伊藤詩織監督の勇敢さに1000点。でも作品としては30点(泣) 「Black Box Diaries」完全レビュー
このTRAILERの「外連味」が途轍もなく素晴らしくて
これは映画史に残るレイプドキュメンタリーなのでは?!?!と
どーーしても見たかった伊藤詩織監督の長編ドキュメンタリー映像作品
「Black Box Diaries」を見ました!!
最初に宣言しておくと僕は、伊藤詩織監督をレイプした
山口敬之はゴミ中のゴミ、今すぐこうして死刑になるべき
クソエロビゲ野郎(ヒゲ野郎はこの作品中でのセリフを引用しました)だと断罪しますが
でもそれと映像作品としての評価は完全に別物なのでレビューさせていただきます
はじめに結論を言うと伊藤詩織監督の「Black Box Diaries」は映像作品としては
とてもとてもとてもとても残念な作品だと思います
目次
「Black Box Diaries」はなぜ「日記」形式になったのか?
えーー実はこの「Black Box Diaries」基本的に画面に登場するのは
全尺の95%以上が伊藤詩織監督です。
もちろんこれは作品のテーマ性に合わせた「演出」である
レイプという突発的犯罪に対して伊藤詩織監督がどう行動したのかという「私的記録」
なのでこうした作品構成になっているんです
という事も言えるかもしれませんが
それは非常に無理筋の見立てだと思います
この作品を見て驚くのは作品のテーマになっているのが
山口敬之による伊藤詩織監督のレイプ事件の真相
であるにもかかわらず、作品を見てもこの事件の全体像はなにもわからないことです。
「レイプ」という一人の女性の生と聖と性を破壊した事態が起こった
それを作品化するのであれば、そこに描かれるべきは
そのレイプ=魂の殺人事件
がどのように起こったのか???
レイプ犯である山口敬之とは何者なのか?
なぜそうした殺人事件であるのに(作品のラストで彼女が話していますが)
伊藤詩織監督が25歳の時に起こった事件が彼女が33歳になるまで
つまり8年!!!!というクソどーーーしょうもない時間を費やさなくてはならなかったのか?
そうしたこのレイプ事件の「ストーリー」が描かれなくてはならないわけです。
でも、この「Black Box Diaries」では、映像作品の「コア」であるべき
ストーリーは全く描かれません。それは何故か?
この「Black Box Diaries」は未完成なのではないか?
僕はずーーーーーっと200作品以上のドキュメンタリーAV・MV・映画映像作品を作って来たわけですが
この「Black Box Diaries」的な仕上がりに「落とし込む」しかない・・・という事態は何度もありました
それは
「ストーリー」を構成するだけの映像的素材がない時です
ストーリーを構成するとはめちゃくちゃシンプルに言うと
①ワタシの映像
②アナタの映像
③ワタシとアナタが生きているセカイの映像
この3つの映像素材が必要であり
でも作品を作っているうえで
もちろんそれがフィクション作品であるなら脚本の段階で揃いますが
①と②と③が「完璧に揃う」なんてことはドキュメンタリー作品では奇跡に近い事で
だから映像監督としては①と②と③のバランスをどう「編集するのか?」
がドキュメンタリー映像を作る際に最も重要なことだったりします。
で!!! この「Black Box Diaries」既に書いたように作品の95%は①の映像素材です。
これはですね・・・・95%が①だったら、ちょっと作れないです(泣)
というかもっと正確には①だけで作る手法として「セルフドキュメンタリー」がありますが
だとしたら①の素材は②と③がない事をねじ伏せるような強度の高い映像が必要になるけれど
この「Black Box Diaries」における①はそうした「画力」が圧倒的に低いと思います
僕が「Black Box Diaries」が映像作品として30点だと思うわけは
この作品を見ている間ずーーーーっと感じていた違和感、それは
これってさぁ・・・なんかの理由で急遽リリースしなきゃならなかったんじゃないの???
で、そうするとまだ②とか③の素材はないわけで・・・①だけで構成するなら「日記」にするしかないじゃん!!
っていう制作側の切羽詰まった「台所事情」が色濃く作品に漂っている(泣)
その「うーーーーん・・・でも賞レースや様々な社会環境を考えたら"今"リリースするしかない!!」
それはめちゃくちゃわかります!!!!
めちゃくちゃわかるけど、わかるんだけど・・・・・・
一人の女性が理不尽にレイプされた
その卑劣さを早く、そしてこのトランプ"不同意性交"USAのこのタイミングに出したい!!!
というのはわかるんですが
それは映像作品としての「正しさ」とは全く関係がないんです・・・・・・・
そうした「映像作品とは何か?」というコアが完全に置き去りにされているのが
残念ながら「Black Box Diaries」なんですね・・・・・・・・
伊藤詩織監督の「不思議な声」
僕がこの「Black Box Diaries」を見て最も興味深かったのは
実は
伊藤詩織監督の「声」の不思議さです
作品全編で伊藤詩織監督は日本語とそして英語で語り・しゃべるわけですが
日本語で日本人に喋る時のそのあまりにも特徴的な「典型的ロリ声」と
英語で語りかけるときのそのあまりにも特徴的な「典型的女性ジャーナリスト声」
その特異なギャップに僕は驚きました。
それはこの「二つの声」
どちらが伊藤詩織という人の「ホントウの声」なのか??
これが不思議なことに最後までわからないわけです。
何度も書きますがこの「Black Box Diaries」、作品の画面上95%で登場しているのは
伊藤詩織監督です。
そして監督が画面に登場している間、僕はずーーーーーっと頭の中に疑問符が浮かんだままです
これ、どっちが「彼女」なの????
で!!ここでハタ!!と気づくわけです。
あーーーーーーーーーーーーーーーーこの「声の二重性」
どこまでも「ボク」の前で「わからない」存在のままでいる存在
あーーーーーーーーーーーーーーーなるほどね
ここに伊藤詩織監督のコアがあるんだ!!と
伊藤詩織というおんなのこ
この「Black Box Diaries」には中間部分で伊藤詩織監督の幼少期の映像がインサートされます。
そこでの彼女の「声」を聴いて、僕は完全に理解しました。
あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!
「監督」???
「ジャーナリスト」????
全部違うじゃん!!! 伊藤詩織チャンってば、まだ「おんなのこ」じゃん!!と
この「Black Box Diaries」上に書いたような理由で非常にバランスの悪い作品になってるわけですが
それは伊藤詩織サンという人を
「監督」
とか
「ジャーナリスト」
とか
っていう観点から見たら、なわけで
僕はこの「Black Box Diaries」における"不思議な声"の構造、そして
はっきり言って95%の映像が彼女しか映ってなくて、
完全に彼女の「プロモーション映像」になってる、その事に「OK」を出した事からも
伊藤詩織ちゃんってまだ「おんなのこ」なんですよ・・・・・・・・・
この「Black Box Diaries」の全編でわかるのは
伊藤詩織という人の「ルーキーさ」です。
まだ彼女は正しくジャーナリストでもなく、実はまだ何物でもない
でも映像全尺の95%に彼女しか映ってないのに「映像」としては成立している。
それは伊藤詩織というおんなのこの「プレイヤー」としてのポテンシャルの高さゆえです。
僕がこの「Black Box Diaries」で一番驚愕したのは
作品内で彼女に警察内の情報を暴露する「INVESTIGATOR A」氏の態度でした。
これは作品を見て欲しいんですが、このINVESTIGATOR A氏、完全に彼女に惚れちゃってるんですよ・・・・(泣)
つまり「おんなの」として「プレイヤー」としてあまりにもポテンシャルが
伊藤詩織チャンが高いため、狂っちゃてるんです・・・・・・・
「Black Box Diaries」はアカデミー賞を受賞するのか?
この作品は現在、日本人監督作品として史上初のアカデミー賞長編ドキュメンタリー作品にエントリーされています
僕はタイトルにも書きましたが伊藤詩織チャンのその「勇敢さ」は途轍もなく素晴らしいし
歴史にも残る行動だと確信しています。
でも、その彼女の「行動」と「映像作品としての価値」は違います。
僕がこの「Black Box Diaries」が映像作品として「姑息」だと思うのは
純粋に「日記」としてレイプ被害者である伊藤詩織ちゃんの素材を並べました、に徹しているなら
全然アリなんですけど、上にも書いたように、この作品は明らかに賞レース狙いで
拙速に作られたものであり、①的な「vlog」素材だけでは"弱い"事をわかっているので
無理くりに、このレイプ事件が「国家的な陰謀だ」というテーマ性があるように
国会答弁の映像(つまり、自分たちが自ら撮ったオリジナルな素材ではない)を意味ありげにインサートするっていう
「それやっちゃったらダメだし、だったらそのストーリーを作り上げるための素材を撮らないと!!」
がクリアできてないんです・・・・(泣)
何度も言いますが伊藤詩織チャンの「勇敢さ」は途轍もないし、その称号として
ドキュメンタリー作品における日本人初のアカデミー賞候補というのはふさわしいと思いますが
この作品がアカデミーをとってしまうなら、それはあまりにもあまりにも「党派性」が強すぎるし
伊藤詩織チャンというおんなのこ自身にとって不幸なことだと思います。
2/20に行われる記者会見について
今現在「Black Box Diaries」は作品内で無断で映像素材を使っている
上に書いてきたようにこの作品は95%彼女しか映ってないそのままだと「Vlog」なんで、それを補完するためにはどーーーーーーーーしても以下の映像を使わざるを得なかったのは痛いほどわかりますが・・・・
①冒頭の伊藤詩織チャンとレイプ犯山口敬之を乗せたタクシー運転手による顔出しインタビュー部分
②その後にすぐ続くホテルが裁判用に提供した伊藤詩織チャンとレイプ犯山口敬之の防犯カメラ素材
に関して彼女をずーーーーーーーーーーーーーっと支援し続けてきた弁護士からクレームがつき
更にはこの伊藤詩織チャンの「少女的振る舞い」について記事を書いた
この「Black Box Diaries」にも出演している望月記者に対して
彼女が
社会的評価が「地に落ちた」
として提訴するという泥沼化をしています
そしてこの提訴に関しては望月記者自身が詳細を泣きながら語ってるこの動画をご覧ください
そしてこの「無断使用」に関して伊藤詩織チャン側も弁護士側も2/20に記者会見を行うとの事ですが
はっきり言って詩織ちゃんは謝るしかないっす・・・・でも謝らないだろうなぁ・・・・
そんな事は弁護団も望月記者もずーーーーつとわかっていたはず
だって彼女はこの「Black Box Diaries」のテーマ曲(これもPOP中毒者から厳密に見ると作品内での使い方はかなりとってつけなんですが・・・)
に堂々と間違った解釈でこの曲を掲げている(泣)
でもさ、そのむちゃくちゃっぷりが伊藤詩織というおんなのこなんだし
それが「おんなのこ」という「モンスター」の本質であり
監督としてとかジャーナリーストとしてとか映像作品としてなんてどーーーーーでもよくて
それは僕は「おんなのことして正しい」事だとおもうのです。
2/20追記。結構今日の出来事は「映像を作る」という事と社会との関連性におけるメチャクチャ重要な事例だったんですが、まず伊藤詩織監督を告発している彼女のレイプ事件を8年間にわたってサポートしてきた弁護団の会見は予定通り行われました
ここで明らかになったのは
上にも書いたようにこの作品の拙速さは賞レースありきで制作が進んでいた事と書きましたが
今回の会見に関しても、当初2/12に弁護団と伊藤詩織監督の会見が設定されていたにもかかわらず
それが伊藤詩織監督側からキャンセルされたこと。
そのタイミングは、2/18にアカデミー会員による今年のノミネート作品に関する投票があったわけで
その日程ありきだったのかなぁーーーと・・・・・
そして本記事でも書いている伊藤詩織ちゃんの「おんなのこ」性なんですが
それ以上に、あーーーーーそういうことなんだ!!と思ったのは、この会見の後半で
主に海外のメディアの記者の方々との質疑応答のほぼすべてが
「伊藤詩織監督はレイプ被害者として作品を作った。その勇敢さと比べたら、あなた方が
訴えている事はあまり意味がないです」
っいう、勿論「ジャーナリスト」の方々には「映像作品の優劣」は判断できないわけなんで
この「Black Box Diaries」がドキュメンタリー作品としては30点である事をわからないっていう悲喜劇が展開されていて
あー・・・・・・この「映像作品としての倫理性」より「主張の倫理性」
っていう上で書いたような「党派性」
それはつまり、伊藤詩織監督を実質的には最も支えてきた弁護団より
伊藤詩織チャンを「アンチ・トランブ」的なアイコンとして「利用」しよう
そしてマネタイズの手段としようっていうなかなかに香ばしい方々に
詩織チャンは囲われてるし利用されている&彼女自身も利用しようとしているんだなぁ・・・と。
そしてこれもBINGOでした
上の記事で詩織チャンは謝らないだろうなぁ・・・
でもそれは彼女がジャーナリストでも映像監督・作家でもなく
「おんなのこ」だからと書きましたが、ドタキャンされた会見の代わりに
弁護団の会見中に突如として「文書」として出された伊藤詩織チャンの声明・・・・・・・
伊藤詩織記者会見声明(全文) pic.twitter.com/DooRb84gPr
— 有田芳生 (@aritayoshifu) February 20, 2025
これはこの記事で書いてきたそのままの
伊藤詩織チャンの「おんなのこ性」まんまでした。
そして何度も書きますが、それは彼女が彼女自身であるわけで「正しい」のです
この紙切れだけでやり過ごそうってば、これは、うーーーーん言いたくないけど
、でもこれって松本人志氏や中居正広氏といった性加害者と同じATTITUDEなんですよね(泣)・・・これまで誰も日本も含めて世界中で誰も書いていませんが、上で書いたように伊藤詩織ちゃんはジャーナリストではなく基本的に松本人志氏や中居正広氏と同じ「プレイヤー」の人なんです。それが持つ意味は松本人志氏や中居正広氏が「おとこのこ」であつたようにわたしは「おんなのこ」として生きるっていう宣言なんですよ。そんなことは弁護団の方々もわかっていたはずで、それは伊藤詩織という「
「おんなのこ」の本質を見ようとしなかったこと、その人間が持つ本質性について見識が足りなかったと思います。そして繰り返しになりますがそんな伊藤詩織チャンの本質である「少女性」をマネタイズしようとする「映像作品」に関する倫理性を持たない人々、そしてもしかしたらこのレイプ事件以上に彼女の本質に誰も真摯に向き合わないことがこの問題の本質なんだと思います
3/3追記。アガデミー賞受賞はなりませんでした
3/3追記。本日アカデミー賞の発表がありましたが、ドキュメンタリー賞はほんとーーーーに素晴らしい「ノー・アザー・ランド」が受賞、「ブラックボックスダイアリーズ」はノミネートで終わりました。それは勿論、ほぼ日本語によるこの作品のレビューとして唯一「だって・・・作品として30点だもの」と書いた当アカウントのレビューに準拠したものでアカデミーがギリギリのところで「映像作品」に対する誇りを守りました。
てなことは「ブラックボックスダイアリーズ」を見れば一目瞭然なんですが、ほんとーーーに残念なことにとても影響力があるインフルエンサーの方々口々に「ブラックボックスダイアリーズ」は素晴らしい作品!!とおっしゃっていて絶望していました。具体的に言及してしまうと僕もチャンネルの大ファンの津田大介先生のポリタスとか、あの町山智浩先生も絶賛してしまってたんですよね・・・・・・(泣) 実はお二人はとても尊敬する方々なんですが往々にしてそのコンテンツがもつ「作品性」の判断よりそのコンテンツの「社会性」を過大に評価してしまうところがあり、映像制作者としてはそこがほんとーーーーに悲しいんですよね
で!!何度も上のテキストで言ってますがこの「ブラックボックスダイアリーズ」のマズさって徹頭徹尾「おんなのこ」である詩織チャンをマネタイズに使おうとした制作者側、頑なに全ての矢面に伊藤詩織監督をたてて、自らはその説明責任を回避、というかこの作品の「バリュー」はレイプされた性加害被害者である伊藤詩織ちゃん自身なので
マネタイズのために絶対に自らが表舞台に出ようとしなかったプロデューサーを含めた制作陣の「PR戦術」の姑息さにあるわけです。上のテキストでも書いてますが彼女が山口のレイプによって受けた悲しみの代償としてアカデミーのノミネートは全然ありだし、下の貼ったレッドカーペツトでの詩織ちゃんの幸せそうな「おんなこな」笑顔や「最高の思い出」というコメントを見たら、この作品がドキュメンタリー作品ではなく彼女のPR作品だったことは明らかなんです。でもこれは死ぬほど何回も上で書いてますがそれが彼女の本質だしおんなのことして生きる、その意味において絶対的に正しいんです。そういう彼女を「利用」しようとした制作者側やそうした彼女の「本質」を作品から読み取ることができずに「党派性」として称賛している方々の存在が日本発の映像制作のクオリティーを結果として下げちゃってると思います
以前TEASERをご紹介したA24のThe Florida Project TRAILER解禁! おーーなにこのはじめてのおつかい的FRESHな子供映画感!! そこに主演がWillem Dafoe! https://t.co/NFeQHnzlXR
— AIAV(EX-性格良し子ちゃん) (@seikakuyoshiko) August 16, 2017
3/18追記。アカデミー賞を逃してしまったのでようやく伊藤詩織氏側は上記した望月衣塑子女史への訴訟を取り下げました
ほんと詩織ちゃんを利用しようとするマネタイズしかこの「映画の意味」ってなかったと思うし
この期に及んでこうした表明をするならはっきり言ってこの作品を日本国内で上映する意味はほとんどないと思います・・・・
だって何度も言ってますがこの作品は党派性的バイアスを外せば
「ドキュメンタリー作品」としてして稚拙だし卑怯で
でも「おんなのこ映画」としては途轍もなく優れてるんですが
そうしたこの作品のコアが語られることは絶対になくてひたすら
「この作品は"世界的に認められた"国家的権力"と戦った性被害者による感動的ドキュメンタリーです」
っていうナラティブでマネタイズされるのは火を見るより明らかなわけで
そんなキモ過ぎる事態はご勘弁いただきたいと思います
ディスカッション
コメント一覧
映画は観ていないです。レビューを読んでの感想は、とても公平でいて優しい、今の時代に貴重な視点だと思います。
「女の子」「詩織チャン」という表現はジェンダー背別的なニュアンスがあると思いますが、敢えて使っていて、それを正しいと言っていることに人間を捉える感性のの深さを感じます。個人個人を受け止める時、あるは単に「表現者」として素朴にとらえるとき、倫理や論理を逸脱していることを個人的に容認する場面はあります。特に子どもや知的、情緒的にハンディがあったり、発達的に特性がある人だったり、認知症の傾向が現れている人であったり、・・・等など、多少なりともどこかに当てはまる人は少なくないはず。だからこそ、人権や倫理が必要になるのですが、伊藤さんの場合、賛否が霜降り状態で複雑なまま受け入れるしかないように見えます。松本人志らに同じような寛容さを持つ気にはなれませんがそれは私がシスジェンダーの男でフェミニスト寄りの人間だからでしょう。
安易な党派性や原理的な倫理観による断罪にあふれる世の中で、このレビューのようなしなやかさが増えていけばいいと感じました。
橋本様
まだ日本公開されていない中でのフライング的レビューに関して
真摯なテキストをお書き添えいただき心より感謝いたします。
僕はこの「Black Box Diaries」はドキュメンタリー作品としては稚拙な作りだと確信していますが
津田大介氏のポリタスの昨日の動画では「よくできた作品」となっていたりします(泣)
https://www.youtube.com/watch?v=HzY5MhxMSN8
お書きいただいたように性的加害の「サバイバー」は
社会的に「理不尽な重荷」を背負わされてしまった人々とイコールであり
表現者である以上に「個人」である事の尊厳を回復する事こそが重要~正しい事である
という事は理解していますが、
伊藤詩織サンという人を
社会的属性として「ルーキーなジャーナリスト」
レイブ被害者としての「サバイバー」
と「して」カテゴライズした上でのこの作品への評価
それはルーキージャーナリストとしての作品としては20点だし
サバイバーとしての作品としても20点なんです・・・・・
彼女が背負った「性加害」の残酷さ、
それは伊藤詩織監督が背負いきれない事だと思います。
何故なら、この「Black Box Diaries」の全編で自撮りされた彼女は
ジャーナリストでもなく
サバイバーでもなく
徹頭徹尾「おんなのこ」
約束??知らないっす!!!
映画的文法??どーでもいいっす
っていう伊藤詩織という「おんなのこ」的生理だけが記録されているからです。
そしてご指摘いただいたように僕はそれは正しい事だと確信しています。
それなのにお書きいただいた
「安易な党派性や原理的な倫理観」
でしかこの作品を見ない、そしてこの作品によってマネタイズしようと
している人々によって伊藤詩織という「おんのこ」の生と聖と性が
この事件と同じくらい棄損されようとしていることに疑問を感じでの
エントリーをさせていただきました。