劣化か?定着か??? どこよりもポップで残酷なMUSIC AWARDS JAPAN 2026 総括レビュー!!!!

その他

僕はむねを張って言えますが去年行われた第一回のMUSIC AWARDS JAPANについて
日本語で最も深掘りし、その意味性を紐解いたのはこの記事だと確信しています!!!

そのうえで先日行われた第二回となるMUSIC AWARDS JAPAN 2026の総括的レビューを今から書くんですが
最初におことわりしておくと、どーーーーーーーーーーーーーーんな優れたコンテンツであっても

二発目・二作目

っていうのは絶対に「堕ち・落ち」ます!

それが映画であろうと音楽であろうとイベントであろうとそれはポップ界隈の常なので
今から書くことは別にアンチでもなんでもなく

「あーーーこーーいう風に二回目はなったかぁ・・・・次の3回目が正念場だな」

というだけのことなのです。

という最低限の共通了解だけ飲み込んでいたただいたうえでの本編でっす!!

よかったところは唯一Mrs. GREEN APPLEの二冠だけだったのでは????

よく言われることですがBEATLESがいかにポップミュージックの歴史を変革したか?ということが
正しく言語化されたのは解散後の1970年以降だったといわれているように

これらの記事で深掘りした

2025年のMrs. GREEN APPLEの「POPの射程」の鋭さは他の追随を許さないもののはずだけど

まぁこれはこの後たっぶり批判することになっちゃうんですが、その「凄み」が

MUSIC AWARDS JAPANで「言語化」されてないという物凄い不幸があるにしろ

彼等の"沈黙"の二冠が今年のMUSIC AWARDS JAPANほぼ唯一の及第点だったと思います

でここからは二回目ということでなかなかに色々と「堕ち・落ち」たなぁ・・・・・という批評を授賞式の時系列的に続けます!!

オープニングがちょっといくらなんでも繰り返し過ぎたのでは??

残念なことに今年のオープニングは映像が残ってないんですよね???

サカナクションの一連のMVで知られる田中裕介監督によるオープニングMOVIE
使用されてるプロップや世界観はほぼDREAM BABY DREAMにおける一連のMVと接続していて
最初はいいなぁーーーー!!!!だったんですが

ただ!!! いくらなんでも同じ展開の繰り返しでTOYOTA様のおかげで
潤沢にお金はあると思うのに総尺で見るとこじんまりしていたのが残念でした!
というか紹介アーティストの楽曲の世界感に寄り添ってもっとバラエティーつけて
AI生成すれば「拡がる」のにって事ですDREAM BABY DREAM的には

ALBUM OF THE YEARの発表順ってあそこなん????

ほんとーーーーーに違和感なのは「うーーーーんpremaかぁ・・・」ということではなく
ALBUM OF THE YEARってあんなに冒頭で思いっきり流して発表される賞なの???と

無理やり擁護して言えばストリーミング時代に既にALBUMというポップ表現フォーマットが死に体だということを鑑みて・・・
ってことかもしれないですけど、いやーーーーやっぱりいまだに「ALBUM」を制作するっていう事に対する
リスペクトはもっと重くあるべきでグラミーばりに後ろへ持ってくるべきなのでは??

連呼された「日本の音楽を世界へ」というテーマ設定とXG

今年のアワードを見て、あーーーーーーーーーーーーーーそうだったよね!!と気づかされたのは
都倉氏と豊田社長が登壇して

MUSIC AWARDにとってもっとも意味のある賞

として発表した「Best Global Hit From Japan」賞

そーなんですよねこのMJAって「優れたその年のポップ」を表彰するという以上に

とにかく式の間中繰り返し唱えられ連呼された「日本の音楽を世界へ」という

ある意味でプロダクツショーケースの意味合いの方が強いんだよなと。

あっ!!これがXGになったことは「MDMAルネッサンス」を標ぼうしている当アカウントとしては面白かったです!

ドキュメンタリー監督・脚本家・構成作家的視点から見る「会場インタビュー」が多用される本当の意味とは?

僕これ今年は非常ーーーーーーーーーーに気になったんですが

それは授賞式自体の「構成」ですね。

まぁ去年は一回目だしなぁ・・・だったんですが今年の二回目でも

とにかくMCの菅田将暉氏と参加者との「インタビュー」がやたらと連発

で!!! これなんですけど、ドキュメンタリー監督・脚本家・構成作家でもある人間から言わせていただくと

ある「意図」が明確に存在するなぁ・・・と思いました。

それは

「受賞者インタビューの短縮化」

です。

いうまでもなく世界中のそれが音楽であれ映画であれ文学であれ授賞式の「メインコンテンツ」は

絶対に受賞者インタビューです

かんぐった言い方で恐縮ですが、でも結果的にそういう構成になっているんで
これは意図的だと思いますが明らかにMJAでは受賞者インタビューの時間を削るために
会場インタビューという「無難な」やりとりが導入されていると思います。

それは上記したこのMAJ自体のおおもとの目的が「「日本の音楽を世界へ」」というショーケースであり
そこで「商品紹介」以外の不穏なスピーチがなされないようにとの配慮だと思います。

あそこでサムスミス姐さんを使うのは"姑息"すぎるのでは????

これは批評を超えて、ちょっと「怒り」に近くなってますが
これは

非常に姑息だと思いました

サムスミス姐さんといえば既にQUEENSなわけで

なぜそのメッセージを日本のアーティストでやらないのでしょうか??

というかMAJのこのステージではじめてカミングアウトするといったメッセージこそが去年のあの素晴らしかった
FEMALE RAPPER祭りの「次」として絶対に必要なわけで

そこに正面から向き合わなかったことは非常に残念だと思いました

実質サカナクション祭りだったことは正しい選択だったのか??

まったく日本の音楽ジャーナリズムで言われている事ではない事をこれから
サカナクションの本質について書くことになりますが

サカナクションのポップの本質とは

“未だし"の音楽

KID A以前のRADIOHEADの日本版

つまり「青春」の音楽がサカナクションというバンドの本質です。

ボーカルの山口一郎氏の俯瞰したキャラクターからともすれば違う見方をされるかもですが
デビューから一貫してサカナクションの楽曲は「青春」の、「emo」な楽曲

自らの存在が"未だし"=何物でもないことへの焦燥

を唄ったものであり

ポップミュージック史においてはKID A以前のレディへのトムヨークが制作していた楽曲群と酷似しています

究極の青春バンド、そしてemoバンドだったRADIOHEADはその後「KID A」という途轍もない作品を生み出しました

ここでトムヨークが行ったのは「自我の崩壊のドキュメント」

KID Aとは、アルバムではない。

あれは2000年という時代の入り口に置かれた、ひとりの人間の自我が、ポップスターという装置の中で、ゆっくり、しかし確実に、粉々に砕けていく過程を記録した、あまりにも克明な崩壊ドキュメントである。

『OK Computer』でRadioheadはすでに現代社会の不安を歌っていた。高速道路、広告、資本主義、テクノロジー、消費社会、冷たい都市、機械化される感情。しかしあの時点ではまだ「歌っている私」がいた。まだトム・ヨークという発信者がいた。まだギターがあり、バンドがあり、怒りがあり、叫びがあり、ロックという形式があり、世界に対して「NO」と言う主体が残されていた。

しかし『KID A』では、その主体そのものが壊れている。

ここで起きているのは社会批評ではない。世界への告発ではない。むしろ告発するための「私」自体が、もう成立しなくなってしまったという事件である。

だから声は加工される。声は震える。声は遠くなる。声は人間の声でありながら、人間の声ではなくなる。歌詞は断片化する。意味は接続されない。感情は説明されない。ギターは後退し、シンセ、ノイズ、電子音、ジャズ的な混濁、アンビエント的な空白が前景化する。つまりこれは「表現の変化」ではない。自我が世界を語るための通常のインターフェースが、もはや機能しなくなったということなのだ。

『Everything In Its Right Place』というタイトルからして恐ろしい。すべてが正しい場所にある。にもかかわらず、なにかが決定的に間違っている。むしろ、すべてが正しい場所に配置されてしまったからこそ、人間だけがその場所を失っている。秩序が完成した世界において、最初に壊れるのは混乱ではなく、自我である。

青春・青年の音楽からなにもない精神の荒野へ・・・・・・・

優れたポップミュージックは常に狂った「進化」をするものだと思います。

ただここで強調しなくてはならないのは自我が崩壊したのだから「KID A」以降のレディへ作品はタル・ベーラが「ニーチェの馬」で描いた「その後」でありポップミュージック史的には既に涅槃の音楽であることを自覚している人はどれだけいるのでしょうか?

でもサカナクションは「青春」にとどまり続けています。

サカナクションとは、つまり、日本におけるKID AになれなかったRadioheadである。

しかしそれは敗北ではない。

むしろその「なれなさ」こそが、山口一郎という作家の宿命であり、サカナクションというバンドの痛みであり、そして2026年の日本社会がこれほどまでに彼らを祝福してしまった理由である。

Radioheadは『OK Computer』のあと、『KID A』へ行った。
つまり、世界を睨みつける少年の声から、少年そのものが崩壊していく音へ行った。

『OK Computer』までのトム・ヨークには、まだ名前があった。顔があった。怒りがあった。疎外感があった。社会に対して「おかしい」と言う主体がいた。つまり、そこにはまだ傷ついた少年としての私がいたのである。

だが『KID A』で、その少年は殺された。

いや、殺されたというより、バラバラに分解された。声は加工され、意味は断片化され、ギターは後退し、言葉は宙吊りになり、「私」は「私」として歌うことをやめた。トム・ヨークは、少年性を保存しなかった。むしろその少年性を、自分の手で解体した。自我を保つことではなく、自我が壊れていくプロセスそのものを作品にした。

だから『KID A』とは、少年が大人になったアルバムではない。

少年が、少年であることすらできなくなったアルバムである。

一方で、山口一郎は違った。

山口一郎は、ずっと少年を歌ってきた。

サカナクションの音楽にあるのは、都市の夜であり、部屋の窓であり、深夜のテレビであり、クラブの光であり、田舎から東京へ出てきた者の孤独であり、何者かになりたいが、何者にもなりきれない者の微熱である。そこにはいつも「僕」がいる。消えそうで、でも消えない「僕」がいる。踊っているのに内省している。ポップなのに孤独である。電子音なのに湿っている。洗練されているのに、どこか垢抜けない。

それはつまり、記名的な少年性である。

山口一郎の歌は、匿名になりきれない。
機械になりきれない。
都市になりきれない。
クラブミュージックになりきれない。
データになりきれない。

そこには常に、山口一郎という名前を持った少年がいる。

夜に置いていかれた少年。
東京に馴染みきれない少年。
音楽業界の構造を見てしまった少年。
ポップでありたいのに、ポップであることの残酷さを知ってしまった少年。
売れたいのに、売れることによって自分が壊れていくことを知っている少年。
踊らせたいのに、自分自身はうまく踊れない少年。

この少年を、Radioheadなら殺した。

『KID A』なら、声を加工し、意味を切断し、人格を消し、主体を解体し、ポップスターという「私」を廃棄した。

しかし山口一郎は、その少年を捨てられなかった。

いや、捨てなかったのではない。
捨てられなかったのだ。

ここが決定的に重要である。

山口一郎にとって少年性とは、単なる作風ではない。キャラクターでもない。マーケティングでもない。郷愁でもない。それは彼の音楽そのものを成立させている核であり、同時に彼を傷つけ続ける棘である。

少年性とは美しい。
だが少年性とは呪いでもある。

なぜなら少年とは、つねに世界に対して過敏だからだ。
傷つく。
感じすぎる。
考えすぎる。
期待しすぎる。
絶望しすぎる。
自分が特別でありたいと思いながら、自分が凡庸であることに怯える。
大人の論理を嫌悪しながら、大人の世界で評価されたいと願う。
純粋でありたいのに、純粋であることがもう商品価値に変換されてしまう時代を生きている。

この矛盾を抱えたまま、ポップミュージックの中心で歌い続けるということ。

それは壊れるに決まっている。

もちろん、病の原因を外部から単純化することはできない。鬱病は作品論だけで語り切れるものではない。しかし、批評として言うならば、山口一郎の病とは、少年性を捨てられなかった者の当然の帰結として見えてしまうほどに、彼の作品史と深く接続している。

彼は『KID A』のように自我を解体しなかった。
彼はトム・ヨークのように、声を壊し、人格を消し、少年の死体の上にポスト人間的な音楽を建てなかった。

山口一郎は、壊れそうな少年を抱えたまま、ずっとポップの場所に立ち続けた。

それはあまりにも日本的である。

日本のポップミュージックは、Radiohead的な意味で自我を崩壊させることが苦手だ。むしろ日本のポップは、自我を保存する。壊れそうな自我を、メロディーで包む。少年性を、言葉で保護する。孤独を、歌謡性で抱きしめる。痛みを、サビに変える。

サカナクションは、まさにその極点にいる。

彼らはクラブミュージックをやる。
電子音楽をやる。
ロックをやる。
文学をやる。
広告音楽もやる。
フェスもやる。
アニメ主題歌もやる。
しかしその中心には、いつも山口一郎の「僕」がいる。

どれほどサウンドが洗練されても、どれほどビートが強くても、どれほどプロダクションが現代的でも、サカナクションの音楽は完全には匿名化しない。ダンスミュージックになりきらない。エレクトロニカになりきらない。ロックになりきらない。J-POPになりきらない。

なぜならその中心に、山口一郎という少年が、まだ座っているからである。

そして「怪獣」である。

三年ぶりの新曲として現れた「怪獣」で、山口一郎は何を歌ったのか。

それは「少年性からの卒業」ではなかった。
「自我の解体」でもなかった。
「もう僕はいない」という『KID A』的な消滅宣言でもなかった。

むしろ逆である。

そこにあったのは、なおも少年であることの肯定だった。

しかも、それは以前のような無防備な少年性ではない。病を経由した少年性である。いったん壊れた者が、それでもなお自分の中の少年を捨てないと決めた後の少年性である。青臭さではない。未熟さでもない。郷愁でもない。

それは、傷ついた少年性の再契約である。

山口一郎は、自分の中の少年を克服したのではない。
追放したのでもない。
大人になって乗り越えたのでもない。

彼は、その少年ともう一度契約したのだ。

「お前のせいで苦しかった」
「お前のせいで壊れた」
「お前のせいで世界とうまくやれなかった」
「でも、お前がいなければ、俺は歌えない」

そういう契約である。

ここに「怪獣」の切実さがある。

怪獣とは何か。

それは社会の外にいる巨大な異物ではない。
それは自分の中にいる、扱いきれない少年性である。

暴れる。
眠らない。
傷つく。
叫ぶ。
世界を壊したい。
でも本当は、世界に見つけてほしい。
自分を恐れてほしいのではない。
自分の孤独を見てほしい。

怪獣とは、巨大化した少年である。

大人になれなかった少年ではない。
大人になってしまったからこそ、行き場を失った少年である。

そして2026年、MUSIC AWARDS JAPANでサカナクションが祝福された。

これを単なる業界評価として見てはいけない。

もちろん、楽曲として優れている。アニメ『チ。』との接続も強い。バンドとしての復帰物語もある。山口一郎の闘病と再生のストーリーもある。だがそれだけではない。

もっと深いところで、社会がこの音楽を必要としていたのである。

なぜか。

今、この社会には、山口一郎のように病んでいる人間が多いからだ。

いや、正確に言えば、病名を持つかどうか以前に、自分の中の少年性との関係に迷っている人間が多いのだ。

大人になれと言われる。
効率化しろと言われる。
市場価値を上げろと言われる。
感情を管理しろと言われる。
発信しろと言われる。
ブランディングしろと言われる。
傷つくなと言われる。
でも共感されろと言われる。
個性的であれと言われる。
でも面倒くさい人間になるなと言われる。

そんな社会で、少年性は行き場を失う。

かつて少年性は、未来への衝動だった。
反抗だった。
夢だった。
恋だった。
ロックだった。

だが今、少年性は厄介なものになった。

過敏さはメンタル不調と呼ばれ、純粋さは幼稚さと呼ばれ、理想主義はコスパの悪さと呼ばれ、傷つきやすさは自己責任と呼ばれる。世界に違和感を持つことすら、単なる適応障害として処理されてしまう。

そのとき、サカナクションの音楽は言う。

それでいい。
まだ少年でいい。
壊れながらでもいい。
踊れなくてもいい。
夜に馴染めなくてもいい。
自分の中の怪獣を、殺さなくていい。

これは救いである。

サカナクションの音楽が救いなのは、明るいからではない。
前向きだからでもない。
癒してくれるからでもない。

むしろ、少年性を治療しないからである。

「大人になればいい」
「忘れればいい」
「強くなればいい」
「割り切ればいい」
「過去の自分と決別すればいい」

そんな雑な救済を、サカナクションは差し出さない。

彼らが差し出すのは、もっと残酷で、もっと優しい救済である。

少年のまま、行け。
壊れたまま、行け。
治りきらないまま、歌え。
自分の中の怪獣を連れて、もう一度ステージに立て。

これが「怪獣」以後のサカナクションである。

Radioheadは『KID A』で少年を解体した。
サカナクションは「怪獣」で少年を連れて帰ってきた。

どちらが正しいかではない。

それぞれの時代、それぞれの社会、それぞれの病理に対する、まったく異なる応答なのである。

イギリスの世紀末において、トム・ヨークは「私」を解体することで生き延びた。
日本の2020年代において、山口一郎は「僕」を捨てないことで生き延びた。

ここが最高に重要だ。

山口一郎はKID Aにならなかった。
なれなかった。
ならなかったから苦しんだ。
ならなかったから壊れた。
しかし、ならなかったからこそ、彼はサカナクションであり続けた。

そして今、その「ならなさ」が祝福されている。

僕はポップミュージックとしては「KID A」の方が面白い!!と思っているので

正しいサカナクションの聴き手ではないのですが

今年のMAJが冒頭のオープニングムービー
そしてその後のパフォーマンス、そして最多受賞とサカナクション祭りとなったことは

絶対に少年性を手放さないぞ

という2026年の日本の多くの「男子」の現状のドキュメント・悲鳴の暴露として

とても興味深く思いました

来年のMJAは是非是非また素敵なものになってほしいです!!!!

Posted by nolongerhuman