セレブリティのセレブリティによるセレブリティのためのROCK MUSIC 傑作 Charli xcx 「 Music, Fashion, Film 」を完全解説レビュー!!

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Charli姐さん、あの10年以上「ムーブメント」を作り出せなかったロック・インディー界隈に
「INDIE SLEAZE」という社会現象を生み出してしまった歴史的傑作「Brat」に続く新作「 Music, Fashion, Film 」

これがセレブリティの、セレブリティによる、セレブリティのためのアルバム

映画でもポップミュージックでもその歴史上あまた作られてきたこうした作品を
僕は

名声系作品

とカテゴライズしていますが

その歴史をほぼ殺しに来たといってもいいまたまたまたまたまたの大傑作に興奮しています!!!!!

Charli xcxの新作『Music, Fashion, Film』は、セレブリティの、セレブリティによる、セレブリティのためのアルバムである。

そしてこれは決して悪口ではない。

むしろ宣言である。

有名になりたい。

誰よりも見られたい。

カメラを向けられたい。

自分の名前が電飾となり、雑誌の表紙となり、映画館のスクリーンとなり、街の広告となり、人々の会話となり、時代そのものになることを夢見る。

そして遂に有名になる。

だが、名声を手にした者は、そこで初めて知る。

自分が欲しかったのは本当に名声だったのか。

それとも名声を手に入れた自分を夢見る、まだ無名だった頃の自分を愛していただけなのか。

スターは名声を愛する。

なぜなら、それこそ自分が望んだものだからだ。

そしてスターは名声を憎む。

なぜなら、それを手に入れた瞬間から、自分が自分だけのものではなくなるからだ。

この愛と憎悪。

欲望と嫌悪。

自己実現と自己喪失。

その巨大な矛盾から、これまで無数の「名声系作品」が生まれてきた。

名声系作品の歴史

ピンク・フロイドの『The Wall』。

パルプの『This Is Hardcore』。

デヴィッド・ボウイの『Station to Station』。

今回のアルバムが最もリファレンスしたのはこれだと思います

ニール・ヤングの『On the Beach』。

エミネムの『The Eminem Show』

そして映画では、フェデリコ・フェリーニの『8 1/2』と、

ボブ・フォッシーの『オール・ザット・ジャズ』。

これらの作品で描かれてきたのは、成功そのものではない。

成功してしまった人間の、その後である。

夢を叶えた者が、叶えた夢によって追い詰められていく。

観客の拍手を欲した者が、やがてその拍手を騒音として聞くようになる。

自分を見てほしかった者が、誰にも見られない場所を探し始める。

だが、そこにもカメラはついてくる。

『8 1/2』の主人公グイドは、フェリーニ自身の分身である。

映画監督として世界的成功を収めた男が、次に撮るべき映画を見つけられない。

女たち、プロデューサー、俳優、批評家、聖職者、家族、少年時代の記憶。

彼を構成してきたすべてが一斉に押し寄せ、作品と人生、現実と妄想、監督と登場人物の境界が崩れていく。

そして最後には、映画そのものが人生となり、人生そのものが映画となる。

主人公は現実を解決しない。

スクリーンの向こう側へ旅立ってしまう。

ボブ・フォッシーの分身であるジョー・ギデオンも同じだ。

『オール・ザット・ジャズ』において彼は、ショーを作り、映画を編集し、女を愛し、薬を飲み、煙草を吸い、自分の肉体を酷使し続ける。

彼は死に向かっている。

それを知っている。

だがショーをやめない。

いや、死さえもショーにしてしまう。

最後の心臓発作さえ、照明と音楽とダンサーを従えた壮大なフィナーレへ変えてしまう。

男たちは名声を得た。

男たちは名声を憎んだ。

男たちは名声から逃げようとした。

そして最後には、スクリーンの向こう側へ、涅槃へ、死へと旅立っていった。

名声系作品の歴史とは、ほとんど常に、この男性的敗北の歴史だった。

見られることを望みながら、見られることに耐えられなくなる。

世界を支配したいと望みながら、世界に自分を支配される。

スターになりたいと願い、スターになった後で、人間に戻りたいと願う。

だが戻る場所は、もうどこにもない。

だから男たちは壁を築いた。

人格を分裂させた。

ドラッグに溺れた。

ホテルに閉じこもった。

宇宙人になった。

独裁者になった。

悪魔になった。

そして死んだ。

そこへCharli xcxが現れる。

彼女は問う。

**男たちは名声に敗北した。
でも、女はどうなると思う?**

男は名声に敗北した。では女はどうなると思う?

ここに『Music, Fashion, Film』の決定的な新しさがある。

これは名声を拒絶するアルバムではない。

名声の醜悪さを暴露し、「本当の私はこんなものを望んでいなかった」と告白するアルバムでもない。

スターであることを脱ぎ捨てて、素朴な本当の自分へ帰ろうとする作品でもない。

そもそもCharli xcxは、「本当の私」と「スターとしての私」を簡単に分離することを拒否する。

カメラの前にいる自分。

雑誌に映る自分。

ファッションショーに招待される自分。

映画に出演する自分。

人々から商品として消費される自分。

それらすべてを偽物と呼び、カメラの外側にだけ純粋な自分が存在すると考えるほど、彼女はナイーヴではない。

むしろ彼女は言う。

カメラが回っているときに生まれる感情も、私の感情だ。

見られているときに出現する私も、私だ。

それによってしか得られない興奮がある。

それによってしか成立しない人格がある。

それによってしか到達できない生がある。

収録曲「Camera」の核心にあるのは、まさにこの感覚である。

この曲が今作のテーマ曲であり世界観のコアになっています。冒頭に張ったメイキングドキュメンタリーでこのMVのイメージはジェームスディーンの・・とCharliが説明していますが「撮影中の死」というディーンの死をトリガーとしてMV自体は完全に8 1/2の"逆"オマージュです

彼女はカメラの作用を理屈で説明しない。

正しいとも、間違っているとも言わない。

ただ、それが自分をどう感じさせるかを知っている。

そして最後に残るのは、ただこの言葉だ。

I can be anything that I wanna be
And I can feel the things I don’t normally feel
Yeah, I can finally be totally honest
It’s like I’m looking down the barrel of a gun (Fucking shoot me)
I don’t feel embarrassed even if I suck
I’m always craving an experience that feels dangerous
And maybe this is it, maybe it’s what I need
'Cause it’s the only way to feel like I’m not actually me

(from「camera」)

カメラが回ったとき。

ワタシはワタシにもなれるしワタシにならないこともできる

これは告発ではない。

敗北でもない。

宿命として引き受けるという表明だ。

名声によって本当の自分が奪われたのではない。

名声によってしか現れない自分がいる。

カメラは彼女を搾取する装置であると同時に、彼女を発生させる装置でもある。

それは彼女を客体化する。

だが同時に、彼女はその客体化を利用し、自分自身を演出し、増殖させ、世界へ送り返す。

見られる女であることと、見せる女であること。

撮られる女であることと、画面を支配する女であること。

商品であることと、商品の意味を設計する作者であること。

そのすべてを同時に引き受ける。

ここが、ほぼ男性によって作られてきた従来の名声系作品と決定的に異なる。

男たちはカメラを自分たちの権力だと思っていた。

だから、そのカメラが自分たちへ向けられた瞬間、耐えられなくなった。

撮影する側だったはずのフェリーニとフォッシーの分身たちは、いつの間にか撮影される側になっている。

世界を演出していたはずの男が、世界によって演出されている。

その逆転が彼らを破壊する。

だが女性スターは、最初から見られる存在として作られてきた。

身体を見られる。

服を見られる。

顔を見られる。

年齢を見られる。

恋愛を見られる。

成功を見られる。

失敗を見られる。

痩せた、太った、老けた、若作りした、露出した、隠した、売れた、落ちた。

女性セレブリティは、その存在の最初から最後まで、カメラの視線によって測定され続ける。

だからCharli xcxにとって問題なのは、カメラから逃げることではない。

逃げられると信じることこそ、男性的特権の幻想だからだ。

彼女の回答は別の場所にある。

逃げない。

カメラを止めない。

視線を拒絶しない。

視線のなかで自分が変形することを恐れない。

そして、自分を映す装置そのものを、自分の表現へ奪い返す。

それが『Music, Fashion, Film』なのである。

生き延びたセレブリティとしてのジョン・ケイル、マーク・ジェイコブス、マーティン・スコセッシ

そして、そのアルバムジャケットに置かれたのが、ジョン・ケイル、マーク・ジェイコブス、マーティン・スコセッシである。

Music。

Fashion。

Film。

三人の男。

三つの産業。

三つの名声。

彼らはそれぞれの領域で、巨大な評価と影響力を獲得した。

そして何より重要なのは、彼らが**生き延びた者たち**だということである。

アルバムのカバーにはCharli自身がいない。代わりに、それぞれ音楽、ファッション、映画を象徴する三人の男性が座っている。写真はエイダン・ザミリによるものだ。

これは単なるレジェンドへの敬意ではない。

Charli xcxは、自分より先に名声という危険地帯を歩き、そこで数十年を生き延びた男たちを配置する。

だが同時に、その画面の中心から自分自身を消す。

三人の偉大な男たちを表紙に置きながら、その表紙を自分のアルバムとして所有する。

彼らは歴史である。

だが、その歴史をフレーミングしているのはCharli xcxだ。

ジョン・ケイルの音楽史。

マーク・ジェイコブスのファッション史。

マーティン・スコセッシの映画史。

その三つを彼女は自らのアルバムタイトルの三単語として回収する。

男たちが作ってきた名声についての物語は、本当にすべてだったのか。

有名になった人間は、必ず名声を憎まなければならないのか。

スターは必ず最後に壊れなければならないのか。

名声を愛し続けることは、浅薄なのか。

カメラを欲望し続けることは、敗北なのか。

「見られたい」と言う女は、なぜ愚かだとされるのか。

Charli xcxは、三人の生き延びた男たちを並べることで、名声系作品がほとんど男性によって作られてきたという事実を突きつける。

そして、その系譜を否定するのではなく、正面から接続し、その中心へ自分を挿入する。

彼女は「女性版『8 1/2』」を作ったのではない。

「女性版『オール・ザット・ジャズ』」を作ったのでもない。

そのように呼んだ瞬間、また男性作品が原型であり、女性作品はその派生だという古い構造に戻ってしまう。

そうではない。

『Music, Fashion, Film』は、『8 1/2』や『オール・ザット・ジャズ』が提示した名声の物語に対して、半世紀以上遅れて届いた反論なのだ。

男たちはこう言った。

名声は私を破壊した。

Charli xcxはこう答える。

それで?

男たちはこう言った。

カメラによって本当の自分を失った。

Charliは答える。

カメラの前にいる私は、なぜ本当の私ではないの?

男たちはこう言った。

ショーを続ければ死んでしまう。

Charliは答える。

では、死なずにショーを続ける方法を作ればいい。

ここで最終曲「No One Lasts Forever」に、デヴィッド・クローネンバーグが登場する。

クローネンバーグは、身体がテクノロジーと結合し、人間が欲望によって変異し、メディアが肉体の内部へ侵入してくる映画を撮り続けてきた監督である。

そして『マップ・トゥ・ザ・スターズ』では、ハリウッドという名声製造装置を、成功者たちが互いを食い潰す悪夢として描いた。

そのクローネンバーグが、アルバム最後の「No One Lasts Forever」で声を発する。この曲が作品の終点であり、彼のスポークンワードが「永続する者はいない」という主題をアルバムへ持ち込む。

誰も永遠には続かない。

美貌も。

若さも。

流行も。

キャリアも。

身体も。

名声も。

Charli xcxも。

だが、ここでも重要なのは、終わりが敗北を意味しないということだ。

これまでの男性的名声系作品では、「永遠には続かない」という認識は、しばしば絶望へ直結した。

肉体は衰える。

才能は枯れる。

観客は離れる。

だから破滅する。

だから死ぬ。

だからスクリーンの向こう側へ消える。

しかし『Music, Fashion, Film』は、その無常をもっと冷静に、もっと物質的に、もっとポップに引き受ける。

誰も永遠には続かない。

だから何だ。

永遠でなければ、価値がないのか。

終わるから、始めてはいけないのか。

消費されるから、輝いてはいけないのか。

老いるから、カメラの前に立ってはいけないのか。

最後に死ぬから、生きている間にスターになってはいけないのか。

むしろ永遠ではないからこそ、カメラを回す。

永遠ではないからこそ、服を着る。

永遠ではないからこそ、音を鳴らす。

永遠ではないからこそ、映画を撮る。

永遠ではないからこそ、今ここにいる自分を最大限に演出する。

フェリーニの分身はスクリーンの向こう側へ消えた。

フォッシーの分身はショーの果てに涅槃へ旅立った。

Charli xcxは消えない。

少なくとも、自分から消えることを美学にはしない。

死をロマンティックな最終公演へ変えることもしない。

カメラの外側に救済を求めない。

カメラが回っている。

だから私はここにいる。

カメラが回っている。

だから私は感じる。

カメラが回っている。

だから、普段とは違う私が現れる。

そして、その私もまた私である。

彼女は名声と戦わない。

名声を飼い慣らすとも言わない。

名声と融合する。

欲望される身体、撮影される身体、商品化される身体、演技する身体、老いていく身体。

そのすべてを自分の制作環境として受け入れる。

クローネンバーグ的に言えば、カメラはもはや外部の機械ではない。

身体の一部である。

レンズは新しい眼球である。

スクリーンは新しい皮膚である。

名声は病気ではない。

名声は臓器である。

切除すれば、本当の人間に戻れるような腫瘍ではない。

それを含めて、すでにCharli xcxという生命体は成立している。

だから『Music, Fashion, Film』は、自己告白アルバムではない。

自己憐憫アルバムでもない。

名声批判アルバムでさえない。

これは**セレブリティ存在論**である。

スターとは何か。

見られるとは何か。

商品になるとは何か。

自分を演じるとは何か。

カメラの前でしか生まれない感情は、本物なのか。

演技によって作られた人格は、偽物なのか。

世界が欲望する自分を、自分自身も欲望することは罪なのか。

Charli xcxは答える。

それが私を感じさせる。

それがあなたを感じさせる。

その感情が反復し、増幅し、誰のものか分からなくなる。

私がカメラを欲望しているのか。

カメラが私を欲望しているのか。

観客が私になりたいのか。

私が観客の欲望になりたいのか。

境界は消える。

だが、彼女はその境界消失を恐怖映画にしない。

ポップミュージックにする。

『8 1/2』では、人生が映画に飲み込まれた。

『オール・ザット・ジャズ』では、人生がショーに飲み込まれた。

『Music, Fashion, Film』では、人生と作品と商品とスターを区別する必要そのものが消滅する。

それらは最初からひとつなのだ。

音楽。

ファッション。

映画。

身体。

カメラ。

名声。

死。

私はスターになりたかった。

私はスターになった。

私はスターであることを愛している。

私はスターであることを憎んでいる。

そのすべてが同時に真実である。

矛盾を解消する必要はない。

どちらか一方を本心と呼ぶ必要もない。

愛と憎悪の両方を抱えたまま、カメラの前に立てばいい。

男たちは、その矛盾に耐えられず、自分を二つに割った。

人間とスター。

本物と偽物。

監督と俳優。

生とショー。

Charli xcxは割らない。

全部、私。

全部、本物。

全部、商品。

全部、作品。

そして全部、いつか終わる。

**No one lasts forever.**

誰も永遠には続かない。

だが、誰も永遠には続かないことと、今カメラの前に立つことは、何ひとつ矛盾しない。

むしろ逆だ。

永遠ではないから、今、撮れ。

永遠ではないから、今、見ろ。

永遠ではないから、今、輝け。

Charli xcxは『Music, Fashion, Film』で、ロック史と映画史が半世紀以上にわたって繰り返してきた名声の悲劇を書き換える。

名声は男を破滅させた。

では女は?

女は名声から逃げない。

名声によって壊された被害者を演じるだけでもない。

名声の視線を自らの視線へ折り返し、カメラを見返し、撮られている自分を撮影し、消費される自分を作品化し、商品となった自分の値札さえデザインする。

男たちはスクリーンの向こう側へ消えた。

Charli xcxはスクリーンのこちら側に残る。

いや、こちら側と向こう側の両方を占領する。

そしてカメラが回る、その瞬間に言う。

私はここにいる。

これが私だ。

撮り続けろ。

これをROCK MUSICと言わずなにをROCKというのだろう? 傑作だと思います!!!

Posted by nolongerhuman