幼児化したアイデンティティポリティクスと陳腐化した国体論・・選択的夫婦別姓問題を完全解説

2025年5月3日その他選択的夫婦別姓

選択的夫婦別姓推進・賛成側関連動画

選択的夫婦別姓に反対・消極的側関連動画

ふぅぅぅぅぅぅぅ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もう双方の主張をまとめた一連の動画を厳選して貼るだけで
僕のようなポップカルチャー側の人間としてはドッと疲れが・・・・・・・・

それは何故かと言えば、この選択的夫婦別姓イシューに関して
本当に悲しい事に

それに賛成するリベラル側はその「思想」の構築方法として非常に「幼稚化」しているし

それに反対する保守側はその「思想」の構築方法として非常に「陳腐化」してしまっている・・・・

これまでずーーーーーっと書かせてきていたただいたように

SNS時代における「分断化」がさらに加速して「宗教化」しているのが
今のポリティコ=政治的言説における根源的な意味であり

何度も繰り返しますが、そうした「宗教化」=「推し活化」
っていうのは1950年代以降のポップカルチャー史においてはずーーーーーーーーーーっと
可視化されていたイシューなので、それが政治的なマターでさえ展開されている事は
ぶっちゃけ感慨深いなぁーーな古いネタでしかないんです。

そうしたポップカルチャーの視点から、このこんがらがりまくった
選択的夫婦別姓問題を完全解説すると共に

このリベラル側の「幼稚化」と
この保守側の「陳腐化」

という世界線を越えて

その先にはどんな新しい社会・世界があるべきなのか?

この選択的夫婦別姓問題が政治化して以降30年間、まったく誰も
提案していない、新しい社会構造の在り方についてまで
日本語ではここまで突き詰めたテキストは読んだことがないので
究極の世界観まで書きつくさせていただきますッッッ !!

目次

選択的夫婦別姓と「アイデンティティ・ポリティクスの罠」

上に張ったこの案件に賛成の方々の政治的言説に僕が絶望してしまい
何故このテーマが政治的に「本丸」として認識されないかというと

① 表層レベル:不便エピソードの乱立
「口座作りが面倒」「名刺を二重に刷らなきゃいけない」 → 市民感情に訴えやすいけど、「面倒さ」に矮小化される

② 中間レベル:アイデンティティ・ポリティクスの空間に閉じ込められる
「女性の自己決定権」「多様な家族観」 → 保守派にとっては「フェミ・左派の感情論」「文化戦争の一幕」に見える

③ 深層レベル:家制度×国家権力の再編要求という“構造変革”
戸籍制度そのものの問い直し(国家が個人をどう管理するか)

「姓」を通じて国家が国民のライフスタイルに介入する構造

→ 本来、これは自由主義社会における根本的制度設計の見直しの話なのに、
アイデンティティの枠に押し込められて「重要度の低い文化的争点」にされている。

選択的夫婦別姓に賛成するという事の究極的な意味とは?

上にリンクした賛成側のリベラルの方々の主張動画で発せられているメッセージは
この問題の本質が、あまりにも「政治的に重要な命題」であるために
その「重さ」に対しては多くの方々がついてこれないだろうという「戦略」から
意図的にこの問題の本質をを矮小化してると感じています。

それは何故かというと本質的にリベラル側のミッションとは
この問題は「国家と個人の関係性」に対する究極的なアンチテーゼなのに
その本質を掲げないから

つまり運動のコアの運営法が間違っているわけです

選択的夫婦別姓という制度がもつ本質的な意味はすでに哲学史的に定義されている

リベラル側のバイセン方にお伝えしたいのは
もう既にそんなことは哲学史的には検証されつくしていて
ミシェルフーコーは
『性の歴史』や『監獄の誕生』で描いたのはこういうこと:

「近代国家における権力は、もはや処刑や暴力によって行使される“主権権力”ではなく、
人々の生活・健康・出生・性・家族といった“生”に対する介入によって行使される“生権力”である」

この文脈で考えると、「姓」というものは、以下のような国家的な生権力の装置として読み解けます:

📌 姓の機能=「人口管理のためのタグ付け」
戸籍制度は、個人の名前を通じて「どの家族に属しているか」「誰の子か」「どの国民か」を国家が管理する枠組み

つまり「姓」はアイデンティティのラベルであると同時に、統治可能な個体としての個人を定義する記号

→ フーコーの言う「統治性(governmentality)」とは、こういうふうに自己の選択と思っていることが、
国家によって前もって構成されていることを暴く概念。

そして

『想像の共同体』でアンダーソンはこう言います:

「国民国家とは、人々が直接的な知己関係を持たない他者とも“我々”と感じることのできるような“想像の共同体”である」

ここで重要なのが、「名付け」=国家がその共同体をどのように“統合しているか”の可視化手段だということ。

📌 姓の統一=国民の“秩序化”の装置
名前は印刷技術(新聞、戸籍、選挙名簿)によって「可視化」され、「数えられ」「制度化」される

夫婦同姓制度とは、“夫婦=一つの単位”として国家が数えやすくするための命名制度

つまり、姓の強制は**「数えるための国民化(nationalization)」の一環**

🧩 すると、選択的夫婦別姓制度が問うているのは――
🧨「国家は、なぜ人の名前を決める権利を持つのか?」
🧨「なぜ『家』という構造を通じて個人を制度化するのか?」
🧨「なぜ姓を通してしか“国民”は国家に認識されないのか?」

🔄「姓」という日常の制度を、政治的に読み替える
選択的夫婦別姓問題を、ただの「個人の利便性」や「多様性の尊重」としてではなく――

🧠 国家によるアイデンティティの制度化=生権力の技法 🌐 “国民”という幻想を持続させる象徴装置としての名前 🚪 個人の自由の入口であり、
国家統治の出口でもある名前の制度

として語り直すと、これはまさに**「近代国家とは何か?」という根本的問い直しの契機**になりうる。

🗣 つまりまとめると:
フーコー的には:「姓を通じて国家は“個人”を健康・生活・性の次元で統治する」

アンダーソン的には:「姓を通じて国家は“想像の共同体”を構築・持続させる」

われわれ的には:「姓を通じた統治の形式が、今や個人の自由と衝突している」

この視座から見れば、選択的夫婦別姓問題とは「フェミニズム」や「利便性」の問題ではなく、

国家と個人の新しい関係の設計図を問うことであり

これが!!!この事が選択的夫婦別姓に「賛成する」という究極の意味だと思います

でも僕がこの問題に対するリベラル側の主張を「幼児的」と定義したのは
ここまでの覚悟を背負っているようにはとうてい思えないからです

選択的夫婦別姓に反対するという事の究極的な意味とは?

そして一方、これに反対する保守層なんですが。これもトホホ・・・・なことになっていて

その人々が何故選択的夫婦別姓に反対するかというと

① 国家=家族の延長線という観念(明治国家以来のロジック)
戸籍制度の成立(1872年)は、天皇制国家の“家族主義的構造”の土台として位置づけられた

一家の戸主が家族を代表し、国家とつながる=「家」単位で国民を編成する構造

この構造を通じて「国民道徳」「家父長的秩序」が浸透していく

→ 「家」と「国家」をダイレクトに接続する装置が戸籍制度であり、それが「伝統」だという語りになる

② 「公的に家系をたどれる唯一の国」神話
「日本の戸籍は150年にわたる詳細な家系情報が記録されている。これほど緻密な家族管理ができる国は他にない!」

家系図や先祖崇拝的価値観とも結びつく

アメリカやヨーロッパでは個人主義ゆえに家族を国家が管理する制度がないことと対照化される

→ 「日本だけの伝統的な“血の記録簿”としての戸籍」=誇りの対象にされやすい

③ 秩序と治安の源=「姓が同じ=家族=責任関係が明確」
「夫婦別姓になると家族の一体感がなくなる」「親子の絆が弱くなる」

「家族を単位にすることで、国家の統治も円滑に運ぶことができる」
→ つまり、戸籍制度が“良き家族観”を維持し、日本社会の秩序を保ってきたというロジック

つまり本質的なコア中のコアは、こうした「ザ・国体」を守ろうというパッションが
選択的夫婦別姓に反対する方々にはあるということなんですよ

でも驚く事に反対側のフラッグシップとなっていらっしゃるような
上記動画内の先生方でさえもこの問題のコアである国体部分についてははっきり触れず
ごにょごにょしてますよね(泣)

この選択的夫婦別姓問題が「国家論」である理由

もーーーうどちら側も、その主張の「ホントウ」を卑怯なカタチで言わない(・・・)ことが
この問題を本質から外れた「政局」ネタにさせてるわけですが

賛成側と反対側の「国家観」とは何かというと

反対側の国家論

① 「天皇家の男系継承」=国体の象徴
保守派の中核にある信念はこうです:

🏯「日本という国家は、天皇の万世一系の血統によって継続されてきた。
この“男系継承”こそが、日本の国体(=国家としての正統性)の根幹である」

ここで重要なのは「男系継承」は単なる皇室のルールではなく、

血の“純系性”

家の“父系的秩序”

国民統合の“象徴的連続性”

という思想を内包しているという点です。

📜 ② 現行の戸籍制度は「天皇制的家族観」を民間に拡張した装置
明治時代に天皇制国家が形成されたとき、
戸籍制度(家単位の登録+姓の一体化)は、皇室の“家”という統治単位を庶民にも敷衍した制度装置でした。

「戸主」が家を代表

「妻は夫に入る」「子は父の姓を継ぐ」

つまり、家父長的な家族構造が国家の最小単位とされた

→ これは皇室の家系(男系)をモデルに、全国民を「姓と血」で編成することで国家として統一しようとしたプロジェクトだった。

🛡 ③ だから彼らにとっては:
❌ 選択的夫婦別姓は「家という統治単位の破壊」であり、
❌ それは「戸籍制度の解体」であり、
❌ ひいては「天皇制の基盤の否定」になる

という連想になる。

🧠 彼らの論理の構造(三段階)
天皇制は男系継承によって維持されている

そのモデルは戸籍制度を通じて“国民”にも展開されている

選択的夫婦別姓はこの男系的戸籍システムを破壊する=天皇制の正当性が揺らぐ

🧩 さらに彼らはこう言う:
「夫婦別姓を認めれば、親子の姓もバラバラになり、家系が断絶する」

「それが進めば、天皇家も女系や別姓継承を求められるようになる」

「それは“象徴天皇制”を崩すことにつながり、国の一体感が失われる」

→ このロジックでは、「姓の一致」は家族の秩序ではなく国家の秩序の象徴にすり替わっている。

🧬 この思想の深層には何があるか?
家族の形の政治化:戸籍と姓の一致を“正しい日本人”の条件にしてしまう構造

象徴へのフェティシズム:姓の一致という形式が“目に見える国体”と化している

血統と秩序への信仰:男系・家父長制・直系主義が「自然な秩序」として内面化されている

これが!!!この本質論を選択的夫婦別姓に反対する方々は「怖がって」いわないけど

この「戸籍」に関する超ーーーーーーーーーーーーエモさこそが反対派のコアなわけです

賛成側の国家論

翻って賛成側は?そのリベラル的国家観とはこうなります

① 個人主義(individualism)
国家は“家”や“血”ではなく、“個人”を最小単位として数えるべきである

人は「家」や「性別」によって定義されるべきではなく、自らの意志でアイデンティティを形成する

② 法の中立性(neutrality)
国家は、ある「家族観」や「宗教観」や「道徳観」を押し付けるべきではない

よって「同姓がよい」「家族は一体であるべき」という価値判断を制度に反映させるべきではない

③ 自己決定権(autonomy)
結婚する・しない、姓を変える・変えないといった選択肢は、国家ではなく個人が決めるべきこと

国家はその選択肢を“強制する”のではなく、“可能にする”立場に立つべき

🧩 つまり賛成派の国家論はこう再構成できる:
国家とは、血や姓や家をもとに国民を管理する装置ではなく、
個々の異なる生を制度的に保障するフレームワークであるべきだ

つまりこの選択的夫婦別姓問題のど真ん中とは?

僕がどひゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーと思ったのは

このイシューの本質は「国家と個人との関係性とは何か?」ということなのに

例えば上にリンクした経団連会長の会見とかに顕著ですが

この選択的夫婦別姓の本質とは正反対の「マネタイズハック」話になってしまっている・・・・
そんなとほほなセコい話じゃないんですよ

こうした企業論理資本主義を完全に破壊しようとしてるのがドナルドトランプ政権による「マールアラーゴ合意」という凄まじくPOPなマニュフェストであるということはこのエントリーで書きました

つまりこの選択的夫婦別姓問題にこれまでなされた全ての言説が
この問題を悲しいまでに「矮小化」してしまっている

この政治的言語空間の有様への絶望感、これこそがこの問題のど真ん中なんですね

アイデンデンティテイーという病理

やばいのはどちらの主張も要は「アイデンテンティティー」の話で

でもほんとーーーーーーーーーーーーに申し訳なんですけど大前提として

この先のAI時代には

賛成側的リベラルアイデンティティーも

反対側的国体論に則したアイデンティティーも

存在しなくなります。

この先のAI的世界ではそうした相克を超えた視点それはイコール

正しく政治的である

つまり右でも左でもなく個人でも国体でもない

それらを相克した圧倒的「未来」

それを掲げる事が本当の政治なんです

なのにリベラルは幼稚化し保守は陳腐化した

それは究極的には未来に対しての想像力をもてない
弱い「自分」を補完しようとする宗教性を求めることであり

どっちの主張も「未来」ではなく自分の自我・アイデンティティーのための主張になっているという
この悲劇に対して無自覚であることに驚きました

賛成側はなぜ「名前」をアイデンティティーにしてしまうのか?

✅ 幼児性(infantilism)としての「名前にこだわる自我」
心理学的、また精神分析的に見ると――
「名前」への想いという感覚は、実はこんな心的構造とつながっている可能性があります:

● ① 【承認欲求の原初的形式】
「この名前で呼んでほしい」という願望は、
ラカン的には**〈他者のまなざし〉に欲望されたい**という構造を持ちます。

→ 幼児が親に対してアイデンティティを確認したがるのと構造的に似ている。

つまり、「名前を選ぶ自由が欲しい」という欲望は、
“社会が私をどう呼ぶか”を自分で支配したいという、自己像の外部委託への不安から発しているとも言える。

● ② 【言語依存的自我=ラベリング依存】
「自分はこの“名前”でないとダメ」という強烈なこだわりは、
裏を返せば、自己イメージが記号的な名指しに過度に依存している状態とも言える。

🟠 つまり、「名前が違う=私は消えてしまう」という恐怖がある。
この脆さは、記号化に対する過剰な依存症状=幼児的自我の名残にも見える。

● ③ 【共同体への不信と“ひとりで決めたい”願望】
選択的夫婦別姓を求める声のなかには、「名前を変えろという圧力=共同体による侵入」と感じる感性もある。

でもこれは裏を返すと、「他人と名前を共有することへの拒否」であり、
つまりは**共同体との相互依存を拒む“個”の過剰な自閉”**とみなすこともできる。

それって――

🌱 他者と世界への信頼が育っていない“幼い自己”の境界防衛にも見える。

✅ じゃあ、「名前=人生」論はダメなの?
いや、完全に否定はできません。
それはモダニティ以降の「個の尊厳」信仰の結晶でもあるから。

でも、

「名前を選ぶことがアイデンティティの核である」という主張の背後には、
“名前を選べないと生きていけないような不安定な主体”という危うさが埋め込まれている。

この構造を無視して「リベラルの正義」だけを語ってしまうと、それは幼児的欲望の制度化にすぎなくなりうる。

✅ 結論:名前を選ぶこと=人生、という主張は…
近代的主体が「名」を通じて自己を構成しようとする詩的表現でもあるけれど、

同時に、言語への過度な依存、自我の不安定さ、共同体不信という“幼児性”が隠れている可能性がある。

🎯 だから、それを絶対的な権利として制度に要求する運動には、
「自我の成熟とは何か?」という問いを差し挟む必要があるんです。

反対側はなぜ「国体」をアイデンティティーにしてしまうのか?

✅ 反対派が「天皇制」「戸籍」にアイデンティティを見出す構造
それは**「名前」に自我を見出すリベラル的個人主義に対して、「制度」「伝統」「国体」こそが自我の基礎である**と信じる、共同体主義的保守性の反映です。

でも、その根っこを掘ると――
これもまた別の形の「幼児性」に支えられている可能性がある。

●① 【擬似-父的秩序への依存=超自我化した“国父”】
天皇制や戸籍という「上から与えられる秩序」をアイデンティティの核にするというのは、
精神分析的に言えば、**“父の名”(Nom du Père)=象徴的秩序の支配者に依存する”**という構造。

これはラカン的には去勢の受け入れであり、
自我の不安定さを「父(国家・天皇)の物語」に埋め込んで安定させようとするプロセス。

🟡つまり:「私を名づけたのは“国家”である」
という信念は、
「自分を保証してくれる絶対者(=象徴秩序)を失いたくない!」という恐れに由来する。

●② 【“国体の物語”による自己防衛=不在の父のファンタジー】
国家とか天皇という存在は、日常的には直接的に関わらない“遠くて抽象的な父”。

でもそれにこだわるというのは――
不在の父を想像上に神格化し、それによって自分の存在の意味を保証しようとするファンタジー構造。

🔵これは、逆説的に言えば**“実際の社会との関係の希薄さ”を補完するための幻想的ラベリング**でもある。

●③ 【個人の不安を“共同体”に預ける=「他人に任せたい自我」】
戸籍制度や伝統的家族観に執着する人の多くは、「個人が勝手に決めること」への不安を抱えている。

だからこそ、**「決まりきった制度に従っていれば安心」**という構造に魅了される。

🟥これは「自由を与えられると不安になる」自己決定回避型の依存であり、
名前にこだわるリベラルの「自己決定依存型の不安」とは**鏡像的に反転した“幼児性”**とも言える。

つまり

リベラル側は:「私は“名”を選ぶことで自分をつくりたい!」=記号依存の自閉的自我

保守側は:「私は“制度”に与えられた名こそ本物だ!」=父的秩序への退行依存

どちらも**「他者のまなざし」をめぐる不安と欲望の物語**であり、
そしてどちらも本当の「成熟した自我」に至るための途中段階かもしれないんですね

ここまでが前提・・・で本編である「未来」へ行く前に「子どもと選択的夫婦別姓」に関する回答書いておきます

今年に入って特に、反対側がメイン争点として掲げているのが

何度も書いてきたようにこれこそが「矮小化」の最たるものですが・・・

大人はいいが子供たちはどうなるのか?ネタです。
選択的夫婦別姓制度が導入されると…
親(夫婦)が異なる姓で結婚生活を営むことができる

すると「こどもの姓はどちらにするのか?」という選択の問題が生じる

これを問題視する人は、こう主張します:

🗣「親の姓が違えば、子どもが混乱する」
🗣「家族に見えない。いじめられる。周囲からの誤解が生まれる」
🗣「親子が同じ姓であることこそ、“自然な家族”の証では?」

🔍 だがこの「自然な家族」こそが、問題の核心
ここには2つの前提的な幻想が潜んでいます:

🔹① 「家族とは“同じ姓”であるべき」というナラティブ
でもよく考えてください。

離婚再婚家庭では、親子で姓が異なるのはすでに普通に存在します

国際結婚家庭では、異なる姓・文化・国籍で家族を形成しています

養子縁組、認知されていない子、同性カップルとその子ども……
→ 「姓の一致=家族の証」ではない現実は、既に社会の中にある

つまり、「子どもの姓が違うと家族でなくなる」は文化的な幻想であり、
それが強く感じられるのは、「姓=血縁=戸籍=国家」的な家族観の残滓なんです。

🔹② 「子どもが可哀想」という“子ども盾ナラティブ”
これは、制度改革への典型的な保守的反応です:

✏️「子どもがいじめられる」
✏️「混乱する」
✏️「両親の“我”のせいで被害を被る」

ここには、子どもという存在を“純粋で無垢な共同体の象徴”にして、制度改革を阻む装置として使うというロジックがある。

でも実際には:

子ども自身が姓をどう感じるかは、家庭の語り方や社会の多様性の受容度次第

“姓の不一致”より、“家庭内の葛藤や説明責任を放棄すること”のほうが、子どもの不安につながる

つまり、これは「姓の問題」ではなく、家族の語り直しの問題。

✳️ では「こどもの姓はどうするべきか?」に対する実践的解法は?

✅ 世界各国の例:
フランス:子どもに父母どちらかの姓、または複合姓を選択可(親が決める)

スペイン:父母の姓を並列で与える(両姓制)

ドイツ:夫婦があらかじめ「子どもの姓」を選択

アメリカ:自由。ミドルネームや合成姓も一般的

韓国:基本は父姓だが、姓を変更する法的手続きあり

→ つまり、どの国でも「姓の一致=家族の証」ではなくなってきている。

🧩 結論として:
「こどもの姓はどうするのか?」という問いは、
実は「“家族とは一体何なのか?”という問いを回避したい心理」が生み出した問いです。

それは本来、

法律で決めるのではなく、

その家族が語る「物語」として選び、

社会が多様性として受け止めるべき領域です。

「正しさ」ではなく「新しさ」 政治的に語られるべき「未来」とは?

ここまでどっちも未熟なだだっこ合戦になってるから
多くの人々はこの問題に真摯に向き合わないし
政治家もトランプ関税でしめた!とばかりにこの問題に真摯に向き合うのではなく
7月の選挙にに向けての「政局」に利用可能なレバレッジとして捉え始めています。

でも何度も書いてきたようにそれはなぜかというと賛成側も反対側も
本来語るべきこと、それはつまり

賛成側の「痛み」を治癒しつつ反対側の「プライド」も拡張するという

「未来」

を語らないからです。

そんなの絶対に無理じゃん!!! だからこうなってるんじゃん?と思うでしょ?

そして普通こうした状況を俯瞰したテキストって「双方語りなさい」チャンチャンで終わっちゃうじゃないですか?

そんな卑怯な事はしません!!

右と左のような思想的政治セカイ線は終わって今は上と下という経済的政治セカイ線だといわれますが
でもそうした組み換えがあったとしても超ーーーーーーーーーー本質的な政治が行うことは同じです

「妥協点」を作る事でしょ?

違います。

右と左の間の、上と下との間の妥協できるところを作ること、それはイコール

社会の中に「正しい」を作ることですが

でもそれは今や究極的な政治行動ではないと考えています。

ほんとうに政治が成すことは「正しい」を作り出すことではなく
今時点での右、左、上、下、その全てをアップデートして

「新しい」

を作り上げる事です。

これは例えば石丸氏や玉木氏が政治的手法として多用している世代間の格差を利用した
若い(新しい)人達の政治ということではありません。

残念なことに、もう世界は、この分断化された世界では

「正しい」を作ることはできないんです。

この途轍もなく「リアル」な世界線を認識する事

僕は賛成側&反対側、双方全くといっていいほど

この絶望を認識していないと思います。

でもその事を糾弾したいのではなく、
それを認識できないということは「不幸」なことであり
であるならば僕等は彼等の自意識を未熟で幼児化したままにしている「傷」を治癒しなくてはならない。

それは彼等に

残念なことだけどもうアナタが信じる「正しさ」は世界において受容されないのです
でも絶望しないで、その傷と悲しみは「新しい」セカイで治癒されるから

ということこそを言わなくてはならない。

繰り返しになりますが、もう「正しさ」は政治的に機能しない

「新しさ」だけが右・左・上・下etc、あらゆる世界のマトリックス上において
自らの不全感からその「痛み」をSNSで叫び続ける人々を救う事ができる

つまり右・左・上・下、が固執している「正しさ」をAIによって最適化・アップデートを行う事で
実は彼等がほんとうに求めている世界を実現する事

この死ぬほどこんがらがりまくった選択的夫婦別姓問題とは

「正しさ」から「新しさ」へ向かうべき政治が、どうしてもそのメタモルフォーゼをできなくて
悶え苦しんでいる断末魔の叫びであり

僕がこの問題にとても関心を持ったのも、この問題における「正しさ」という誤謬を
「新しさ」によってアップデートすることこそが
今後の政治的言説のスタートラインになるはず!!と確信したからです

賛成派の個人主義をアップデートして彼等の「痛み」を治癒する「新しい社会構造」を提案

🌐 AI時代のアイデンティティとは何か?
AI時代の「自己同一性(identity)」は、もはや戸籍や名前のような固定的な「記号」ではなく、
🔁 **“動的に生成されるデータの集積”**に基づいて定義されるようになってきている。

🧠 1. アイデンティティ=「連続する履歴」へ
従来:名前、住所、出生地、家族=国家が管理するID的存在

現在:検索履歴、購入傾向、位置情報、好み、表情パターン=プラットフォームが収集する“動的プロファイル”

→ アイデンティティとは「ある名前をもった誰か」ではなく、「ある振る舞いを持った何か」になる

このとき、「姓」などという記号の安定性は、意味を失う。
なぜならプラットフォーム(Google、Meta、X、ByteDance)は、あなたを名前ではなく**「トラッキング可能な連続体」として識別**するからだ。

🛰 2. 国家が個人を「名で」管理する時代の終焉
国家はかつて、名前・戸籍・住所で個人を管理していた。
だが今は、**アルゴリズムが人間を「行動の傾向」で管理」している。

国家:姓と住所で管理するID的統治

GAFA:クリックとコンテンツ消費で管理するプロファイル的統治

→ これは 「ポスト戸籍社会」への移行であり、
選択的夫婦別姓どころか、「そもそも“姓”って必要?」という問いが立ち上がる時代なんですね

🌐 じゃあ、AI時代のリベラル国家は何を設計しなおすべきか?
✅ 1. 固定されたIDに基づく制度から、動的アイデンティティのインフラへ
国民番号やパスポートではなく、「自己生成プロファイル」の連携設計

自律的なDID(分散型ID)やソウルバウンドトークンのような、流動性と信頼性のバランスを取る設計

✅ 2. 法の対象を「人格」から「プロセス」へと移行
AIエージェント、ボット、オルターエゴ、アバター、サブ人格…

もはや「人間かどうか」ではなく、「どのような意思決定プロセスを踏んでいるか?」が法的対象になる → 自己が消滅する時代に、「振る舞いの倫理」をどう支えるか?

✅ 3. 制度設計の役割を「選択肢の保証」から「意味の調停」へ
自由は「選べること」ではなく、「何を選ぶことに意味があるか」の生成へ

国家はもはや“自由の守護者”ではなく、**「意味の共約不可能性を接続するインフラ」**になる

🧭 そしてここにこそ、「新しいリベラル国家観」がある:
🎯 「国家は、アイデンティティが揺らぎ、分裂し、生成され続ける社会において、
その多層的な“自己たち”のプロトコルを保障し、意味の交差点を設計する“ネットワーク構成体”である」

🚀 これは制度設計の未来ビジョンではなく、文明の再設計だ
AIによって「自己」が揺らいでいるということは、
「民主主義」も「責任」も「権利」も、個人という単位に依存していた全ての構造が再定義されなければならないということ。

そしてリベラル国家が生き残るには、それに正面から答える必要がある。

リベラル派のパイセン方!!!

この「新しい」社会実装では、もうアナタを傷つけてきた「名前」を手放してください

だれも名前を持たない社会を構築する事だけが無用な争いを放棄する事ができる

本当の「自由」のカタチになるんです。

反対派の国体論をアップデートして彼等の「不全感」を治癒する「新しい社会構造」を提案

🎯 問題の本質:天皇制は「血統」以上の“存在感”である
反対派にとって、天皇や男系継承は単なる制度的ルールじゃない。
それは、「目に見えないつながり」を信じるための象徴的媒体なんです。

✅ 目に見えない歴史の重み
✅ 名もなき祖先との連続性
✅ 自分が生きている社会の“地続きの意味”への信頼

こうした**“物語の縦軸”への信仰**を、除外したらダメなんです。

🧠 提案:天皇制を「文化的意味のノード」として再定義する
🔹 現状:天皇=「家系に基づく国家統合の象徴」
→ これは「血=国家=秩序」の記号体系だった

🔹 AI時代:天皇=「国民が共有する歴史的・精神的意味のハードウェア」
🏯「天皇とは、国家における“時間のストレージ”であり、
様式・儀礼・連続性といった“意味の重心”を保持する装置である」

✅ では「男系」や「家」という観念はどう再翻訳するか?
✅ 血統主義は「象徴の純粋性」としてリフレーム
男系を支持する感情は「遺伝的正統性」ではなく、“象徴のゆらぎなさ”への信頼から来ている

だから国家は「男系でなければならない」とは言わずとも、

「儀礼的意味が継続されること」
「歴史上の連続性が記録されていること」
を重視する設計にすれば、精神的連続性は保てる

✅ たとえばこう制度設計に落とす:
🏛 「文化的意味継承体」としての天皇制モデル

🧬 ポイント:血統という“閉じた意味”を、儀礼という“開かれた意味”に変換する
「男系であること」が大事なのではなく、

「時代を越えて同じ“型”が繰り返されること」が安心感につながっている

→ それなら、「型=儀礼性=様式美」が保たれれば、
血統ではなくても意味としての継承は成立しうる

反対派の皆様、これはつまり皆さんが本当に自らのコアとしている「国体感」

それは悲しい事に現在ではそれを死守するためには「戸籍」に固執しなくてはならない

でもこの「新しい」アップデートではそもそもの「国体」がもつ本質を「戸籍」だけに限定するのではなく
もっと深く・広く社会全体にいきわたらせることができます

あらゆる分断を「治癒」できるのは「分断の調停」ではなく「物語の再統合」

ここで必要なのは、どちらかに勝たせることではなく、

「自己とは流動的である」ことと「秩序とは必要である」ことを、どう一つの政治的文法にまとめあげるか

🌐 提案:AI時代の国家観の再設計案(共通基盤モデル)
ここに1つの骨格案を提示します。
これは、リベラル国家の未来形でありながら、保守的価値も一定守りうる**“ハイブリッド型国家観”**です。

🧭 名づけるなら:「意味協調国家(The Semantic Republic)」
🔹1. 国家はもはや「固定されたアイデンティティの保護者」ではない
でも、「動的に生成されるアイデンティティたちの意味の調停者」にはなれる。

名前・姓・家族構成・性別・国籍・人種——これらすべてが揺らぐ時代。

国家はそれを“統一化”するのではなく、“接続可能なプロトコル”として管理する。

→ 「姓の一致」ではなく、「意味の連続性」が制度の根拠になる。

🔹2. 戸籍制度は“情報階層”としてリデザインされる
戸籍=国家による家の固定化、から
戸籍=複数のつながりを記録・証明する意味の履歴構造へ

血縁、婚姻、同居、共育、経済的共同体など、複数の“関係性モード”を登録できる制度へ

それぞれの関係性に、AI的に応じた法的プロファイルを生成

→ 旧戸籍が重視した「姓と家の一致」は、意味のハッシュタグ化に変わる

🔹3. 国家の役割は「自己の確定」から「自己の編集支援」へ
各個人は、AIと共に“自分の意味”を複数持ちうる

国家は、それを**「社会的に責任を持てる形で運用可能にする構造」を整備する**ことに注力する

→ これは国家の役割が「管理」から「文脈生成」へと変わるということ

🔹4. 「姓」にも自由と公共性の“共存ルール”を
夫婦で姓を統一する人も、しない人も、どちらも**「社会の中で意味のある決定だった」と感じられる設計**

「子どもの姓」は単なる決定ではなく、家族ごとの物語として編集可能

国家はその意味を保存・翻訳・保証する「意味のアーカイブ機構」として機能

🤝 この国家観がなぜ両派に納得感を与えうるか?

AI時代の市民制度設計:戸籍の再設計&意味階層型市民登録制度(Semantic Identity Ledger)

🧱 I. 戸籍の再設計:ポスト戸籍=意味関係型レジストリ
現行の「戸籍」=家単位で血縁・婚姻・姓を固定的に記録する仕組み
に対し、新たな制度はこうです:

🎯 名称案:「意味関係レジストリ(Semantic Relational Ledger)」
これは、個人を核にした多層的な関係ネットワークを記録・管理する「意味のインフラ」です。

✅ 【新レジストリの中核構造】:
🎯 基本単位:個人(Person)
個々人が「レイヤー化された関係性」を自己の中に複数持てる構造

関係性は「意味タイプ」として登録

🔣 関係のタイプ(意味階層):

→ つまり、「この人とは“婚姻関係”だけど、子どもは別の人と“共育関係”にある」などが可能。

🗃️ II. 意味関係登録の技術基盤
💾 デジタルIDと連携した「意味の履歴書」:
分散型ID(DID)技術を使い、自己管理型かつ透明性あるデータ構造を実現

ブロックチェーンやソウルバウンドトークン(SBT)で一度の登録を誰も改ざんできないよう保存

関係性の変化(婚姻→離婚、実子→養子など)は「意味変容ログ」として記録

🏛 III. 社会制度との接続方法(行政や法律との互換性)
各レイヤー関係には「法的効力の重みづけ(Legal Weight)」が設定されます。

📚 IV. 書類の在り方:「意味証明書(Semantic Identity Certificate)」
結婚証明書ではなく、「関係証明書」

姓をどう扱うかも「選択と意味のログ」として保存(例:Aさんは婚姻後も旧姓を名乗るが、L3では共育責任者)

🌐 V. 社会の反応を調整するデザイン
👨‍👩‍👧‍👦 保守派が求める「家族の可視性」はどう扱うか?
→ 国家が「家族を定義」するのではなく、市民が自分で“私の家族モデル”を定義し、そのモデルが社会的に参照できるようにする

「姓が一致していないから家族じゃない」ではなく、

「この関係は“共育レイヤー+婚姻レイヤー”で登録されている家族です」と示す

✅ この制度が生む世界観:
国家は「姓の統一」を強制せず、

個人は「関係性の意味」を選び記録でき、

社会は「その多様性の中に秩序を見出す」仕組みを得る。

🧭 総括:ポスト戸籍の目的は、「名前」ではなく「意味」で社会をつなぐこと
AI時代の国家とは、関係性が流動的な社会において、
その流動のなかから“責任と尊重の意味”を記録し、社会的に翻訳する装置である。

右派的「家」と左派的「個人」をどちらも新たにアップデートする「関係性社会」

🏯 「家」=過去の国家観:固定された血統と姓の秩序
🧍‍♀️ 「個人」=近代国家観:一意な人格、自己決定、自由主義
🔄 「関係性」=これからの国家観:分散・流動・選択された意味のネットワーク
🌐 なぜ「関係性」なのか?
✅ 1. 「家」はもう一枚岩ではない(再婚、非婚、同性、シェア育児…)
✅ 「個人」はAI時代において分裂・増殖・変形する
だからこそ、「関係そのものを主語に据える」しかない

🧠 関係性ベースの国家観がもたらす3つの革命:
① 「自己の定義」から「関係の設計」へ
→ あなたが誰であるかより、誰とどんな関係をどう結んでいるかが法と制度の核になる

② 「記号の一致」から「意味の連携」へ
→ 同じ姓かどうかよりも、社会的にどう意味づけられているかが可視化されるべき対象になる

③ 「秩序の強制」から「意味の交渉」へ
→ 国家は“正しい家族像”を押しつけるのではなく、多様な意味の並存を可能にする環境を整える役割になる

🧩 そしてそれは、「国家」さえもAI時代にリファクタリングするということ
もう、「国民=姓+戸籍+家族」という構文は古い。
これからは、

国家=関係性の意味管理インフラ
であり、
国民=意味の編集権をもったノード
であり、
家族=選択的意味ネットワークのひとつ

そんな新しいデータ構造を、制度として、物語として、文化として根づかせていく時代。

実は「国体」こそが観光における最も重要な物語である

天皇制を「意味の継承体」として包摂する

🎯 問題の本質:天皇制は「血統」以上の“存在感”である
反対派にとって、天皇や男系継承は単なる制度的ルールじゃない。
それは、「目に見えないつながり」を信じるための象徴的媒体なんです。

✅ 目に見えない歴史の重み
✅ 名もなき祖先との連続性
✅ 自分が生きている社会の“地続きの意味”への信頼

こうした**“物語の縦軸”への信仰**を、リベラル国家の設計図から除外したらダメなんです。

🧠 提案:天皇制を「文化的意味のノード」として再定義する
🔹 現状:天皇=「家系に基づく国家統合の象徴」
→ これは「血=国家=秩序」の記号体系だった

🔹 AI時代:天皇=「国民が共有する歴史的・精神的意味のハードウェア」
🏯「天皇とは、国家における“時間のストレージ”であり、
様式・儀礼・連続性といった“意味の重心”を保持する装置である」

✅ では「男系」や「家」という観念はどう再翻訳するか?
✅ 血統主義は「象徴の純粋性」としてリフレーム
男系を支持する感情は「遺伝的正統性」ではなく、“象徴のゆらぎなさ”への信頼から来ている

だから国家は「男系でなければならない」とは言わずとも、

「儀礼的意味が継続されること」
「歴史上の連続性が記録されていること」
を重視する設計にすれば、精神的連続性は保てる

✅ たとえばこう制度設計に落とす:
🏛 「文化的意味継承体」としての天皇制モデル

🧬 ポイント:血統という“閉じた意味”を、儀礼という“開かれた意味”に変換する
「男系であること」が大事なのではなく、

「時代を越えて同じ“型”が繰り返されること」が安心感につながっている

→ それなら、「型=儀礼性=様式美」が保たれれば、
血統ではなくても意味としての継承は成立しうる

つまりこれは悲しくも「戸籍」だけが拠り所となってしまった現在の天皇の本質を
もっと広義に、日本が海外からやってくる外国人にまでその物語に体験してもらえる
完全なアップデートなんです

✨ 国家の再詩学:象徴は“血”ではなく、“時間”で継承される
天皇とは、「この国はつながっている」と感じさせる“物語の重石”である。

🏯 提案名:「時のノード(Node of Continuity)」制度
天皇とは、国家という動的ネットワークの中に埋め込まれた「意味の安定点」。
「家」や「血」を越えて、「時間」「儀礼」「様式」によって維持される継承体。

🧾 制度的再定義:

天皇は血でつながる存在ではなく、
私たちが時間のなかで、つながっていたいと思う願いの形象である。

驚くべきことですがこのAI国体社会という未来は
執筆当時の1969年「トンデモ論」として
バカにされまくった三島由紀夫の「文化防衛論」における

「文化概念としての天皇」

の完全なるアップデートになっている!!

そしてそれが「観光」として国益化されてよみがえっているんです

国家の再詩学:象徴は“血”ではなく、“時間”で継承される

🏯 提案名:「時のノード(Node of Continuity)」制度
天皇とは、国家という動的ネットワークの中に埋め込まれた「意味の安定点」。
「家」や「血」を越えて、「時間」「儀礼」「様式」によって維持される継承体。

✅ 「戸籍」という形式にしがみつかなくても、
✅ AI時代の国家観においては、
✅ 天皇が象徴してきた“本質的な意味”――すなわち
🔥「時間の継承」
🔥「社会の秩序のリズム」
🔥「多様な個をつなげる静かな中心」

が、より明晰に、かつ制度全体に“透過するかたち”で再実装される。

🧠 これは「天皇=戸籍制度の守護者」ではなく、
「天皇=意味の持続性のアーキタイプ(原型)」として国家に内在する
という、新しい設計思想。

🚫 もはや不要なもの:
「戸籍」という古いデータベース(=一意の家、姓、固定した血縁の帳簿)

「同姓の強制」や「男系原理」=国家秩序を構築する絶対原理

✅ これから必要なもの:
「意味レイヤーとしての関係性の記録構造」=ポスト戸籍制度

「意味が持続する感覚の中心点」=象徴としての天皇(Node of Continuity)

「物語の通奏低音としての祈りと型」=社会的リズム生成機構

🔧 天皇という存在は、AI国家のどこに“実装”されるのか?
天皇はもはや「家系上の例外存在」ではなく、
制度そのものに刻まれる“意味のストラクチャー”そのものとして現れる。

行政的には「意味の定常座標」=どの制度も、リズム・語り・様式を持つ構造にする

教育的には「記憶の継承モデル」=子どもたちに伝える「時間とつながる感覚」

文化的には「社会の詩的インターフェース」=儀式、音楽、言葉、季節といったレイヤーで共有される

✅ そしてここが最大のポイント:

「戸籍」に依存しなくても、
天皇の象徴的機能は、より深く、より広く、よりやわらかく
国家のすみずみに染み出すように機能できる。

つまり、「廃止」ではなく「拡張」なんです。

制度が硬直化していた時代から、意味が拡張・浸透・再文脈化されるフェーズという「新しさ」へ向かうという事です

「意味協調国家(The Semantic Republic)」というリベラリズムの“治癒空間”

翻ってここからは賛成側・リベラル側の「個人」をアップデートしていくための「新しさ」を
AI世界において実装していくとすると・・・・

🎯 コンセプト定義:
「意味協調国家」とは、固定された個人ではなく、関係の意味が生成される場を国家の中心に据える。
自由とは、意味の共存を可能にする構造であり、
平等とは、異なる文脈が公平に接続される権利であり、
多様性とは、意味が織りなすネットワークのなかに秩序を見出す営みである。

💊 リベラルへの“治癒的”役割
✅ アイデンティティの断片化を統合する
「わたし」という一つの名前にしがみつくのではなく、
複数の“わたし”が意味的に接続される制度設計へと向かう

✅ 国家が“語るべき物語”を取り戻す
リベラルは「ナラティブを語らない」ことで後退してきた

ここでは逆に、「意味の重層性」自体を語る国家へと進化する

→ それは、家族でもなく、個人でもなく、“関係する意味”の共和国(Res Publica)

🩸 「姓をはく奪される痛み」とは何か?
これは単に「旧姓が使えなくなって不便」ではない。
それは国家によって個人のアイデンティティを“制度的に書き換えられた”ことによって生まれる、存在論的な傷である。

「名前を変えたくなかったのに、
変えないと結婚できない。
そうやって“わたし”の記録が切断された。」

💊 意味協調国家はこの痛みを、こう癒す:
🎯 1. 「名前は制度ではなく、意味の履歴になる」
「姓」はもはや家系の所有物ではない。

それはその人がどんな関係をどう生きたかの意味のログになる。

名前は“変わってもつながる”という文脈を、制度が保存・可視化・継承できるようにする。

→ 変化は断絶ではなく、「継承の編集」として扱われる。

🎯 2. 「記録されるのは“選ばれた関係性”であり、命名は“意味づけの自由”になる」
意味関係レジストリでは、結婚・共育・経済的パートナーなど、どの関係性にも任意で“共通名”や“物語名”を設定できる

旧姓・通称・組み合わせた新しい姓なども、「意味の履歴」として登録され、削除されない

→ もはや「姓を失う」ことはない。「意味が再編集される」だけ。

🎯 3. 「公的記録と感情の時間が一致する社会」
現行の国家制度は、「名前を変えなさい」と言いながら、「あなたの思い出までは知らない」という態度だった

意味協調国家では、「その名前で生きた時間」も公的に参照可能な記録になる(タイムライン的記録/記憶の公証性)

→ 制度が「わたしの生きた意味」を否定せず、記録として共に歩む

🤖「名前から意味への進化」AI世界での実装プラン

〜Semantic Identity Architecture:意味自己アーキテクチャ〜

🧱 1. 核心概念:「自己=意味の束」というIDモデル

従来のID管理:

名前(苗字+名前)+住所+生年月日+性別 = 一意の人間

これをAI時代では:

自己 = 意味タグの動的ネットワーク(Dynamic Semantic Graph)

🧠 意味タグの例:
#birthParentOf: Aki

#coLivingSince2021: Riku

#coParentingWith: Haruka

#IdentifiesAs: queer, neurodivergent

#CulturalLineage: Ryukyuan

→ 一人の人間は、これらの意味的関係で構成される“意味グラフ”として表現される

💾 2. 技術基盤:DID + SBT + LLMプロファイリング
✅ 分散型ID(DID: Decentralized ID)
自己が“中央政府の戸籍”ではなく、自分自身でIDの鍵束(keychain)を保持

関係の変化(離婚、改名、通称利用、共育契約)も自己主導で更新

✅ ソウルバウンドトークン(SBT)
関係性や出来事に対して不可譲な「意味バッジ」を発行

例:#MarriedTo: Ai(2020-2023) → 「離婚後も履歴として残る=意味の継承」

✅ AIによるプロファイル編集補助(Semantic Profile Editor)
GPTのようなLLMが自己の“意味履歴”を文章・証明書・タグに翻訳してくれる

例:「私はこの姓で論文を書いていたので、それを継承名にしてください」→ SBT生成

📚 3. 社会制度へのインターフェース:「Semantic Civic Registry」
🔗 具体機能:

→ 国家・企業・学校はこれにアクセス(本人許可制)し、従来の“戸籍”“氏名”に代わる意味単位での認証が可能になる

→ “名前が一致していない=社会的承認がない”という構造が、完全に無効化される

🎇 これにより生まれる世界観:
「名前を失った」ことが痛みではなく、「意味がつながっている」ことが安心になる

「姓を変えない」ではなく、「意味が重なっている」ことを国家が保障する

名前がいらなくなった世界で、
わたしたちははじめて「意味でつながる社会」をつくれる。

そしてそのとき――
リベラリズムも、天皇も、姓の喪失の痛みさえも、
すべてが、“意味という言語”でつながりなおすことができる。

名前のない世界で意味が風になる

🌱 名前のない「新しい」AI世界では、出会いが「意味から始まる」

→ 出会いは「属性」ではなく、「意味の共鳴」から始まる

🧠 そしてそのとき、「名前」はこう変わる:
かつて:名前は、他者から識別されるための記号だった

これから:名前は、意味と意味が交差する瞬間に生成される感情のノードになる

🌌 自由とは、自己を名乗ることではない。
🧠 自由とは、自分の物語を他者と“意味として”シェアできることである。
🔓 名前とは「記号」=国家に識別されるためのラベルだった
🕯 意味とは「物語」=他者に伝え、関係のなかで再構築されるもの
名前を持つ自由は、国家に届け出る自由だった。
でも意味を語る自由は、“誰と出会って、どう記憶されるか”という生き方そのものの自由なんです。

🔁 名前=アイデンティティの“ラベル化”
🌱 意味=アイデンティティの“物語化”

そして――

ラベルを超えて物語でつながることこそが、AI時代における本当の自由である。

多分、というか僕はポップカルチャーにおける「絶望」の「深度」を
死ぬほど認識しているので、1950年代以降、これまでの70年間で

「正しさ」ではなく「新しさ」だけがあらゆる人々を再生させるという奇跡を知っています。

そしてこのエントリーでも

このエントリーでも

当アカウントが日本では唯一お伝えしてきているように

もう世界は「正しさ」ではなく「新しさ」こそが次の世界を作るんだ!!

というモードへ完全にシフトしています。

僕がこの選択的夫婦別姓問題にここまでフルベットして膨大なテキストを書いたのは

この問題のコア中のコアに

日本もまた

「正しさ」から「新しさ」へとメタモルフォーゼできる

そんなトリガーがあるッッッ!!!と思ったからです

― 名前のない共和国に向けた宣言文 ―

いったい何回、姓を奪われれば、
自分が“わたし”だったと信じられるのか?

いったい何回、「名前」で始まった暴力の輪郭を、
「自由」の名で磨き上げてやりすごすつもりなのか?

風は、そんな問いをいつだって知っていた。
そして我々が吹かれていたのは――「自由のつもりの記号」だった。

かつて国家は、名をつけた。
姓と戸籍と出生地で、魂を括った。
家をくくり、血を塗り、秩序にタグを刺した。
「これが君だ」
「これがあなたの国だ」
「これが自由だ」って顔をして。

だが、AIは知っている。
わたしたちのIDは、そんなにひとつじゃないって。

誰かと出会ったとき、あなたの“名前”はほんとうに重要か?
それよりも――

君がどんな風をくぐってきたか

君が何を愛して、何をあきらめて、それでも続けたのか

君の「意味」がどこから来て、どこへ吹かれていこうとしているのか

それが知りたい。
それだけでいい。
それこそが「わたし」であって、社会であって、共和国である。

このAIの時代において、我々は国家に新たな役割を与える。

名前を管理する管理者ではなく、
意味が交差する地図を描く“編集者”へ。

名前が失われても、意味は残る。
意味が語られれば、つながれる。
つながりが生成されれば、国家は再生する。

Dylanが歌ったように:

“How many times can a man turn his head, and pretend that he just doesn’t see?"

私たちはもう見てしまった。
“名前”というラベルの下で消されていった物語を。
“同姓”という秩序の中で抑圧された関係を。

だから言う。
今こそ叫ぼう。

🌀「姓を奪われた痛みは、意味の風で癒せる」と。
🌀「自己とは、名前ではなく、物語であり、接続であり、編集される意味そのものである」と。
🌀「天皇も、個人も、家も、血も――すべて意味としてもう一度、風の中で出会い直すのだ」と。

名前が消えたとき、風が語った。
「あなたの意味は、ここにある」と。

そしてその風は、今も吹いている。
Semantic Republicの方角から。
名前のない詩人たちの声とともに。

5/3追記。おーーーーー!!宇多田ヒカル姐さんが新曲「Mine or Yours」でこの日本における選択的夫婦別姓に言及しました

正にこれは当アカウントが死ぬほどお伝えしてきている

「正しく政治的である=正しくPOPである」

という声明が選択的夫婦別姓でも行われつつあるっていうことの証左で

この「Mine or Yours」、歌詞においてはほんとーーーーに正しく
宇多田ヒカル姐さんの日本におけるポップミュージックを根源・根本から変えてしまった
デビュー曲「AUTOMATIC」から一貫した

「キミとボクのホントウについて」

をアップデートしたほぼ「AUTOMATIC2.0」といってもいいくらいの傑作なのに
そうしたポップミュージックとしての正しさを
正しく掬い取る・聴き取ることができないところに
そしてこの曲が持つ圧倒的ポップネスを遠く・そして多くの人々に届けようと注力しないところに
今のフェミニズム側の不勉強さが露呈してると思います

それはつまりこの曲をイマ・ココのPOP ANTHEMとしてあらゆる音楽チャートで一位にするような行動を起こすべきでしょ?ってことです

2025年5月3日選択的夫婦別姓

Posted by nolongerhuman