ドナルドトランプとはポップミュージックの「シャドウ」である。氏の大統領再選がもつ意味
ドナルドトランプがカマラハリスに大差をつけての大勝利
大統領に再選されましたが、どうもこの再選に関して、そして
ドナルドトランプという存在がほんとうに持つ意味、
それもポップミュージックとの関係においてどのような意味性をもつか?について
全くテキストが書かれないので書いています。
ドナルド・トランプとは、ポップミュージックという一見無邪気で多様な表現の場における「シャドウ(影)」の象徴です。
ユング心理学における「シャドウ」とは、人の内面に抑圧された欲望や否定的な側面、見たくない部分を指します。
ポップミュージックにおける「シャドウ」としてのトランプの存在は、
その影響力、価値観、そして物議を醸す発言や行動が、
どのようにしてこのジャンルの根底に潜む矛盾や内面の葛藤を浮かび上がらせたかを示しています。
ポップミュージックは一般的に、愛、自由、個人の表現、多様性の受容といった理想を掲げています。
しかし、トランプという存在はこれらの理想を直接的に挑発し、
その裏側に隠れたポップ文化の矛盾や未解決の問題を照らし出しました。
トランプの政治活動や発言は、多くのアーティストやファンが掲げる進歩的な価値観と相反するものであり、
ポップミュージックという「良心」にとってのシャドウとして機能しています。
彼の台頭は、ポップミュージックが真に「リベラル」な価値観を守り続けているか、
またその価値観が表面的なものに過ぎないのではないか、という疑問を生じさせます。
例えば、彼の政治キャンペーン中には、多くのアーティストが彼の発言に反発し、抗議の意思を表明しました。
エミネム、レディー・ガガ、ビヨンセなど、多くの大物アーティストがトランプの価値観に対抗する姿勢を示し、
彼に反発する楽曲やパフォーマンスを通じてメッセージを発信しました。
しかし、こうした反発が一方で商業的な効果を狙ったもの、
すなわち「ポップカルチャーの一部」として利用されているという側面もあります。
トランプという人物がポップミュージック内で「シャドウ」として存在することで、
私たちはこのジャンルが抱える商業的な矛盾や、
価値観の表明がどこまで純粋なものであるかについて考えざるを得ません。
また、トランプの政治的台頭は、社会の中で
ポップミュージックが「逃避」の手段として利用されているという事実をも露呈させました。
ポップミュージックは、しばしば現実からの逃避や、短期間の幸福を提供する手段として消費されていますが、
トランプがアメリカ社会に分断と不和をもたらす過程で、
このジャンルが必ずしも現実問題に向き合っていないことが明らかになりました。
これは、トランプという「シャドウ」がポップミュージックに暗い影を落としただけでなく、
ジャンル全体が「エンターテインメント」としての役割を果たす一方で、
時に現実から目を背けてしまう側面を示唆しています。
トランプはまた、ファン層に強烈な分断を生み出しました。
ポップミュージックのファン層の中には、彼を支持する人もいれば、彼を激しく批判する人もいます。
このように、トランプが「シャドウ」としてポップミュージックに入り込むことで、
アーティストやファンが抱える価値観の不一致が表面化し、
ジャンルの内部での葛藤が浮き彫りにされています。
最終的に、トランプの存在は、ポップミュージックという世界が「影」を持つことを否応なしに思い出させます。
それは、ポップが表面的に「自由」や「平和」を歌う中で、
内に抱える商業主義や二重基準を反映する「シャドウ」なのです。
このシャドウは、私たちにとって不快であるかもしれませんが、
内省のきっかけともなり、ポップミュージックの真の価値を再評価させる機会を与えているのです。
近年あらゆる世代に刺さるようなポップソングが生まれにくくなっているのは
SNSの発達によって音楽メディアのプラットフォームが分散したせいだという声があがります。
もちろんそれも一因ですが、もっと根本的には今の代表的なポップ・ロックアーティスト達が
トランプという「シャドウ」に対して本当の意味で向き合っておらず
あらゆる人々の心の奥底にまで辿り着くための楽曲を制作できていないからなのではないでしょうか?
シャドウに対して自我はどのように取り組むべきか?を赤裸々に描いたのは
チャック・パラニューク原作の映画「ファイトクラブ」でした。
“Fight Club: Carl Jung’s warning for a lost generation"
私たちそしてポップミュージックはこの映画のエンディングの意味をもう一度深く考え直す時なのです。
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