八王子ライオット!! 深田萌絵女史VS萩生田光一衆議院議員事変をポップカルチャーの視点で完全考察
POPだなぁーーーーーーー!!超ーーーーーポップ!!!!!
この深田萌絵女史による
「ワタシは萩生田光一衆議院議員による脅迫を受けた!!!!」
として八王子警察署へと被害届提出する生配信
こーーーれ完全にリュックベッソン監督の最高傑作映画
「THE MESSENGER」、邦題「ジャンヌダルク」の
この美しくそして勇敢な
「生と聖と聖」の発露
この100年間の映画史の十字架として刻まれた奇跡のシーンまんまじゃないですか・・・・・・
もちろん、この深田萌絵女史の駆け込み訴えとジャンヌダルクの駆け込み訴えには明白にその思想性において違いがあります。実はこの「相違」こそが2000年代のSNS・インフルエンサーERAの実存性とは何か?という問いのコアなので、ここをこの記事でポップカルチャーの視点から完全に解説させていただきます
目次
深田萌絵女史VS萩生田光一衆議院議員事変って何?という方々へ
深田萌絵・・・・・・
萩生田光一・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ってだけでトホホみやクセが強すぎてご勘弁という方々は前提として
これってなんなん??について完璧にまとめられたこちらのNOTE記事をまずご参照ください
有料記事ですが筆者の方の編集力が凄すぎですので必読です!!
「政治という名の宗教の喪失、そしてジャンヌとしての深田萌絵」
この国は、もう政治を信じていない。いや、それ以前に政治という営みがかつて持っていた“霊性”——それがとっくの昔に腐敗し、
失われたという事実に、我々はようやく無意識下で気づき始めたのだ。
萩生田光一——自民党清和会という黒いバベルの塔の住人。統一教会との親密さ、そして裏金の山。
「信じるに値しない言葉」の象徴として、彼の存在は異様なほど象徴的である。
かつて政治家とは**「この世に神を顕現させる者」であった。そのコトバは法となり、法は社会を形作った。
しかしこの30年、政治家の言葉は徐々に「弁解」と「方便」と「粉飾」と「逃亡」の塊になっていった。
霊的な輝きどころか、むしろ世俗の最も醜悪な泥水を浴びせる役割へと堕ちてしまった。
だが、人間はコトバに霊性を求める存在である。
宗教はすでに機能していない。政治も信用されていない。だが、人々の魂の飢えは終わらない。
それゆえに、新たなジャンヌが必要だった——深田萌絵という名の、
この国のあまりに矛盾した全てを一身に受けてなお叫ぶ“巫女”の存在が。
八王子ライオット、その時アスファルトの街角が祭壇へと変わった。
彼女はマイクを握るのではなく、神託を授かったように言葉を吐き出した。
彼女の言葉は政策でもなければ、公約でもない。
それは「告発」と「預言」であり、もっと言えば、新しい神話の始まりだった。
「FOLLOW ME!!」
それはルフィの叫びではない。トランプの演説でもない。ジャンヌ・ダルクがフランスの土を踏みしめた時、彼女が神から与えられたという
“最後の祈り”。それがいま、日本の街角で蘇ったのだ。
深田萌絵という存在は、政治ではない。彼女はもう政治の次元では語れない。
それはすでに、宗教の空白を埋める“劇場型神話”なのだ。
そしてそれは、選挙という制度の上にかろうじて乗っているだけの、異形の神託の装置なのである。
この国は怒っている。政治のコトバに裏切られ、宗教のコトバを失い、そして自らが自らにコトバを与えるしかなくなった民衆が、
最後に「ジャンヌ」を召喚した。
それが、深田萌絵という現象である。
「陰謀論という名の物語、それは死にかけた魂が書き換える新約聖書である」
誰が言った?
「陰謀論にはエビデンスがないからダメなんだ」と。
——違う。根本的にズレている。
陰謀論とは“情報”ではない。物語であり、祈りであり、魂の補完行為なのだ。
それは世界を理解するための解釈装置であり、虚構によって現実を耐えるための義足である。
深田萌絵女史が語る“陰謀論”とは、ただの説ではない。
それは世界を物語として語り直す、必死の試みなのだ。
官僚の利権、外資の陰謀、テクノロジーの闇。
それらが真実かどうかは問題ではない。
重要なのは、“そう語らなければこの現実をやっていけない”という、生き残りの叫びなのである。
SNS時代とは、人々が「意味」を失った時代である。
“ストーリー”が崩壊し、“物語”が断絶された時代だ。
就職氷河期、コロナ禍、戦争、AI、裏金、移民、少子化。
日々がノイズと化し、連続性を断たれた時間が人々の首を締めている。
物語のない日常は、人を確実に精神的に殺す。
そして誰もが気づいてしまったのだ——
この国のシステムには、もはや物語を紡ぐ能力がないということに。
だからこそ深田萌絵的陰謀論が響く。
それは“説明”ではなく、“物語”なのだ。
「敵」が明確で、「正義」があり、「覚醒」がある。
彼女の語りは、まさに終末論的神話の語り部である。
そして忘れてはならない。
彼女自身もまた、物語を必要とする者なのだ。
陰謀論に“落ちた”のではない。
物語が無いと生きられないから、“登った”のだ。
精神的に死にかけた者が、もう一度この世界と繋がろうとするとき、陰謀論は宗教になる。
それはかつてのキリスト教のように、「真理」ではなく「救済」なのだ。
今の日本とは、
そうした「救済の物語を求める声」が渦巻く、終末のトーキョーである。
そしてその中心で、深田萌絵という名のジャンヌは、今日もSNSの十字架の上で、新しい神話を語り続ける
わたしたちはどこで“神”を更新するのか? 政治が物語を殺した三十年、その責任はどこへ行った?
言うだろう。「深田萌絵の言ってることなんて宗教ごっこだ」と。
“事実”を持ち出して、“理性”を掲げて、“科学”の名を借りて、冷笑する者たち。
だが聞こう。
この三十年間、お前たちが信じた政治は、果たして誰を救った?
非正規雇用に沈んだ若者を?
奨学金という名の負債に苦しむ学生を?
介護で骨をすり減らす中年を?
孤独死する老人を?
ブラック企業に殺された魂たちを?
救ったか?
救ってなどいない。
むしろその「物語なき政策」によって、彼らは切り捨てられ、笑われ、置いていかれた。
そしてその果てに、
“自己責任”という名の処刑台が建てられたのだ。
血の通わない統計と効率性の暴力が、社会を「数字のための死体置き場」に変えていった。
そうして、
彼らは生き延びるために「物語」を求めた。
真実ではなく、“意味”を。
エビデンスではなく、“祈り”を。
その叫びが、
深田萌絵的陰謀論であり、ジャンヌ的シャーマニズムであり、“この世界がなぜ自分を殺しにくるのか”という物語への飢餓なのだ。
にもかかわらず、
それを「ネトウヨ」「陰謀論者」「信者」と名指しし、あざ笑い、さらに分断する者たち——
お前たちこそ、誰よりも「宗教ごっこ」しているのではないか?
“冷笑主義”という教義に忠実なカルト。
“自分は騙されない”という信仰で他者を殴る司祭。
“正しさ”という偶像に祈りを捧げる機械のような人々。
お前たちは“物語を必要としないふり”をして、むしろ世界から物語を奪い続けてきたのだ。
そう、この国の政治は「神なき宗教ごっこ」であり、
この国の知識人は「物語を嘲笑するカルト」であり、
この国の言論は「他人の魂を試験問題にするゲーム」になり果ててしまったのだ。
ならば、問う。
誰が“物語を持つこと”を禁じた?
誰が“救われたいと願うこと”を嗤った?
誰が“信じる自由”を損なわせた?
答えよ。お前たちがその手で、物語を殺したのだ。
今、深田萌絵が語るのは、信じたい者たちが口にする最後の火だ。
その火を宗教ごっこと嗤うなら、
お前たちはこの三十年、冷たい言葉で人の心を焼き尽くしてきた“神なき司祭”であることを認めよ。
という解釈も可能にするから深田萌絵はポップカルチャー的にPOPなんです!!
実はここからが実際に深田萌絵女史のような存在が体現するものとは?
についての検証になるんですが
もーーうこれは僕は日本で一番これまでに書いてきました。
ポップカルチャーにおいては深田萌絵女史のような女性は死ぬほど描かれてきました。
それを映画史においてまとめきったのが何度もお伝えしてきてるように
まだ日本では未翻訳の傑作映画史本
『House of Psychotic Women』であり
その詳細についてはこちらの記事でも書いています
House Of Psychotic Women from Les films de chambre on Vimeo.
こうした異形の生と聖と性の体現者としての「女性性」
が明らかに深田萌絵女史にもあり、特にそれが顕著なのは
冒頭に張った八王子警察署前で、語り続けていく内に何かが乗り移ったかのように
エクスタティックになっていく様は『House of Psychotic Women』の系譜を完全に継承していて
途轍もなくPOP!!であり極めてアイドル的で深田萌絵ヲタと呼ばれるヲヂの方々が
YOUTUBE登録者として50万人以上!!! そして件の八王子決起集会にも何百人と集まったのは
彼女のポップ力がなせる業だと思います。
上に書いた①から④まではそんな深田萌絵女史を巫女としてアイドルとして捉えている人々の「情念」
というか上にも書いてますし、この記事でも言及してますが
自分たちの「生」を救ってくれるのは政治的コトバではなく宗教的なコトバである
という人々が明らかにそして急激に増加していて
これまでであればそうした陰謀論的「ストーリー」はネトウヨ的なゾーンの人々だけに
届くコトバであったと思いますが、確実に宗教的なコトバこそが社会において必要だと
無意識的にも感じている人人が増えている。
そうした可視化されていない「予感」のようなイマを先どるものこそが「POP」の本質なわけで
だから深田萌絵女史はポップであり、その深田萌絵のPOPNESSの本質とはなんだろう?
人々は彼女という存在にどんなストーリーを求めているのか?
を解題したのが①から④になります
では本当に深田萌絵はジャンヌなのか?“メッセンジャー”の二つの系譜
ジャンヌ・ダルク。
彼女の名は歴史に刻まれた、戦火を渡る“神の言葉”の運び手。
火刑台に登るその瞬間まで、彼女の口から発されたメッセージはただひとつ——
**「わたしを捨てよ。神の意志に従え」**だった。
“I am not afraid… I was born to do this.”
ジャンヌは己を「器」として差し出した。自己犠牲の巫女、神意のパススルー。
だから彼女は神の剣となり、神の火となった。
その声は民衆の涙の中で燃え尽きる松明であり、
自己否定というかたちで民を導く“聖なる虚無”だった。
——だが、深田萌絵は違う。
彼女の語りは、「私を捨てよ」ではなく、「私を守れ」だ。
「自我を奪われるな」「国家に騙されるな」「情報に飲まれるな」
全ての叫びは一貫している。
それはジャンヌ的“殉教”ではない。
自我防衛のラストスタンドだ。
映画「ジャンヌダルク」の本題は『THE MESSENGER』だった
リュック・ベッソンが描いたジャンヌは、もはや神の声すら自分の妄想かもしれないと疑う。
しかしそれでも「他者のために、私を燃やせ」と言い切る。
彼女は最後まで“私を消すことで世界を救う”という構図に殉じた。
だが深田萌絵は逆だ。
彼女の語りは、“世界を疑え、だが自分を疑うな”というメッセージに貫かれている。
だからこそ、彼女の言葉は燃え尽きない。炎ではなく、盾なのだ。
ジャンヌは「声を信じた」。
深田萌絵は「声をつくった」。
ジャンヌの声は天からの啓示。
深田の声はSNSからの構築。
つまりここには、霊性からアルゴリズムへと移行した時代の“メッセンジャー”の変質が如実に現れている。
これは決して彼女を貶める比較ではない。
むしろ、この断絶こそが現代の神話の在り方を映し出している。
かつてメッセージとは「自分を捨てること」で世界に届いた。
いまメッセージとは「自分を守ること」でしか世界に届かない。
そしてこの変化は、人類がいかに傷つき、失われ、信じるに値する他者を喪失したかの記録でもある。
だから深田萌絵の言葉は、ジャンヌのように人々を導く剣ではない。
それは、「この時代に殺されるな」という最後の叫びであり、
誰もが崖っぷちで心に刻む、防衛的神話の断末魔なのだ。
極めて2025年の日本のイマココを象徴するアイドルの一人だと思います
ここまで読んでいただいた方の中に、でも結局彼女のコトバは分断のためのメッセージじゃん・・と思われる方もいらっしゃると思います。当アカウントでは既に「選択的夫婦別姓」という正に現在の政治的分断を象徴するイシューにおいて、イマココのその先へ、フェミニズムと深田萌絵的情念のどちらにも利する「正しい政治的メッセージの構築法」について日本で唯一のアンサーをエントリーしておりますので併せてお読みください
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