Luce in altis IZ*ONEという「美しく残酷な矛盾」。 新曲「FIESTA」解禁

2020年2月20日XR脚本とKPOPI.O.I, IZ*ONE, luce in altis, rigendfilm, ピクニック at ハンギング・ロック, 女生徒

この記事では・I.O.IからIZ*ONEへ受け継がれたPOP MUSICの遺伝子
・IZ*ONEという少女だけが唄う事が出来る「美しい矛盾」
について書いています

以前別の記事でも書きましたが
僕は亡くなった雨宮まみ女史のインタビューでこう断言しました。
「女の子って絶対に音楽がPOP MUSICが実体化したものなんですよ!」
そして彼女に笑われました・・・・
「・・・・女の子に夢持ちすぎじゃないですか」!?!?!
でもIZ*ONE待望の新曲「FIESTA」を聴いて
そしてRigendfilmによる圧倒的なMVを見て
やっぱり確信を持って断言します。
「素晴らしいPOP MUSICは素晴らしい女の子のものだ」と。

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沙奈絵ちゃん

去年公開になったTEASERもヤバいの一言でしたよね
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人間失格

あの30秒だけでIZ*ONEが完璧に「今」という時代の音を鳴らしてる事が
証明されてしまってた。結局くだらなかったのは大人達だけなんだニャ

I.O.IからIZ*ONEへ。何が変わり何が変わらなかったのか?

僕は以前から2015年が「KPOPルネッサンス元年」であり
その事がもつPOP史上の意味は「無敵の人3.0」に大フューチャーしました。

是非「無敵の人3.0」をお読みください!!

2015年にはそのくらい世界をひっくり返す様な出来事が
KPOPにおいて同時に起こったんですが
その一翼はI.O.Iと言う奇跡が担ったものでした。

I.O.Iという革命

この時点ではっきり言ってしまいますが
僕にとっては「国民プロデューサーシステム」って言う
しょーーーもないバラエティ的フレームワークは当時から
どうでもいいものでしたし、その後の「PRODUCE-」シリーズ
に関してもそうです。ある種のフォーマットが固まってしまった
その後のシリーズと違いまるで第一回のFUJIROCKバリの
混乱と、だからこそ生まれた熱病の様な得体の知れない「何か」
まだ当時日本ではKPOPファン以外には注目されていなかった
I.O.Iが体現したWanna One IZ*ONEまで繋がっている「何か」とは
冒頭で書かせていただいた事と同じ
「優れたPOP MUSICとは少女の(少年の)中に眠る無定形な
ストリームを音として具現化したものだ」
って事、
つまりそれを一言で言うなら「奇跡」でした
いやいや!!I.O.Iがリリースした三曲なんて
バラバラすぎてわけわかんなかったでしょ?!?!って声が聞こえてきますが

 

 

それはあのI.O.Iの11人が見事なまでにバラバラの
強烈な個性を放っていたからなんです
これまで何度も記事に書いてきましたが
POP MUSICとは演者を製作者が考えるストーリーに閉じ込めるのではなく
少女達が少年達が放つまだ行先のわからないストリームのあり様に殉じる事
決して「見える化」できないその不定形な「何か」を音にグルーヴにコトバに
落とし込むと言うARTフォームなのです。

僕は当時I.O.Iの正式なデビュー曲「DREAM GIRLS」を
聴いて泣きながら椅子からずり落ちました・・・・
「なななな何だこの無茶苦茶な曲は」
FUTUREBASSとTRAPとユーロビートと1960年代のバブルガムポップとetcetc
TWICEのデビュー曲「Like OOH-AHH」もそうでしたが
POP MUSICのあらゆるスタイルをおもちゃ箱をひっくり返す様に
大胆に優雅に(우아하게!)「再編集」したまさにSNS時代のポップ・ミュージック

SNS時代のPOP MUSICに関しては下に書かせていただいたTEXTをお読みください

しかしそのごった煮っぷりカオスな感じはまさにI.O.Iとなった
11人の女の子達のあり様そのままだった。
2015年に起こった「KPOPルネッサンス」とは
POP MUSICを作るための唯一の法則
「ストーリーではなく女の子(オトこの子)達のストリームに殉ぜよ」と言う原則に
KPOPが立ち戻った、記念すべき瞬間の事であり
I.O.Iはそれを象徴するグループの一つだったのです。

IZ*ONEという「美しく残酷な矛盾」

そしてIZ*ONEです。
MOSPICKによる曲とVM PROJECTによるMVの
「La Vie en Rose」

e.oneのChoi Hyun joonとJYPのKim Seung-sooによる曲とDIGIPEDIによるMVの
「Violeta」

ここにあるのはI.O.Iの様なカオスではありません
「永遠と一瞬」「生と死」「闇と光」
IZ*ONEの楽曲によって、そして天才集団Freemindによるコレオグラフィーによって
彼女達12人の少女達がメタモルフォーゼしたもの
それは「矛盾」です。
僕はIZ*ONEの曲を聴くといつも一本の映画を
必ず思い出します。
それは1975年に制作されたピーターウィアー監督による
カルトMOVIE「ピクニック at ハンギング・ロック」です。

ピクニックで花と光と森と闇と戯れていたはずの
「12人」の少女達は一人、また一人神隠しの様に行方不明になり、
自殺し、街を離れていく
誰一人ハンギングロックで起こった事を話す事なく・・・・
近年研究が進み、やはり実話をベースにしていた事が
明らかになっていますが


彼女達がハンギングロックで見てしまったもの
それは自らの、少女と言う「矛盾」です。
自らの「ココロとカラダ」を繋ぎ止めている
「幼さと成熟」という矛盾のタイトロープ
美しく着飾った少女達はまるで身を投げるかの様に
サーカスのテントに張り渡されたその綱から落下していく
この映画全編に漂う不穏な、でも途轍もなく美しい
「矛盾」。
僕はIZ*ONEの曲をそしてパフォーマンスを見るたびに
この映画全編に漂うのと全く同じ緊張感と恍惚を感じます。
そして彼女達の「美しい矛盾」が最高潮に達したのが
今回の新曲「FIESTA」なのです。

今回のMVを出がけているRigendfilmは
去年2019年にTaeminの「WANT」を皮切りに
WayVの「Regular」NCT127「SUPERHUMAN」
X1「FLASH」SEVENTEEN「HIT」「FEAR」
等を手がけた現在世界中で最も優れた映像集団です


彼等が手がけたMV全てに共通しているのは
その濃厚な「タナトス」志向です。
生と性と聖と死という矛盾する全て、でもそれこそが
僕らの存在の「ホントウ」でもある様なタナトスの誘惑。
でも僕ら男の子以上にそんな矛盾を軽々と生きてしまうのが女の子
今までのMVにおいては色彩や花と言う暗喩によって
ぼかされていたIZ*ONEと言う女の子達
と言うか実は全ての女の子達が感じているはずの
その「矛盾」の美しさをRigendfilmはこのFIESTAで
残酷なまでに露わにします。

前二作とは比べ物にならないくらいの1CUT毎の「情報量」
美しくて残酷なGIRLIE IMAGEの洪水
この「おんなのこ」の頭の中・心の中をダダ洩れにしたような
そう! まるで太宰治の「女生徒」のような
女の子そのもののようなストリーム

ちょうどウォニョン嬢の瞼に書かれた
LUCE IN ALTISの文字が「至高の光」と「深淵」を
同時に表す矛盾の呪文であるように

これこそがIZ*ONEの本質であり
何故彼女達に多くの女の子が熱狂するのか?の答えなのです。

まとめ


ここからは今から書く事の一千倍くらい激烈な内容を
「無敵の人3.0」に書いていますが
どうしても書かなくてはならない事なので書きます。
このあまりにもPOP MUSICとして正しい楽曲群に触れて
IZ*ONEの日本向けコンテンツの人達は一体何を考えるのだろうと思います。
日本でリリースされるコンテンツのPOP MUSICの本質から
外れてしまった単なるゴミ、ゴミ以下の汚物を作り続ける人達に
僕は「おんなのこコンテンツ」を作る資格も権利もないと思います。
女の子達はもうXR的新しい世界へと旅立っているのに
日本でIZ*ONEのコンテンツを作る人々はそんな
XR的視点が存在する事さえ自覚していない・・・・(泣)
カムバ以降ここから先、この人達は日本でハイエナのように
IZ*ONEを汚らしい涎を垂らして食い尽くすのでしょう。
オマエラに生きてる意味とかねーから。ピリオド。

今回も記事をお読みいただき誠にありがとうございます