これが正しく映画の未来だ!! トライベッカ映画祭プレミアの全編AI作品 Ash Koosha「Dreams Of Violets」を完全擁護します
日本で唯一世界中での不当な「AI魔女裁判」を糾弾し
加えて世界で一番AI生成によるMVとアニメを作り続けている僕としては
いつかこうした正しい映画の未来がやってくると確信してました(号泣)!!!!!!!
既にバッシングの嵐として話題になっている来月のトライベッカ映画祭に出品される
Ash Koosha監督の生成AI映画「Dreams Of Violets」
完璧だと思います
目次
あーーーーーーーー!!!!あのミュージシャンのアッシュ・クーシャなのか!!!
今回驚いたのはこの製作者の名・監督の名前どっかで聞いたよなぁ・・・・と思っていたら
あーーーーーーーアッシュ・クーシャ氏なのか!と
僕もAI生成レーベル名を「DREAM BABY DREAM」にしましたが
この作品も「Dreams-」
これだけでわかってるなぁーーーーーー!!!!!!と大感激なんですが
そうなんですよ! AI生成すればするほどわかることなんですが
実は生成者にとってAI生成された動画って限りなく「夢」に近づいていく
この途轍もなく長い記事で詳細は書いてますが
物語映画によって「黒歴史」化されてしまった「夢映画」の系譜
本来ならば物語映画以上に「映画的」であったはずのドリームロジック映画
「撮る」ではなく「生成」することはとても「夢を見る」ことに近いんです。
生成AI映像とは「夢映画」の完成形である
Ash Kooshaの “Dreams of Violets”。
そして、AIによるMV専門レーベル DREAM BABY DREAM。
この二つに、同じように DREAM という言葉が宿っていること。
それは偶然ではない。
むしろ、生成AI映像というものの本質が、ここに全部出てしまっている。
なぜなら、生成することは、撮ることではないからだ。
カメラを構え、現実の光を受け止め、そこにいる人間の身体を記録する。
それが「撮る」という行為だった。
しかし生成AIは違う。
そこにはカメラがない。
ロケ地もない。
俳優の肉体も、物理的なセットも、レンズの前に存在していない。
にもかかわらず、映像は生まれる。
これは一体なんなのか。
それは、映画というより、もっと音楽に近い。
いや、もっと正確に言えば、夢に近い。
音楽が、どこにも存在しない感情の輪郭を、音の連なりによって突然この世界に出現させるように。
生成AI映像もまた、どこにも存在しなかった時間、場所、身体、光、記憶を、プロンプトという呪文によって立ち上げる。
だからAsh Kooshaが鳴らす “Dreams of Violets” と、僕の DREAM BABY DREAM は、同じ地点を見ている。
それは、現実の再現ではない。
物語の説明でもない。
まだ名前のついていない映像の第三形態。
つまり、夢としての映像 である。
映画史は、長いあいだ「物語映画」によって支配されてきた。
誰が、どこで、何をして、なぜそうなったのか。
原因と結果。
人物と動機。
ドラマと結末。
もちろんそれは偉大だった。
しかし、そのあまりにも強大な物語映画の王国の片隅に、いつも追いやられてきたものがある。
それが、夢映画 だ。
物語にはならない。
けれど忘れられない。
説明はできない。
けれど身体の奥に残ってしまう。
現実ではない。
しかし嘘とも言い切れない。
そういう映画たち。
オーソンウェルズなら喜んでAIを使ったはず
そしてここで重要なのは、あのオーソン・ウェルズである。
『市民ケーン』によって、物語映画の文法を根底から更新した男。
そのウェルズの幻のデビュー作が、POV視点による夢映画だったということ。
これは、ほとんど映画史そのものが見せた予知夢のような出来事ではないか。
詳細は上のリンク記事で!!!!!
つまり、物語映画を革命する者の出発点には、最初から夢があったのだ。
映画の未来は、いつも物語の外側からやってくる。
説明不能なイメージとして。
不穏な時間として。
目覚めたあとも、なぜか皮膚に残り続ける感覚として。
鈴木清順の映画を見ればわかる。
デヴィッド・リンチの映画を見ればわかる。
あの映像たちは、単に奇妙なのではない。
単にシュールなのでもない。
そこでは、現実のルールが溶けている。
物語の階段が途中で消えている。
登場人物たちは、もはや人生を生きているのではなく、夢の中に投げ込まれている。
だから不安になる。
だから怖い。
だから美しい。
夢とは、世界が壊れることではない。
世界のほうが、こちらの無意識に合わせて組み替わってしまうことだ。
生成AI映像が人々を不安にさせるのも、まったく同じ理由である。
「これは本物なのか?」
「これは誰が作ったのか?」
「これは映画なのか?」
「これはアートなのか?」
「これは人間の創造なのか?」
人々はそう問い続ける。
しかし、本当はその問い自体が、もう古い。
生成AI映像は、ノンフィクションではない。
しかし、ただのフィクションでもない。
現実を撮ったものではない。
しかし、作り話として片づけるには、あまりにも身体に近い。
そこには、第三の映像がある。
現実でもない。
物語でもない。
記録でもない。
演出でもない。
なのに、妙に「見たことがある」ような気がする。
それはなぜか。
僕たちが毎晩、夢の中で見ている映像に似ているからだ。
顔が少しだけ違う。
場所が少しだけつながらない。
時間が変に飛ぶ。
死者が平然と生きている。
子どもの頃の部屋に、未来の恋人がいる。
知らない街なのに、なぜか帰り道だけはわかる。
この、現実のようで現実ではない質感。
物語のようで物語になりきらない流れ。
説明できないのに、感情だけは異様に強い世界。
生成AI映像は、まさにここに触れている。
AI魔女裁判、なぜ人々は生成AIを恐れるのか?その本質
だから、バッシングされる。
だから、嫌悪される。
だから、「気持ち悪い」と言われる。
だから、「AI SLOP」と叫ばれる。
けれど、それは本当に映像が稚拙だからなのか。
それとも、人々が初めて、夢が外部化された世界に直面しているからなのか。
僕は後者だと思う。
生成AIは、夢を個人の頭蓋骨の中から解放してしまった。
かつて眠っているあいだにしか見ることのできなかった、曖昧で、流動的で、不安定で、しかし異様に甘美なイメージを、誰もがスクリーン上に立ち上げられるようにしてしまった。
これは単なる映像制作革命ではない。
これは、夢の民主化である。
DREAM BABY DREAMとは、だから単なるレーベル名ではない。
それは、撮影の時代から生成の時代へ移行した映像表現における、ひとつの宣言なのだ。
僕たちは、夢を生きることができる。
夢を逃避としてではなく、設計図として扱うことができる。
夢を非現実としてではなく、未来の試作品として扱うことができる。
夢を妄想としてではなく、創造のインターフェースとして扱うことができる。
生成AIの本当の革命性はここにある。
カメラの映画から、プロンプトの映画へ。
それは、人間に「現実へ戻れ」と命じるテクノロジーではない。
むしろ、「もっと深く夢へ入れ」と誘うテクノロジーなのだ。
現実を撮る時代から、夢を生成する時代へ。
物語をなぞる映画から、無意識を鳴らす映画へ。
カメラの映画から、プロンプトの映画へ。
記録の映画から、夢の映画へ。
Ash Kooshaの “Dreams of Violets” と、DREAM BABY DREAM。
この二つのDREAMは、同じ未来の扉を叩いている。
そこにあるのは、懐古ではない。
単なるAI賛美でもない。
映画が、もう一度、夢に戻っていくということだ。
物語映画によって一度は片隅に追いやられた夢映画。
しかし、生成AIの登場によって、夢映画はついに映画史の中心へ帰還する。
しかも今回は、作家だけのものではない。
スタジオだけのものでもない。
資本だけのものでもない。
誰もが夢を見るように、誰もが夢を生成する。
誰もが眠るように、誰もが映像を作る。
誰もが無意識を持つように、誰もが映画を持つ。
これこそが、生成AI映画の未来である。
そして、その未来は正しい。
なぜなら映画とは、最初から現実を説明するためのものではなかったからだ。
映画とは、本来、現実の向こう側にあるもうひとつの時間を見るための装置だったからだ。
スクリーンとは、巨大な夢の瞼である。
プロンプトとは、眠りへ降りていくための呪文である。
生成された映像とは、まだ誰も見たことのない集合的無意識のMVである。
だから僕たちは言う。
DREAM BABY DREAM。
Dreams Of Violetsも間違いなく正しく未来の映画である。
ほんとーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーに楽しみな作品です!!
かならずレビューしまっす!!!!!









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