凡庸な金字塔・・・・・生田絵梨花1stフルアルバム「I.K.T」正直レビュー・・・・・・
目次
生田絵梨花『I.K.T』を、凡庸な金字塔として評さなくてはならない悲しみ
生田絵梨花の1stフルアルバム『I.K.T』を、ボクたちは「金字塔」として祝福しなくてはならない。
しかし同時に、これを「凡庸な金字塔」と呼ばなくてはならない。
そのことが、あまりにも悲しい。
長い乃木坂46の歴史の中で、グループ卒業後にソロアーティストとしてフルアルバムをリリースする地点まで辿り着いたのは、ほとんど生田絵梨花ただ一人である。
これは本来、祝祭であるべきだった。
日本最大級の女性アイドルポップミュージックグループから、ついに一人の「音楽家」が立ち上がる。
ついに一人の「声」が、集団のフォーメーションから抜け出し、自分自身の名前でアルバムを作る。
その瞬間であるはずだった。
だが、そこには同時に、巨大な空白もある。
なぜ、乃木坂46ほどの巨大な表現団体から、ソロアルバムへと到達した者が、ほとんど一人しかいないのか。
なぜ、日本最大の女性アイドルグループは、あれほど大量の歌声と身体と時間を費やしながら、その後に「音楽家」をほとんど生み出せなかったのか。
そこには、表現団体としての致命的な欠陥がある。
もっと言えば、J-POPを殺してしまった恐ろしい空白がある。
ただ、その話はもう何度も書いてきた。
ここで繰り返したいのは、その制度批判ではない。
もっと残酷で、もっと個人的で、もっと音楽的な問題である。
つまり、本来なら金字塔となるはずだった『I.K.T』が、あまりにも、あまりにも凡庸な作品になってしまっているという事実だ。
歌とピアノで日常に寄り添う音楽というコンセプトは合っていたのか?問題
リリース日当日の生配信でのトークでも、YouTubeチャンネルの概要欄でも、このアルバムは「歌とピアノで日常に寄り添う音楽」と説明されていた。
中でも大きなテーマとして語られていたのが、日常における「愛」である。
そして、その理由として語られていたのは、これまで生田絵梨花というアーティストが、そうしたテーマをあまり扱ってこなかったから、ということだった。
この説明を聞いた瞬間に、このアルバムが凡庸な作品になってしまった理由の八割が見えてしまった気がした。
扱ってこなかった。
つまり、彼女の中にそれはなかったのだ。
「日常に寄り添う」こと。
「愛」を歌うこと。
生活の中にある小さな感情をすくい上げること。
それは、今回になって急に設定されたテーマであって、生田絵梨花という存在の奥底から自然に湧き上がってきたものではない。
もちろん人は変わる。
アーティストも変わる。
新しい主題に挑むこと自体は、まったく悪いことではない。
だが、現在の生田絵梨花は29歳である。
その年齢まで生きてきた彼女の音楽の中に、今まで「日常に寄り添う愛」が中心的な衝動として存在してこなかったのだとしたら、
むしろそれは彼女にとって必要なものではなかった、ということではないか。
彼女は、日常に寄り添う人ではない。
日常から少し浮いている人なのだ。
生活の床に足をつけて歌う人ではない。
むしろ床から数センチだけ浮いたまま、ピアノと劇場とスポットライトの間で、まっすぐすぎるほどまっすぐに育ってしまった人なのだ。
だから、このアルバムの多くの曲は、どうしても習作のように聴こえてしまう。
ポジティブに言えば、初々しい。
悪く言えば、まだ自分の言葉になっていない。
「こういう日常の歌がいいらしい」
「こういう愛の歌が必要らしい」
「こういうピアノポップが今の自分には似合うらしい」
そうした外側からの設計が、楽曲の輪郭にうっすらと残ってしまっている。
だから凡庸なのだ。
下手なのではない。
雑なのでもない。
むしろ丁寧で、誠実で、よく作られている。
だが、ポップミュージックにおいて最も恐ろしい凡庸さとは、下手なことではない。
よくできているのに、心の中心に届かないことなのである。
そのことを逆説的に証明してしまうのが、「ナイトアクアリウム」だった。
収録曲ナイトアクアリウムが意味するもの
配信でのトークを聴く前にアルバム全曲を聴いたが、その時点で唯一、これは合格だと思えた曲が「ナイトアクアリウム」だった。
あえてLo-Fiな質感をまとったトラック。
水槽の中で揺れるような不安定なメロディー。
はっきりと恋愛に到達する前の、名前のつかない感情。
この曲だけが、アルバムの中で不意に呼吸していた。
歌が、生活に寄り添おうとしていなかった。
むしろ生活からズレた場所で、まだ感情になる前の光を見つめていた。
そして後にトークを聴くと、この曲は生田絵梨花自身が最も強く制作に関わった作品だったという。
やはり、そうなのだ。
ここにこそ、このアルバムの本当の核がある。
「ナイトアクアリウム」のテーマは、恋愛以前の感情である。
まだ「愛」と呼べないもの。
まだ「好き」と言えないもの。
まだ日常の中に着地していないもの。
まだ言葉になる前の、青くて、不安定で、少し孤独なもの。
つまり、生田絵梨花というアーティストが本当に持っているのは、「日常に寄り添う愛」ではない。
その手前である。
日常に入る前の感情。
恋愛に変換される前の震え。
生活に定着する前の、宙吊りのままの美しさ。
彼女は「愛」を歌うべきだったのではない。
「愛になれなかったもの」を歌うべきだったのだ。
彼女は「日常」を歌うべきだったのではない。
「日常に入れなかった人間の孤独」を歌うべきだったのだ。
この散漫さは、アルバムのアートワークにも出ている。
YouTubeチャンネルのサムネイルにも使われているメインビジュアルの彼女の表情は、たしかに29歳のリアルを写し取っている。
少女ではない。
アイドルでもない。
かといって、完全な大人の生活者でもない。
そこに写っているのは、生活に溶け込んだ人の顔ではない。
むしろ、日常に寄り添うことが苦手な人の顔である。
美しい。
しかし生活ではない。
清潔で、端正で、知的で、少し硬い。
そこには愛の温度よりも、どこか演奏前の緊張がある。
食卓ではなく、楽屋。
リビングではなく、舞台袖。
朝のコーヒーではなく、本番前の水。
だから「日常に寄り添う音楽」というコンセプトと、彼女自身の存在感が、根本のところで噛み合っていない。
リズム感とグルーヴ
そして、さらに決定的な問題がある。
これは制作に関わった人たちも、おそらく強く感じていたはずだ。
生田絵梨花というアーティストには、ポップミュージックにおけるリズム感が、圧倒的にない。
もちろん、音楽全般におけるリズム感がないと言っているのではない。
クラシック的な素養、ミュージカル的な発声、ピアノを軸にした音楽的基礎は、むしろ非常に高い。
だが、ポップミュージックというアートフォームにおけるグルーヴ。
身体が少し遅れて入る感じ。
言葉がビートに食い込む感じ。
歌がトラックの上を滑る感じ。
音符と音符の間に、生活や欲望や湿度が宿る感じ。
そこへの感覚が、彼女にはかなり希薄なのだ。
これは彼女個人だけの問題ではない。
そもそも乃木坂46の楽曲は、ポップミュージックにおけるグルーヴをかなり強く否定してきた音楽だった。
踊れることよりも、整っていること。
身体が揺れることよりも、風景になること。
ビートの快楽よりも、清楚な物語性。
ブラックミュージック的な粘りよりも、合唱的な透明感。
乃木坂46の音楽は、グルーヴを持たないことで巨大な世界観を作った。
それは一つの成功である。
だが同時に、そこには大きな代償があった。
ポップミュージックにおける最も生々しい部分、つまり身体性が抜け落ちたのだ。
生田絵梨花は、その乃木坂46の空白を最も美しく背負ってしまった人である。
だから彼女が、ウェルメイドな「日常のポップソング」を歌おうとすると、どうしても難しい。
日常のポップソングには、本当はグルーヴが必要だからだ。
台所のリズム。
駅まで歩くテンポ。
誰かを待つ時間の揺れ。
退屈な午後にふと身体が動く感じ。
日常に寄り添う音楽とは、言葉の優しさだけで成立するものではない。
むしろ、生活の中にある無意識のビートを掴めるかどうかで決まる。
生田絵梨花は、そのビートではなく、旋律の人である。
もっと言えば、彼女はグルーヴの人ではなく、劇性の人である。
だから、今回のアルバムで目指すべき方向は、そもそも「日常に寄り添う」ではなかったのだ。
ではどうすべきだったのか?
彼女自身は以前、IVEの「ELEVEN」をカバーしている。
そしてこのアルバムのパッケージデザインについても、K-POP作品のパッケージを参考にしたと語っていた。
ならば、音楽的にもK-POPからもっと学ぶべきだった。
ただし、学ぶべきだったのは、ダンスビートでも、派手なサウンドでも、ガールクラッシュでもない。
今回のアルバム制作において彼女が本当に参照すべきだったのは、「日常に寄り添わない」K-POP女性ソロアーティストたちである。
たとえば、キム・セジョン。
I.O.I、gugudanを経て、現在は女優としても活躍しながら、それでも音楽への情熱を捨てられず、自作曲を作り続け、ソロアルバムへと到達した人。
彼女の歌の核心は、日常に優しく寄り添うことではない。
むしろ、日常の向こう側にある感情を、どうにかして手に入れようとすることだ。
ただ暮らしているだけでは届かない感情。
ただ恋をしているだけでは言葉にならない孤独。
ただ大人になっただけでは救われない幼さ。
そこに向かって、スローバラードを伸ばしていく。
IUもそうである。
現在の韓国で最も巨大なソロ女性アーティストの一人であり、女優でもある彼女は、日常を歌っているように見えて、実はいつも日常そのものから少し離れた場所にいる。
彼女の音楽は、生活のBGMではない。
生活を見つめすぎて、生活の奥にある時間や記憶や喪失に触れてしまう音楽である。
生田絵梨花が目指すべきだったのは、そういう方向だったはずだ。
同じように、アイドルグループを経て、女優としても活動し、自分の歌を持とうとする女性。
そういう境遇を生きる彼女が歌うべきだったのは、コンビニや朝食や小さな恋ではない。
もっと大きく、もっと孤独で、もっと非日常的な感情である。
「私は日常を知らない」
「私は愛をまだ持っていない」
「でもその手前にある震えだけは知っている」
そう歌えばよかったのだ。
そしてそれはK-POPだけの話ではない。
ポップミュージックの歴史には、生田絵梨花のように非日常を生きながら、ポップミュージック的なグルーヴに頼らず、新しいアートを生み出してきた女性アーティストたちがいる。
たとえば、ケイト・ブッシュ。
彼女は日常に寄り添わない。
むしろ日常から逃げるように、演劇、文学、身体、幻想、狂気、声を使って、ポップミュージックを異形の総合芸術に変えてしまった。
あるいは日本で言うなら、矢野顕子。
日常を歌っているようで、まったく日常ではない。
ピアノと声と奇妙な跳躍によって、生活そのものをモンスターポップに変形させてしまう人。
生田絵梨花が作るべきだったのは、そういう作品だったのではないか。
ウェルメイドな日常ポップではない。
ピアノと声と演劇性と、少し壊れた少女性と、29歳の硬質な孤独がぶつかり合う、非日常的モンスターポップ。
それこそが、生田絵梨花というアーティストにしか作れない音楽だったはずなのだ。
彼女は、日常に降りてくる必要などなかった。
むしろ、日常に降りてこられないことを、そのまま作品にすればよかった。
愛を歌えないなら、愛の不在を歌えばよかった。
恋愛を知らないなら、恋愛以前の水槽を歌えばよかった。
生活に馴染めないなら、生活の外側から見た朝を歌えばよかった。
『I.K.T』の悲しさは、そこにある。
これは失敗作ではない。
むしろ、丁寧に作られた作品である。
歌も美しい。
ピアノも端正だ。
制作も誠実だ。
生田絵梨花という人の音楽に対する真面目さも、十分すぎるほど伝わってくる。
だが、それでも凡庸なのだ。
なぜなら、このアルバムは生田絵梨花の才能の中心を射抜いていないからである。
彼女の中心にあるのは、日常ではない。
愛でもない。
優しい生活でもない。
そこにあるのは、もっと硬く、もっと青く、もっと孤独なものだ。
舞台袖で息を整える人の孤独。
水槽の前で恋愛以前の感情を見つめる人の孤独。
グルーヴを持たない代わりに、旋律と劇性だけで世界を支配しようとする人の孤独。
その孤独こそが、生田絵梨花のポップミュージックになるべきだった。
だから『I.K.T』は、金字塔である。
乃木坂46という巨大な空白の中から、たった一人、ソロアルバムまで辿り着いたという意味で、まぎれもなく金字塔である。
しかし同時に、凡庸な金字塔である。
到達したことは偉大だ。
だが、そこで鳴っている音楽は、まだ彼女自身の怪物性に届いていない。
その悲しみ。
そのもったいなさ。
その、あまりにも美しく整えられた不発。
生田絵梨花は、もっと変な音楽を作るべきだ。
もっと歪なアルバムを作るべきだ。
もっと日常から離れるべきだ。
もっと愛を知らないままでいい。
もっと恋愛以前のままでいい。
もっと水槽の中で、ピアノを弾き、歌い、ひとりで発光すればいい。
彼女は、日常に寄り添うアーティストではない。
日常の外側から、まだ名前のない感情を見つめるアーティストなのだ。
そして、そのことに彼女自身が気づいた時。
生田絵梨花はようやく、凡庸な金字塔の先へ行く。
そこから始まるのは、きっと「愛のアルバム」ではない。
もっと怖くて、もっと美しくて、もっと奇妙なもの。
それが生田絵梨花というアーティストが奏でる彼女自身のポップミュージックなのだと思います











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