跡のようにJPOPにおけるフロントランナーに返り咲いたモーニング娘。は
この重大な転換期に
弓桁朱琴という旗
を立たせてくれるだろうか?











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