正しく主人公を殺すために。「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」が成し遂げたあまりにも正しい映画的結末についての考察

2024年12月20日XR映画レビューjoker folie à deux, 夢映画

なんすか、この怒涛のような全世界的

「完全な失敗作」

でエコーチェンバーしてる思考停止状態は?!?!?!!

トッド・フィリップス監督は「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」で
前作「ジョーカー」で成し遂げようとした
正しくて正しくて正しすぎる映画的約束を遂に果たしてくれた!!!!
その約束とはつまり1970年代の映画のように

「正しく主人公を殺す」

事。

それがどういう意味なのかを少し書きたいと思います。

トッド・フィリップス作品に一貫しているテーマとは?

もしかしたら多くの方々がトッドフィリップス作品に触れたきっかけは
あの2009年の大ヒット作「ハングオーバー」だったかもしれませんが
僕は凄く幸運なことに監督のデビュー作だった
Hated: GG Allin and the Murder Junkies
を見ていて、逆に「えーーーーあのアレンの監督が今こんなの撮ってるんだ」
と驚いたのを覚えています。

でも実は今回のジョーカーシリーズまでトッドフィリップス監督が
一貫して自作のテーマとしているのは

「主人公の死」

です。

デビュー作のドキュメンタリー「Hated」では
変態ジャンキーパンクスGG Allinが最後オーバードーズでゴミのように死んでいき

超傑作コメディーではあるけれど「ハングオーバー」でも
OD状態の主人公が体験するのは自らの青春時代の終わり=死です。

そして僕自身も「ジョーカー」が公開になったコロナ禍直前の
2019年にほぼジョーカーと同じ主題&監督が「ジョーカー」を作る上で
リファレンスしまくったのと同じ"1970年代映画"に準拠した
「無敵の人3.0」を書き終えたところだったのでわかる!!と確信しちゃってるんですが

間違いなくトッドフィリップスは「ジョーカー」でも主人公の死を撮ろうとしていたはずです。

でもこう書いてくると「物語」を今だに信じている方々からは

「いや主人公の死なんて物語においては基本のよくある構成要素じゃん」

といわれるかもですが、ここが最大のポイントです。

アメコミ映画も含めてもちろん所謂「物語映画」においても主人公の死は描かれます。

しかしそうした物語映画における主人公の死(またはそれと同等の喪失)は
物語の作劇上において必ず

主人公の再生

のためのステップとして描かれるものです。

究極の事態である「死」を主人公が乗り越えるからこそ
物語は新しい展開を迎えて加速していく。

これが物語を信じている人々が物語映画に望む「死」です。

でも僕はそんな「死」に意味なんかなにもないと思っています。
だから僕は「無敵の人3.0」を書きました。

そしてまたトッドフィリップスも同じだと思います。

それを僕は1970年代映画における主人公達の死

無残で無様で、文字通り物語を終わらせる

もっとはっきり言えば

「物語を殺す死」

これこそが正しい映画的な死だと作り手が確信していたのが
1970年代という時代でした

ジョーカー フォリ・ア・ドゥは映画的失敗作なのか?

実は僕でさえ、というか「無敵の人3.0」を書いた僕という人間だからこそ
はっきりいって「ジョーカー」の続編の制作開始のニュースを聞いたときには

絶対にないわぁーーーーーーーーー!!!!!!!!

と半ばあきれるのと怒りがこみあげてきてしまいました。

えーーーーーーーーーーーーしかもジョーカーのラブロマンス?!?!?!

完全にないわぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!と

既に公開されていたUSでのコテンパンのレビューを見るまでもなく
実は僕が一番世界で「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」は失敗作と断定していました(泣)

だからほんとーーに劇場に足を運ぶのが辛かったけど
もう「無敵の人3.0」を書いた人間の(勝手に思い込んだ)義務としてスクリーンの前に・・・・

そして始まった完全に人をおちょくったカートゥーンオープニング
そして一体あの1970年代映画的生と聖と性が常に通底音として流れ続けていた
完璧な映画的ペースの「ジョーカー」は一体なんだったんだ?!?!?!と感じざるを得ない
全くその作品固有のグルーヴが定まらないヘロヘロ感・・・・・・・

そしてガガ様との出会いからの"地獄"としかいいようのない全くダルダメなミュージカル展開・・・・・

これ遂に監督にG.Gアレンの霊がとりついて、あの観客をディスりののしり続けたGGの伝説のライブのように
いやがらせのための映画???とまで思う事10分、20分、30分・・・・・

えっ?!?!?

あれ!?!?!?!

僕はそれまでズルズルとシートにうずくまるような体制になっていってしまってましたが
姿勢を立て直しスクリーンを見つめなおしていました。

あーーーーーーこの「無残」さ
あーーーーーーーーーーーこの「無様」さ

まるでSUICIDEの「DREAM BABY DREAM」的!!!

今ぼくの目の前のスクリーンに映し出されているのは物語的「作り物」じゃない!!

性欲と自我と成育歴という近代以降の三位一体説

その「呪文=呪縛」によって生み出された

「究極の悪夢」

そーーーーーーーーーーーーーーか!!!

これは全てジョーカーの脳内で
まるでバベルの塔のように作り上げられた

「夢」

じゃん!!!!!!

そうなんですよ。

物語映画を信じる、そして「物語」に準拠した映画作品こそが正義だと信じて疑わない
アメコミバカの方々、ご愁傷様です

「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」はそんなあなたたちの幼稚さを断罪する映画です。

多分日本のシネフィルの方々は知らないかもですが
1960年代に「夢」のビジュアル化において伝説的なプロジェクトが立ち上がりました
それはArthur Tress による「Dream Collector」

これは今ではネット上にもその記録が残っていない1930年代に行われた

「アナタが見た夢を映画にします」(visualizing and recording dreams)という
途轍もない映画的実験へのオマージュなんですが

実は映画史の初頭においても「物語映画」を「殺す」ために
主にシュールレアリスト達によって作られたのが「夢映画」です

この「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」の途轍もない「酷さ」・・・・・
明らかに幼稚な作劇によって作られた映像を耐えて耐えて見ているうちに
それはある種の「啓示」のように降りてきました

この「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」が伝えようとしているのは
「目を覚ませ」という物語映画的WAKE UP CALLではなく

「いますぐ目を閉じよ!!!!!」

という物語映画によって虐殺されてしまったもう一つの映画史
マヤデレンや「アンダルシアの犬」が宣言した

「夢映画」

の再生を促しているんだッッッッッッッと!!!!!!!!!

であるならあまりにもあまりにも「物語的」に稚拙で幼稚でゴミのような
展開で埋め尽くされた「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」の意味がわかる!!!!!

この「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」とは全てジョーカーが見ていた「夢」の映像化であり
トッドフィリップス監督の表現者としてのコアである

「物語を殺す映画」

としての究極の作品だったんだ!!!!!と

だから表題とした「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」が失敗作なのか??は

全世界の「物語映画フェチ」

そしてこの際だからいいますがアメコミ映画という神話を持たないアメリカという国における

「時代劇」

日本の時代劇については何も言わないくせにどの口で
アメコミ映画っていうアメリカの時代劇"だけ"
さも正しい映画のように寿いでいらしゃるのでしょうか??
な日本のアメコミ映画ファンダムも含めて

この「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」はそうした

物語的正しさ

を「ホントウの死」によって殺すための
あまりにもあまりにもあまりにも正しい1970年代映画を2020年代に召喚するための
途轍もない試みなんです。

失敗作?????? それはお前の古臭い「物語」が犯されて激高してるだけじゃん

「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」は最後の主人公の
まるで「探偵物語」のような

無様で

無残で

意味のない「主人公の死」によって

アメコミ映画を筆頭とする吐き気がするような「物語映画」への
究極の「THE HATED」を貫いた

「夢映画」の傑作なのです。

そして今日(12/20)クエンティン・タランティーノ監督が本論考とまったく同じ主旨でこの作品を傑作と言ってたと知りました。(ちなみにその発言はこの記事の後の10/29です)さすがアニキ!!! 新作(=引退作?)楽しみにしてます

2024年12月20日joker folie à deux, 夢映画

Posted by nolongerhuman