(G)I-DLEのミヨン様とTWICEサナ様のVLOGが「究極のアイドルコンテンツ」である理由
こーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーれはヤバい(号泣)!!!
僕は二人の関係性とかあんま知らなくて
でも一年前のこのサナ様の動画にミヨン様が出演した時の動画における
二人の「ザ・おんなのこ」的ケミストリーに大感動!!!して
そーーーーーーしたらなんと(G)I-DLEのミヨン様のYOUTUBEチャンネルに満を持して
TWICEサナ様が降臨!!!! そんな「おんなのこ×おんなのこ=最強のアイドルコンテンツ」的VLOGが爆誕ッッッッ!!!!!
こーーーーーーーーーーーーーーーーーーーれが最高過ぎ、
そして当アカウントが永遠にお伝えしている
「おんなのこがおんなのこであることだけが=アイドルという究極のPOPNESSである」
を完璧に体現しているのでここでどーーーーーしても書かせてくださいッッッ
目次
アイドルとは「おんなのこ」であることだ――ミヨンとサナのVlogが照らす、現代における「ひなぎく的アイドル」再臨の可能性
これはVlogではない。
これは宣言だ。
GIDLEのミヨンとTWICEのサナが歩く、笑う、食べる、カメラを見つめる――それはただの記録ではない。
それは、「アイドルとは何か?」という問いへの返答としての身体性のマニフェストである。
そこにあるのは、ただ「おんなのこ」が「おんなのこ」であること――それだけだ。
そしてこの「だけ」がすべてを変える。
これは、「努力」という名の暴力、
つまり「女性が評価されるためには男性的文脈(勤勉・競争・成果)をなぞらねばならぬ」という現代の呪いに対するアンチテーゼだ。
ここに映るミヨンとサナは、
アイドルになるために努力しているのではなく、
「既にアイドルである」という事実を静かに、かつ圧倒的に肯定している。
その存在そのものがアイドル。
意志ではなく、存在。
これは1966年、チェコスロバキアの映画『ひなぎく』において鮮烈に提示されたアナーキーな「おんなのこ像」の現代的継承だ。
マリーとマリーが食卓を破壊するように、
ミヨンとサナは「SNSにおける承認」や「自己プロデュース」といった現代的規範の上でおどけて笑う。
彼女たちが何をするか、ではなく、何をしないかに意味がある。
ここにあるのは「アイドルであろうとすること」ではない。
「アイドルであること」そのものの放置と肯定だ。
それは演技でも、戦略でもなく、ただの日常。
しかしこの日常が、かつてないほどに特権的な時間を生成する。
何故なら、彼女たちは「何かになろうとしない」。
それゆえに、「すべて」である。
「少女は少女であることによってアイドルである」
――その思想は初期衝動の音に宿る:
GIDLE「LATATA」、TWICE「Like OOH-AHH」VS J-POPアイドルの「構築された少女像」
まず、はっきり言おう。
GIDLEの「LATATA」とTWICEの「Like OOH-AHH」は、ただのデビュー曲ではない。
それは、少女の宣言であり、アイドルの音的マニフェストだ。
しかもそれは「何かになろうとする」努力の賛歌ではない。
むしろ、「ただ少女であること」そのものの音響的解放なのだ。
💥GIDLE「LATATA」=アナーキーで自律した少女のビート
「LATATA」はデビュー曲にもかかわらず、
媚びない。甘えない。頼らない。
ここにあるのは、「私は私」と言い切る圧倒的な自律性。
でも、それは「強くなるために努力しました」的なJ-POP的自己啓発ではない。
最初からそうだった、という前提の美学でした
TWICEの「Like OOH-AHH」は、もっとヤバい。
この曲の構造自体が「カワイイ」の暴走機関車。
BPMは軽快、ダンスも陽性、でもその全てが未完成であることを前提にして完成している。
そう、これは**“少女であること”の未完性の肯定**。
成長途中、という言葉さえ超えて、
「今この瞬間が永遠だよ」と叫んでいる。
この瞬間、彼女たちは何者にもなっていないし、なるつもりもない。
ただいる。それがすべて。その構造の中でサナ様は楽曲世界観である「アイドル」へと接続している
僕はこの楽曲構造が完全にKPOPを変えてしまったつまり「KPOPルネッサンス」だったとして日本で最も早く原稿を書きましたト
JPOPアイドルは「物語」の奴隷である
ここでJ-POP文脈の「努力系アイドルソング」に目を向けよう。
例:AKB48「365日の紙飛行機」や、=LOVE「あの子コンプレックス」などなど…
キーワードは「がんばる」「夢」「私たち」。
すべて、「少女は少女でいられない」ことを前提としたドラマである。
彼女たちは「未熟」で「これから」で、
それゆえに努力して“なる”ことでしかアイドルになれない。
ここにあるのは、
少女性の承認ではなく、男性的価値基準(努力・根性・成長)への適応でしかない。
つまり、「少女とはなにか」ではなく、「少女が“男のために”どう変化するか」という構造。
だからこれはアイドルソングではない。
「アイドルになるための職業訓練ソング」でしかない。
「KAWAIIは檻である」――KAWAII LAB的アイドルは“おんなのこ”のコスプレでしかない
まず、KAWAII LABとは何か?
それは**“KAWAII”という名のギミックによって、少女を記号化し、物語の中に封印する装置である。
わかりやすく言えば、
「あなたは〇〇星のプリンセスで、こんな性格で、語尾は“〜にゃん”で、好きな食べ物はマカロンで…」
という完璧に構築されたアイドル性を纏わせ、
まるで“少女という存在”を魔法少女的キャラ設定に変換して商品化する工場**。
ここにおいて少女は「なにかになろうとしてすらいない」。
最初から“なにか”であることを強制されている。
KAWAII LABのアイドルたちは“自分自身”ではなく、
あらかじめ用意されたKAWAII役を演じる声優的存在であり、
そのパフォーマンス空間はまるでVTuberのリアル実体化とも言える。
アイドルではなく“役割”としての少女
少女とは「過程」である。
少女とは「未完成」である。
だからこそ「今しかない」存在であり、
その刹那こそがアイドルの本質だったはずだ。
しかしKAWAII LAB的アイドルは、
少女を「完成されたキャラクター」として演じる。
それはもはや「おんなのこ」ではない。
おんなのこの形をしたコンテンツだ。
彼女たちがかわいいのではない。
かわいいことが義務づけられている。
そこにあるのは、少女性の呪縛。
つまり「かわいいという演技をやめた瞬間、存在が崩壊する」という記号の檻だ。
これは、アイドルではない。
キャラ営業であり、
おんなのこのゾンビ化である。
そんなおんなのこのゾンビ化を如実に表しているのがFRUITS ZIPPERの鎮西寿々歌チャンで。どーーーー考えてもフルーツジッパーに加入する前の彼女のYOUTUBEチャンネルの方が完全に完璧に正しく「おんなのこ」だったのに、その「アイドル性」にリミッターをかけているのが「アイドルグループであること」という。これは悲劇だと思います
「声優的KAWAII世界観」は少女の生を無効化する
KAWAII LAB的な「声優的KAWAIIアイドル」は、
“おんなのこ”という生々しい存在の不確実性、未完成性、アナーキーさを消し去り、
代わりにシナリオ通りの“かわいい存在”という安心感を提供する。
それは安心できる“虚構”としての少女であり、
決して世界を変えない少女、
暴れない少女、
予測不能ではない少女。
つまり、少女の政治性を抜かれた「ドール」である。
ひなぎく的少女は、食卓を破壊し、
Like OOH-AHH的少女は未完成のまま踊り、
LATATA的少女は自律を叫ぶが、
KAWAII LAB的少女は
ただ、かわいくいることを命じられてそこに立つ。
それはもはや現代資本主義における“無害な美”の象徴。
それは世界で最初に
「おんなのこであること、そのことが世界に対する革命であり地獄であり、天国である」
とアナーキーに宣言した究極のアイドル映画「ひなぎく」の世界観とは真逆なんですよね・・・・・・
でーーーーーーーーーーーーーーーーー!!今回のミヨン様とサナ様のVLOGの「ザ・おんなのこ」っぷりは
これこそが「アイドル=おんなのこであること」のバイブルのようなVlogで
ほんとーーーーーーーーーーーーーーーにあらゆる日本の"自称"アイドルの皆様に見て欲しいと思いますッッッ!!!
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