孤独という名のバベルの塔 日本最速レビュー コッポラ監督「メガロポリス」
見たかったフランシス・フォード・コッポラ監督13年ぶり!!の新作
「メガロポリス」を見ました。
既に海外のレビューではコテンパンの低評価・・・・・
曰く
「物語のカタチをなしていない」
曰く
「ダラダラなにを言いたいのかわからない」
曰く
「これは映画ではない」
でもしかし!!!これらの"映画を愛する"人々のレビューを見て
コッポラはほくそ笑んでいると僕は思います。
なぜならこの「メガロポリス」は
「物語映画」
という自らが背負い続けた映画史的な十字架を
徹頭徹尾&木っ端みじんに破壊してしまおうという
コッポラの試みが爆発した究極の
「私映画」
だからです。
「物語映画を断罪する私映画」については
この長大なブログテキストで死ぬほど詳細に書かせていただきましたが
この85歳のコッポラ監督の「メガロポリス」もまた意図的かつ挑発的に
「物語のカタチをなしていない」し
「何も言ってくれない」し
「(物語)映画ではない」作品です。
でもそれは83歳の宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」や
81-2歳時に制作された大林宜彦監督の遺作「海辺の映画館」と同じ
1970年代から映画界の最先端で「物語映画」と戦ってきた、
というかもっと尖った言い方をしてしまうと
物語という装置に隷属することで映画をゾンビ化させてしまった自らへの
後悔と懺悔の念、そしてコロナ禍を経て劇的にその本来の実存性を露わにした
セカイに対して映画という表現が今!!ここで!!!本当にしなくてはならない使命への意志
が怒涛のようにストリームした究極の「私映画」がこのメガロポリスなのです。
誤解のないように再度書くと「私映画」とは決して
自ら・私の自叙伝的映画という意味ではありません。
そうではなく、他者との共通了解とそして映画でお金を生み出すための「物語」を
捨てた映画。
「私(にしか意味を持たない)映画」
のことを「私映画」といいます。
じゃあ物語以外の何がそうした「私映画」のコアになっているのか?
詳細は上のリンクテキストを読んでいただきたいんですが
この「メガロポリス」という私映画を動かしている・支配しているのは
フランシス・フォード・コッポラ監督の絶望的なまでの
「孤独」
です。
僕はこうした「私映画」を究極まで突き詰めた一連の映画群を「孤独映画」
として取り上げましたが
とにかくオープニングからラストシーンまで
このメガロポリスは全てのシーンがコッポラが見てきたであろうこの120年の映画史
の様々な作品のシーンがほぼそのままSSAMPLINGされたかのように採用されていて
その数は100では収まらない・・・・・カットアップされた過去の映画達が
走馬灯のように立ち現れては消えていく、まるで記憶のストリームであり
そんな美しく・残酷で、立ち入る者を断罪して血塗れにする「バベルの塔」
孤独者の孤独者による孤独者のためのサンクチュアリ
それがまだ誰も書かない映画「メガロボリス」という作品の本質です
もーーーーこうやって書くとわかりやすいほどバカな「映画好き」が
なんでお金を払ってテメーの「孤独」を見なきゃいけねーんだよ!!
(現在の海外のレビューは既にそんなバカばかりです・・・・)
の大合唱なわけですが
てめーーーーらいつまで映画に幼稚な「物語」を期待してんだよ!!
そんなゴミクズよりある一人の「人間」の深く深く沈んだ心の奥底の
血塗れの「孤独」を感じる事、それが映画を見るってことなんだよ
映画史における「物語映画」の最高傑作「ゴッドファーザー」
そして映画史における「無意識映画」の最高傑作「地獄の黙示録」
そのコッポラ監督に遂に作り上げてしまった禁断のそして究極の「私映画」
このメガロポリスが映画史に対して告発するメッセージの意味は
限りなく限りなく限りなく「正しい」と僕は思います。
傑作!!!!
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