孤高のダンスミュージック Dayoung(ダヨン)新曲「What’s a girl to do 」考察・レビュー
奇跡の、というか奇跡だからイコール「POP」ということだけど
途轍もなく素晴らしいPOP ANTHEMだったソロデビュー曲「BODY」が大ヒット!!!
でKPOP大学では日本語による唯一の超ーーーー深掘りレビューをリリース直後に行いましたが
そんなDayoung/ダヨン様がカムバ!!!
なぜ彼女のパフォーマンスには鬼気迫る迫力があるのか?
dayoungのソロカムバ曲「What’s a girl to do」で起きていることは、ただ一曲の完成度が高い、という話ではない。もっと奇妙で、もっと切実で、もっとK-POPというシステムの深部に食い込んだ出来事だ。彼女はここで、K-POPが本来持っていたはずの「歌い、踊り、像となる」という総合芸術性を、ほとんど最後の一人のような切迫感で引き受けている。
なぜなら、いま“ソロアーティストとして、ここまでダンスパフォーマンスを極めながら、それでもなお歌う”という地点に立てる人間は、ほとんど存在しないからだ。多くは歌へ行く。あるいはダンスへ行く。あるいはヴィジュアル、コンセプト、ムードへと分散する。だがdayoungは違う。彼女はそのどれかを選ばない。むしろ全部を抱えたまま、身体そのものを極限まで追い込む。そこにあるのはバランスではない。均整でもない。むしろ危ういまでの過剰だ。その過剰さこそが彼女を唯一無比にしている。
まるで映画「BLACKSWAN」のように
そして彼女の凄みは、単に「踊れる」のではなく、その踊りに常にある種の“影”が差していることだ。ここが重要だ。dayoungのパフォーマンスには、勝者の余裕がない。征服者の快楽もない。そこに漂っているのは、もっと内向きな、もっと痛々しい、孤独の気配である。まるで誰かに見せるために踊っているのではなく、踊らなければ自分が壊れてしまうから踊っているような切迫。そこに映画『BLACK SWAN』的なshadowが差し込む。完璧へ向かう意志が、そのまま自己を裂いていくあの感じ。美しさが上昇ではなく、亀裂として現れるあの感じ。dayoungの身体は、この曲のなかでまさにそれを生きている。
孤独=孤高、その高みへ!
「What’s a girl to do」というタイトル自体、どこか問いの形をしていながら、実際には答えへ向かっていないのもいい。これは“どうすればいいの?”という相談ではなく、“こうするしかなかった”という告白に近い。girlという語の軽やかさの裏に、選択肢のなさが潜んでいる。そしてdayoungはその選択肢のなさを、悲劇としてではなく、パフォーマンスへ変換してみせる。ここに彼女の恐ろしさがある。傷を物語にするのではなく、傷のまま踊る。癒えないものを癒えないまま形式へ押し上げる。そのときステージは、自己表現の場ではなく、殉教の場へと変わる。
殉教者的、という言葉をあえて使いたいのはそのためだ。彼女の没入はプロフェッショナルの域を超えている。ただ上手いのではない。ただ努力家なのでもない。もっと危険な、もっと美しい、自己消費のニュアンスがある。自分を燃料にしている感じ。K-POPという巨大な光の装置のなかで、普通なら照明に回収されてしまうはずの痛みや翳りが、dayoungの場合は消えずに残る。いや、残るどころか、その翳りこそが彼女の輪郭になっている。光の中でしか見えない闇。エンターテインメントの形式を借りながら、実際にはきわめて私的な深淵が剥き出しになっている。そのアンバランス、その危うさ、その気高さが、彼女を“ただの優れたソロ”では終わらせない。
つまりこの曲は、dayoungというアーティストの特異性を改めて証明する一曲なのだ。歌とダンスを両立する、などという凡庸な言い方では全く足りない。彼女は歌いながら踊っているのではない。踊りのなかで歌が削られ、歌のなかで身体が追い詰められ、その両方がギリギリの地点で一つの人格を立ち上げている。その人格は、明るく愛されるアイドルの延長ではない。むしろ孤独を踊る者、誰とも群れず、誰にも救済されず、それでもステージの中心でたった一人、完成へ向かって自分を差し出し続ける者の姿だ。
傑作だと思います!!!











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