公開延期が妥当な「失敗作」か?それともスピルバーグ版「夢映画」か? 「ディスクロージャー・デイ」完全考察レビュー!!!

XR映画レビュー

あまりにもあまりにもこのTRAILERが素晴らしかった事と
やはりあのスピルバーグ監督が満を持して撮るUFO映画ということで
以前こーーーいう記事を書きました・・・・・・・・・

そしてほんとーーーーーーーーーーーーに申し訳ございません・・・・・・

上の記事で書いた

日本の配給会社が「ディスクロージャー・デイ」の公開延期を決めたのは
あまりにも素晴らしい作品すぎるのでPR戦略を練り直すために延期にしたに違いない!!
なのに配給会社をディスりまくる「洋画ファン」の方々ってなんなん?????説

見事なまでに間違ってました(泣)

えーーー・・・・・・「ディスクロージャー・デイ」見ました・・・・・

こーーーーーーれは所謂「物語映画=スピルバーグ映画」としては

信じられないくらいの大失敗作でした・・・・・

いやーーーーー・・・・そりゃ配給会社の方も完全に唖然として「ヤバい・・・・・」と絶対に思ったでしょう・・・・・

そりゃ大作ひしめくこの時期に公開は絶対にできなかったでしょう・・・・・・・・・・・

というかこれ?!?黒歴史としてなんとかかんとか理由をつけて劇場公開はしない方向にできないものか・・・・・・・・

と考えてもいたしかたない

「物語映画=スピルバーグ映画」としてはちょっと信じられないくらいの完全な失敗作

なことに衝撃を受けました。

「物語映画=スピルバーグ映画」なんていうややこしい表記をしている詳細は上のリンク記事を読んでいただくとして

ここまで酷い「物語映画」が公開されることなんて現在はもちろん映画史的にも中々ないことで

スピルバーグ映画ということで「通って」しまったんだと思いますが

というか逆にいまだに"スピルバーグブランド"ってあるんだ?!?!?ということに驚くほどの失敗作なわけですが(泣)

ただ!!!!!ただですねーー、ここまで完膚なきまでに物語映画として思いっきり失敗してる作品が世に放たれるって中々なくて

そのあまりの失敗っぷりに意味があるというか、この「ディスクロージャー・デイ」

今後映画史的に見て二つの意味を持つと思います。

一つはワナビー映画監督・脚本家に

物語映画として成立していないとはこーーいうこと

という究極の反面教師映画の金字塔として

こういう書き方だと皮肉だととられるかもしれませんがそうではなくドストレートに「物語映画」として失敗するとはどういうことか?の全ての症例が入っているんですよ

そして!!!ここからが上のリンク記事もですがずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと

物語映画こそが「映画」を殺してしまった

という事を書き続けている当アカウント的には重要なんですが

この「ディスクロージャー・デイ」の意味・本質とは

この作品はスピルバーグ版の「夢」映画だ

ということ。

今年スピルバーグ監督は御年80歳を迎えます。

そしてそれは映画史的な「奇跡」といってもいいと思いますが

黒澤明監督が「夢」を公開したのとまったく同じ年齢であることを意味します

そうなんですよ・・・・・・・この多分というか既に公開された海外では「最低映画」として酷評されている

このガーディアンのレビューは「正直レビュー」なんですが、結構というかかなり今回「ヨイショ」レビューだらけで観客レビューと全く真逆なメディア状況なのはなかなか恐ろしいなぁ・・・「ディスクロージャーディ」のテーマである陰謀論ばりの事態ジャン!!だと思います

「ディスクロージャーディ」驚くほど黒澤監督の「夢」にそっくりなんですよ!!!!

スピルバーグ的「映画」がどこにも存在しない「ディスクロージャー・デイ」の謎

スピルバーグ最新作『ディスクロージャー・デイ』を、ただの「物語映画」として見たら、たぶんこれは大失敗作である。

なぜなら、この映画には、われわれがスピルバーグに期待してきた、あの完璧な起承転結がないからだ。

『ジョーズ』のような恐怖の設計図もない。
『未知との遭遇』のような、五音階の旋律によって宇宙と人類がつながる、あのとてつもないカタルシスもない。
『E.T.』のように、少年の孤独と異星人の孤独が一点で結晶化する、あの涙の幾何学もない。

実際、Guardianは『ディスクロージャー・デイ』について、観客の反応がかなり割れていること、CinemaScoreがBで、
スピルバーグ作品としてはかなり低い部類であること、
さらに脚本が「薄く、恣意的に見える」と批判している。
Rotten Tomatoesでも、観客評には「物語が迷走している」「ラストがひどい」「もっと良い終わり方がほしかった」という反応が並んでいる。

でもそうした批評はこの作品の本質を射抜いてはいない

なぜなら『ディスクロージャー・デイ』は、『未知との遭遇』や『E.T.』ではないからだ。
この映画の本質とはそれらの傑作物語映画の真逆にある映画、黒澤明の『夢』なのだ

黒澤明はなぜ80歳で「夢」を撮ったのか?

黒澤明が80歳で『夢』を撮った。
スピルバーグもまた80歳を目前にして、ついに『ディスクロージャー・デイ』を撮った。
この符合は偶然ではない。
いや、偶然であったとしても、映画史においては奇跡である。

『夢』とは、物語ではない。
『夢』とは、説明ではない。
『夢』とは、起承転結ではない。
『夢』とは、天才的物語映画作家が、自分の内側に沈殿していた幼年期、戦争、罪悪感、芸術への憧れ、核への恐怖、文明への警告、
自然回帰への祈りを、そのまま映像としてスクリーンに投げ出した作品だった。

つまり黒澤は、映画で物語を語ったのではない。
映画そのものを夢に戻したのである。

『ディスクロージャー・デイ』の作品構造を解読する

そして『ディスクロージャー・デイ』で、スピルバーグもまた同じことをしている。

この映画の時間は、奇妙にぼんやりしている。事件は起きる。追跡もある。陰謀もある。エイリアンもいる。
政府も企業も秘密を抱えている。だが、そのどれもが、本来のスピルバーグ映画ならば必ず持っていた、あの黄金の物語推進力へと結晶しない。

むしろ、場面と場面は、夢のようにつながる。
なぜここにいるのか。
なぜこの人物は知っているのか。
なぜこの映像が世界を変えるのか。
なぜこのラストに至るのか。

説明はある。だが説明が説明として機能しない。
これは脚本の失敗なのか?
もちろん、物語映画としてはそう言える

しかし、ここで視点を反転させるべきなのだ。

これは「説明できない映画」なのではない。
これは「説明から逃げ出した映画」なのだ。

つまり『ディスクロージャー・デイ』は、スピルバーグが撮ってしまった反スピルバーグ映画なのだ

『未知との遭遇』のラストは、人類映画史上もっとも美しい“接触”のカタルシスだった。
光。音。宇宙船。旋律。子どものような驚き。
そこでは、異星人とは未知ではあるが、最終的には人類の憧れを受け止めてくれる存在だった。

だが『ディスクロージャー・デイ』のラストは違う。
そこには、あの昇天するようなカタルシスがない。
むしろ、あえてカタルシスが剥奪されている。

隠されていた真実がついに公開される。
なのに、観客は救済されない。
拍手するべきなのか、泣くべきなのか、信じるべきなのか、笑うべきなのか、わからない。

これは失敗ではない。
これは極めて「夢」的アンチクライマックスなのだ

「夢映画」というSiamese Twins

そしてこの『ディスクロージャー・デイ』において実は

エイリアンとは、未知なる他者のことではない。

エイリアンとは、映画史の地下室に閉じ込められていた“夢映画”そのものの暗喩なのである

映画史は、最初から双子だった。

一方には、物語映画がいた。
もう一方には、夢映画がいた。

リュミエールの現実。
メリエスの夢。
記録する映画。
変身する映画。
社会を写す映画。
無意識を映す映画。

この二つは、映画誕生の瞬間から、シャム双生児のようにくっついていた。

だが20世紀後半、ハリウッドの巨大化とともに、物語映画だけが肥大化した。
三幕構成。キャラクターアーク。伏線回収。観客満足度。テストスクリーニング。フランチャイズ。IP。ユニバース。
その巨大な物語映画の肉体の影で、夢映画は少しずつ窒息していった。

そして、その物語映画の王こそが、スティーヴン・スピルバーグだった。

だからこそ重要なのだ。
映画史最大の物語映画監督が、晩年に、物語映画から脱落し、夢映画へ接近しているということが

これは宮崎駿の『君たちはどう生きるか』とも響き合っている。

あの映画もまた、物語映画としては奇妙だった。説明不足で、飛躍が多く、世界のルールが安定せず、主人公の心理も一直線には進まない。だが、だからこそあれは、宮崎駿が自分の幼年期、母、戦争、読書体験、スタジオジブリ、後継者問題、死後の世界、創作の罪を、すべて夢の構造に沈めた映画だった。

黒澤明の『夢』。
宮崎駿の『君たちはどう生きるか』。
そしてスピルバーグの『ディスクロージャー・デイ』。

ここには、晩年の巨匠たちが、物語映画の檻を壊し、もう一度、映画を夢へ返そうとする巨大な運動がある。

では『ディスクロージャー・デイ』のラストで、世界中にディスクローズされたものは何だったのか?(ネタバレあり!!!!)

表面的には、それはエイリアンの映像である。
政府と企業が隠してきた、地球外生命体の存在である。

しかし、本当に公開されたのはエイリアンではない。

本当にディスクローズされたのは、映画史が隠し続けてきたもうひとつの映画、すなわち夢映画の存在なのだ

観客はずっと、物語を見に来たつもりだった。
スピルバーグの新作を見に来たつもりだった。
宇宙人映画を見に来たつもりだった。
『未知との遭遇』の再来を見に来たつもりだった。

だがスクリーンの最後に現れたのは、物語の完成ではなかった。
それは、物語が溶けたあとの、夢の映像だった。

だから観客は怒る。
「ラストが弱い」と言う。
「説明不足だ」と言う。
「スピルバーグらしくない」と言う。
「昔のほうがよかった」と言う。

その通りだ。
これは昔のスピルバーグではない。
これは、スピルバーグが自分自身の神話を解体し、自分が築き上げた物語映画帝国の地下から、封印されていた夢映画を掘り起こした作品なのだ。

本編中のCGが酷いとかラストのGREYのショボさがどれだけ予算がない作品なの?!?!とかディスられてますが「夢」的表層なんだもの

そして最後の問いが残る。

ラストシーンで、エミリー・ブラントにグレイは何をつぶやいたのか?

映画は、それを彼女が口にする寸前で終わる。
つまり、言葉はディスクローズされない。
真実は開示される寸前で、観客の側に預けられる。

だが、もう明らかだろう。

彼女が口にしようとしていた言葉。
物語映画の終わりに、夢映画がついに発する言葉。
映画史の地下室から、80歳のスピルバーグが掘り出した最後の一言。

それは――

「全ては夢なの」

これは「夢オチ」ではない。
断じて違う。
それは安っぽいどんでん返しではない。
むしろ逆だ。

「全ては夢なの」とは、物語を否定する言葉ではない。
映画を、そのもっとも古い場所へ返す言葉である。

映画は最初から夢だった。
光が暗闇に投影され、人々が同じ幻を見る装置だった。
スクリーンとは、巨大な睡眠だった。
観客とは、同じ夢を見るために集まった群衆だった。

その夢を、20世紀の物語映画は、あまりにも上手に、あまりにも強く、あまりにも産業的に管理しすぎた。
だから21世紀の終わりが見え始めた場所で、黒澤も、宮崎も、スピルバーグも、もう一度そこへ戻ろうとしている。

起承転結の前へ。
脚本術の前へ。
IPの前へ。
批評家の点数の前へ。
観客満足度の前へ。
映画がまだ、ただの夢であった場所へ。

だから『ディスクロージャー・デイ』とは、エイリアン映画ではない。

これは、スピルバーグが世界に向けて行った、最後のディスクロージャーである。

われわれが隠していたものは宇宙人ではない」
「われわれが隠していたものは、映画そのものの夢だったのだ」

だからこの映画は、物語映画としては失敗作かもしれない。
だが、夢映画としては、あまりにも美しい事件である。

黒澤明が『夢』で20世紀への遺言を残したように、
宮崎駿が『君たちはどう生きるか』で自分の創作世界を葬送したように、
スピルバーグは『ディスクロージャー・デイ』で、自分が完成させてしまった物語映画の神殿に、ひそかに火を放った。

そして、その炎の中から現れたグレイは、こう囁く。

「目を覚ますな。映画とは、まだ夢であっていい」

2026年最大の問題作、それが「ディスクロージャー・デイ」という作品の正体なのだと思います

Posted by nolongerhuman