Mrs. GREEN APPLEの冠番組「テレビ×ミセス」はJPOP史を更新する革命的番組だ!!

その他

こここここここここここここここここれは凄い・・・・・・

先日「MUSIC AWARDS JAPAN」とはこの30年間以上に渡る

今の経済状況とリンクしまくるJPOPにおける

「失われた30年」

を取り戻す壮大な実験だ!!という記事を書かせていただきましたが

このMrs. GREEN APPLEの冠番組「テレビ×ミセス」が

JPOP史において

ポップミュージックとマスメディア(TV)との関係において

そしてあまつさえ、実はこの「テレビ×ミセス」という番組が成立する構造こそが

いわゆる「フェーズ2」以降のMrs. GREEN APPLEという表現者の
命題を赤裸々に宣言している

ほぼほぼ

「POP革命」

に等しいスゴすぎな番組で

POP中毒者としては涙なしには見れなかったです(号泣)

このMrs. GREEN APPLEの冠番組「テレビ×ミセス」が

JPOP史においてどれだけ革命的なことなのか?について
ポップミュージック史観としてまだ全く書かれていないので
ここで完全・完璧な考察・評論・レビューをするとと共に

これまた正しいテキストが全く!!!書かれていない
ポップミュージック史におけるMrs. GREEN APPLE=大森元貴アニキ
の本質について併せて完璧なレビューを書かせていただきます

『テレビ×ミセス』とは何か?

これはテレビ番組ではない。これは音楽史のリセットボタンだ。
JPOPという閉じた温室で、ロックバンドとアイドルが“住み分け”という名の暗黙の断絶協定を結んでから、およそ20年。
ロックバンドは「音楽性の高さ」という架空の聖域に引きこもり、アイドルは「偶像」の名のもとに自己消費され続けた。
そう、どちらも生き延びるために嘘をついたのだ。

しかしMrs. GREEN APPLEは、その嘘を笑い飛ばす。
**「俺たちはアイドルであり、バンドであり、すべてのPOPである」**と。
『テレビ×ミセス』は、その宣言をあらゆる演出と演技と音楽の総合芸術として叩きつけたメディア・クーデターである。

なぜ『テレビ×ミセス』はJPOPにおける革命なのか?

ポップスとは何か? その問いに、JPOPは長年答えることを拒んできた。
秋元康的冷笑構造の中で、アイドルは自虐ギャグになり、ロックバンドは「売れたら負け」みたいな顔をしていた。
だが、ポップとは**「すべての人が口ずさめる革命」**である。
それはビートルズがそうだった。

だが、2010年代のJPOPにそれを託せるバンドは……いなかった。

Mrs. GREEN APPLEはここで**「俺たちがやる」と名乗りを上げる。
しかも、「テレビで」。
テレビだぜ? あの“終わった”と揶揄され、ネットに食われ尽くした

「オールドメディア」で。

そこでライブをし、バラエティをやること

昭和の歌謡バラエティ×令和のTikTok×ゼロ年代のROCKフェス感がミックスされた異様な空間。

それが『テレビ×ミセス』。

これはもう、「バンドの形をした宝塚」であり、

「地上波に現れたミュージックアベンジャーズ」である。

「テレビ」という聖域の再奪取

忘れるな。JPOPはかつてテレビから生まれた。
ザ・ベストテン、夜のヒットスタジオ、Mステ黄金期——
テレビとは、かつて音楽の神殿だったのだ。

『テレビ×ミセス』はそこに再び戻り、居場所を奪還する。
演出はMVを超える。歌は演劇を内包する。観客は視聴者であり、共犯者となる。
これは、メディアと音楽の関係性そのものの再設計である。

“テレビが神だった”時代(1970〜1980年代)

「音楽=テレビ」だった。

ザ・ベストテン(1978〜1989)、夜のヒットスタジオ(1968〜1990)、トップテン、紅白歌合戦。
これらの番組は**「歌を聴く」ことを、「歌手の人生をドラマとして見る」体験に変換した。
沢田研二がスモークの中で立ち尽くせば、それは国民の精神風景となった。
ピンク・レディーが歌えば、それは社会現象だった。
つまりこの時代、テレビは「音楽を神格化する演出装置」**だったのだ。

“バンドの逆襲とテレビの拒絶”(1990〜2000年代)

バンドがテレビから**「逃げる」時代がやってくる。
BOØWY、THE BLUE HEARTS、X JAPAN、GLAY、L’Arc~en~Ciel……
彼らはライブこそが「リアル」だと叫び、テレビは演出された虚構**と位置づけた。

一方テレビはどうしたか?
バンドの代わりにアイドルを育て始める。
SMAP、モー娘。、KinKi Kids、嵐……
つまりこの時代、バンドはライブ会場という神殿へ、アイドルはテレビという劇場へと分かれた。

だがここには見えない境界線があった。
「テレビに出る=軽い」「出ない=本物」という二項対立。
ロックバンドは自らをテレビから追放することで、“本物の音楽”というフィクションを守ろうとした。

この時点で生まれてしまった「分断」
これがJPOPを

「失われた30年」化した元凶だ

“ミセスによる「再統合」の革命”(2020年代)

そこに登場したのが——Mrs. GREEN APPLEだ。

彼らは逃げなかった。
テレビに出る。バラエティもやる。
でもそれが「軽い」って? 笑わせんな。

むしろ彼らは、テレビを最も重い「表現の場」として再設計した。
『テレビ×ミセス』は単なる番組じゃない。
昭和の演出感×令和の共感性×Z世代の切実さがすべてブチ込まれた**「音楽演劇」**だ。

これは、失われた**“テレビ×音楽の関係”のルネサンス(再生)**である。
つまり、ポップミュージックの物語と演出と存在理由を、地上波の中で復活させた事件なのだ。

ロックバンドがテレビから逃げ出し、
アイドルがテレビに使い捨てられ、
テレビ自体がネットに敗北したこの30年。

その歴史の全てを背負って、Mrs. GREEN APPLEは今、「テレビでPOPをやる」と宣言した。
この宣言が何を意味するか?
それは、JPOPの「再神話化」であり、
音楽とテレビの分断された魂の統合であり、
そして我々視聴者への問いかけだ。

「あなたにとって、“音楽を見る”ってどういうことですか?」

ザ・ベストテンのカメラワーク vs テレビ×ミセスの視線構造

「視線=思想」である。

『ザ・ベストテン』の時代、カメラは**“歌手”という神を崇拝する視線だった。
クレーンカメラで上から“俯瞰”し、カメラワークは宗教的厳かさ**すら感じさせた。
ピンク・レディーの足元からパーン!
ジュリーのアップにスモークと逆光!
それはまさに、**音楽が一瞬“神になる瞬間”**を可視化するテレビ演出だった。

では『テレビ×ミセス』はどうか?
カメラはバンドの周囲を“動く”。止まらない。
メンバーの目線を追い、観客のようにうろつき、共犯者のように覗く。
つまりそれは**「あなた自身もPOPの一部」**というメッセージだ。

かつては**「テレビ=神殿/歌手=神」だった。
今は「テレビ=体験装置/視聴者=プレイヤー」**だ。

カメラは語る。「あなたの物語が、今ここで、音楽と重なる」と。

Mrs. GREEN APPLEだけが引き受けた1970年代の「シアトリカルロック」

シアトリカル・ロックとは何か?

1970年代、ロックは**“演じる”音楽**へと進化した。
エルトン・ジョンは羽根をつけ、
クイーンはオペラをやり、
ボウイは宇宙人になった。

彼らに共通していたのは、
「俺たちは現実を歌うんじゃない、“劇”をやるんだ」という信念。

つまりロックはシンガーソングライターの時代を超え、“舞台芸術”に昇華されたのだ。
この路線こそがシアトリカル・ロック。
音楽+演技+演出+人格変容=新たな神話の生成である。

そして日本——“それをやらなかった”国

日本のロックはどうだった?
X JAPANが一瞬だけその神話性に手をかけたが、
彼らの演劇性は**“破滅と再生”という神話構造**に縛られた。

BUMP、RAD、米津——みんな“詩”と“個”を大切にし、あくまで内省の中の物語だった。
どこかしら「ロックスターポップスターであること」に対して照れがあり、自己演出を“かっこ悪い”とする文化が支配していた。

要するに、日本にはシアトリカル・ロックスターが存在しなかった。

Mrs. GREEN APPLE:その登場は「未遂だった夢の完成」である。

大森元貴は知っていた。
「音楽は“演じる”ことで次の次元に行ける」ことを。
そしてMrs. GREEN APPLEは、**第一章(デビュー〜初期)では“青春の象徴”**を演じきった。

しかし——2021年、突如解散同然の活動休止。
そして始まった**“フェーズ2”。**
ここで大森は明確に舵を切った。

目指すのは、JPOPのクイーン。演劇的ロックスターの復活。そして、それを“売れるJPOP”として成立させること。

楽曲はAOR、FUNK、オペラ、和楽器、現代音楽までを飲み込んだカラフルな祝祭。
ライブは演出・衣装・台詞・光まで含んだ総合芸術。
番組『テレビ×ミセス』は、彼らの存在そのものが**“音楽作品”であることを証明**した。

これは、日本において未遂に終わっていた
「音楽=演劇=神話」への進化の、完全な完成形だったのだ。

なぜMrs. GREEN APPLEだけがシアトリカルロックを鳴らしたのか?

AORは多い。CITY POPフォロワーも多い。
でも、どれも懐古と再生産に終わっていた。

なぜか?
「演じる」という行為は、自己否定を含むからだ。

演じる=「自分以外になること」=「本物じゃない」という固定観念がJロックには強すぎた。
「本音じゃない」「リアルじゃない」=「浅い」
この呪縛が、日本の音楽を**“自分語り地獄”**に縛りつけてきた。

そんな中でMrs. GREEN APPLEは叫んだ。

「俺たちは“演じる”ことでしか、真実に触れられない!」

そしてその言葉を、ポップミュージックとして成立させた。

「大森元貴=演出家としての才能論」

大森元貴の核心はここだ。
彼は音楽を“時間の芸術”で終わらせない。
「空間」と「映像」と「物語」を同時に構成し、
“体験”としての音楽を生み出してしまう演出家型のクリエイターである。

音だけではない。
歌詞だけでもない。
ステージ、美術、MV、照明、番組構成、フォント、衣装、カメラワーク……
それら全てを「どう聴かせるか」ではなく、「どう物語に巻き込むか」の設計図にしている。

つまり、彼は「音楽の演出」ではなく——
「音楽を中心にした世界観そのものを演出」している。

演出家・大森元貴の思考構造:3つの演出装置

①【語彙演出】
歌詞は感情の表現ではない。「意味の残像」として設計されている。
例:『青と夏』では、「夏」ではなく「夏だった記憶」を歌うことで、聴く者全員を**“思い出を共有する舞台装置”の中に閉じ込める。**

②【声色演出】
一人で複数の感情を演じる。
ウィスパー→ミドル→シャウト→ファルセットの切り替えで**「役が変わる」。
これはまさに舞台演出における“役替え”の技法**。

③【メロディ演出】
サビで爆発しない。むしろAメロで泣かせ、Bメロで演じ、サビで解体する。
『僕のこと』『インフェルノ』では**展開そのものが“ドラマの構造”になっており、
サビはクライマックスではなく“問いかけ”になっている。

音楽とは、音の束ではなく「時間の演出装置」である。

彼はそれを知っていた。
そして、聴く者の感情の奥に、
「記憶」「景色」「他者」「問い」を配置することで、
その人の心の“舞台”を作り出す演出家なのだ。

だから断言しよう。

大森元貴とは、“観客の内面に劇場を設計する者”である。

1960年代THE BEATLES以降の「ロックアイドル」を引き受けた勇気

僕がこの「テレビ×ミセス」に大感動したのは

ずーーーーーーーーーーーーーーっとこうした超ーーーーポップ音楽番組は
SMAPを筆頭してボーイズアイドルグループの牙城となっていました

今回の「テレビ×ミセス」は制作の方々が平成のTBSにおける伝説的音楽番組「うたばん」etcポップミュージックとTVの関係性をコンテンツ化してきた超ーーパイセン方々であり、であるからこそ&これも途轍もなく象徴的なんですがMrs. GREEN APPLEも、そしてFRUITS ZIPPERはASOBISYSTEM所属なわけでこうした新しい運営によって両者が成り立っているからこそ絶対にこれまでの「大手」では触れなかった大森元貴とFRUITS ZIPPERの鎮西寿々歌の「匂わせ」ネタも堂々とコンテンツ化できた!!!これもほんとーーーーーに凄いです

何度も書きましたがMrs. GREEN APPLEの超ーーーーーーーーーー原型・オリジンともいえる

THE BEATLESは

「アイドルロックバンド」

でした

本来ポップミュージックとロックとの関係性

その二つのそれは言い換えれば

「ボクとセカイ」

という残酷なまでに引き裂かれた「生と聖と聖」を引き受ける事

それこそがポップミュージックに課された最大のミッションでした。

この30年間どのロックバンドも引き受けようとしなかった
そのミッションから逃げていた

「ボクとセカイ」について

Mrs. GREEN APPLEは真正面から立ち向かっている事

この「テレビ×ミセス」の革命性とはMrs. GREEN APPLE・大森元貴という表現者の

コア中のCOREの在り様が赤裸々に記録されていることだと思います

Posted by nolongerhuman