TBS感謝祭でのエガちゃんこと江頭2:50氏を擁護して永野芽郁チャンを笑う「お笑い通」がキモ過ぎる件
江頭2:50が永野芽郁を泣かせた――この出来事を巡って、SNS上に湧きあがったのは「これは江頭の芸風だ」「永野もわかっていたはず」「むしろ泣いたことで面白くなった」などと、火消しのつもりで火に油を注ぐ“お笑い通”たちの見苦しい身ぶりだった。
だが待て。
それは芸だ?
ならば問う。「芸」の本質はなにか? 観客を笑わせることか? 畏怖させることか? 違う。芸とは本来、権力を、制度を、共同体の偽善を照射する反逆の刃であり、バカとされる者の口からしか語れない真理の名を叫ぶための、聖なる演技であるはずだ。
そして、何より芸とは「弱い者に暴力を加えること」ではない。
「お笑い考察」の過剰――それはポストM-1症候群である
2000年代以降、M-1の台頭によって“漫才”は高尚な芸術であるかのように語られるようになった。「フリがうまい」「構造が秀逸」「伏線回収がエグい」……。それ自体はいい。お笑いが分析に耐えるものだと証明されたのは、ある意味で祝福すべきことだ。
だが、それを契機に生まれたのは、「自分にはわかっている」と言わんばかりの解説屋たち。彼らがやっているのは、漫才やコントを「文化資本」の文脈にぶち込むことで、自らの階層的位置を引き上げるルサンチマンの発露に過ぎない。
江頭を「古典的な狂人キャラ」だと評価する者たち。彼らがやっているのは、マルクスを読みもせずに「プロレタリア文学の香りがする」と抜かす輩と、まったく同じことだ。
泣かされた側の声を、なぜ聞かない?
ここで問題なのは、「江頭の行為が正当だったか」ではない。「永野芽郁が泣いた」という事実を、いかに“意味”づけようとするのか、という点である。
「泣く」という最も人間的な反応に、「あれは演出」「プロとしての涙」「感情移入が深い証」などと解釈を塗り込める行為。それはコメディでもなんでもない。むしろそれは、芸の名を借りた感情の簒奪だ。
人間が泣いたのだ。それだけで十分に、何かが壊れたのだ。
批評と“お笑い通”の違い
批評とは、本質的に権力を問う行為だ。だがSNSにおける「お笑い通」たちは、むしろ既存の構造の代弁者であり、芸人と芸人でない者の「ヒエラルキー」に自らを同化させることで、安心を得ている。そこには「永野芽郁の涙をバラエティの演出に還元する」ことで、自らが芸人に近い側であると信じたいという、強烈な願望が見え隠れする。
それがルサンチマンでなくて何か。
「俺はわかっている」 「お前ら素人とは違う」 「泣いたのは“プロとして”のリアクション」
そう言ってしまった瞬間に、笑いは「暴力の免罪符」に転落する。そして、それを正義だと思い込む者たちが溢れたとき、コメディは権力の走狗になるのだ。
江頭氏の“神格化”と、笑いの死
江頭2:50が昔、全裸で暴れたとき、それは体制に対する逆説的な批評だったかもしれない。だが今、彼が“許される”のは「昔からそうだったから」というだけの惰性であり、それを“芸”と呼ぶのは詐欺だ。
彼の過剰な演出、狂人性、突撃的パフォーマンスが、もはや「芸」ではなく「様式美」になった瞬間、コメディの魂は死んだ。
泣かされた者に「泣くな、これは笑いだ」と強要する地獄。
それは、もう笑いではない。支配だ。
笑いは「共犯」ではない
「笑い」とは、もともと誰かを救うものだったはずだ。少なくとも、傷つけた者を笑うことではなかった。
SNSで“考察”を装い、泣いた者を笑い、芸の名で暴力を許す「お笑い通」たちよ。君たちのその語り口が、最も“芸”から遠いところにあると気づけ。
それさえもわからないなら
「お前ら、笑いの地獄に、溺れ死ね」
[Verse 1]
I fell under such gentle persuasion
You can’t refuse, it’s like a home from home
Meanwhile in the motor car kingdom
They’re finding all that glitters is not chrome
[Verse 2]
The social circle have these cardiac complaints
Their hearts are empty when their hands are full
All these new found fond acquaintances
Turn out to be the red rag to my bull
[Chorus]
And I’m up while the dawn is breaking
Even though my heart is aching
I should be drinking a toast to absent friends
Instead of these comedians
[Verse 3]
I’ve looked into those eyes upon reflection
They’ve seen the face of love, they’ve seen a few
What kind of love is this upon inspection?
You’ll be the last to know who’s fooling who
[Chorus]
And I’m up while the dawn is breaking
Even though my heart is aching
I should be drinking a toast to absent friends
Instead of these comedians
(lyrics by Elvis Costello)
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