少女は不倫する「生き物」。永野芽郁&田中圭の「不倫LINE」をロリータ史観で考察する
もーーーーうAV監督として、そしてAV業界において(手前味噌でスイマセーン・・・)
文学史における「ロリータ小説」の金字塔「ロリータ」
の世界観をAVにおいて最もDEEPなコンテンツへと落とし込んだHMJMの伝説的作品、「ALICE」
のコンテンツディレクションをして、亡くなった雨宮まみ女史のこのインタビューでもお話ししているように
もうこれまで何千回と書いてきましたが
正しく「少女」であること
正しく「性愛」的生と聖と性を生きること
それは悲劇的にそして喜劇的に
社会への「F*CK U」
なんです。
目次
文春報道が赤裸々に明かした永野芽郁の究極のロリータ性
僕はぶっちゃけこれまでの永野芽郁サンには全く興味がなかったんですが
本日発売になった週刊文春の途轍もなく赤裸々な
永野芽郁チャンと田中圭氏の
正しく、そしてエロ×2なLINEでの
「性愛まみれ」=「アナーキー」なやりとりを見てはじめて
永野芽郁という女優の「ロリータ性」、それはイコール「ファムファタール性」ってことですが
が明らかになってて、初めて永野芽郁サンに興味をもつことができました
《少女は虚構をまとう。男は真実を演じる。》
永野芽郁と田中圭の“許されざる”邂逅
この物語を、ただの“略奪”や“年の差不倫”で消費してはいけない。
これは、ロリータである。
いや、ロリータの呪いである。
《ロリータという構造の、2025年バージョン》
ハンバート・ハンバートは語り部であると同時に狂気の編集者だった。
彼は、少女ドロレス・ヘイズに“ロリータ”という名を与えることで、
世界の秩序を彼の妄執で上書きした。
ならば、2025年のハンバートは誰か?
田中圭である。
そして永野芽郁は、“永野芽郁”という生身の存在から、
**週刊誌のレンズとインターネットの欲望によって“令和のロリータ”**へと変換されてしまった。
この物語において、彼女は少女であることを強いられる。
透明感、無垢、でもどこか蠱惑的。
『ロリータ』において、最も危険なのは欲望が“美”をまとって語られることだ。
“ぼくのロリータ、光をはじくひざ小僧、罪深くも清らかな肢体。”
現代においても、この構造は反復される。
不倫報道は「倫理の狂騒曲」として売られるが、
その実体は、女優という虚構存在に対する“物語の編集権”の争奪戦だ。
田中圭という少女に狂うハンバートハンバート性とは?
コメント欄で彼女を叩く者たち。
彼の家庭を憐れむ者たち。
だが皆が共犯者である。
なぜなら**“彼女をロリータに変換した罪”**を、誰もが分担しているからだ。
つまり、これは「田中圭の不倫」でもなければ「永野芽郁の堕落」でもない。
**“われわれすべてのロリータ物語”**なのだ。
「ロ・リ・イ・タ:舌の先で三歩踊らせ、三音目で破滅へ転がる名。」
それは名前ではない。呪文だ。
それは今、令和の魔術によって再び召喚された。
この構造の果てに、“罪”や“恋”などという凡庸な単語はもう意味を持たない。
そこにあるのは、虚構を生きる少女と、その虚構を愛したがる世界の、静かな終焉だ。
我々はなぜ“ロリータ的物語”を消費し続けるのか?
“ロリータ”という言葉は、もはや小説ではなく“構造”である。
・歳の差
・権力の不均衡
・少女の無垢を装った熟慮
・男の罪と正当化
・そして、それを囲む「語る側」のエクスタシー
芸能スキャンダルとは、その構造を 現代的に翻訳した「演目」だ。
人は倫理的に怒るふりをしながら、
実は物語に酔っている。
田中圭と永野芽郁の報道が燃え上がったのは、
それが「不倫だから」ではない。
**“構造として美しすぎたから”**だ。
まるで『ロリータ』が、禁忌と詩情の狭間で読者を魅了したように。
彼らの関係もまた、倫理と演出のはざまで炎上する宿命を持っていた。
われわれは皆、ナボコフの亡霊である
この文春報道で明確なのは永野芽郁の「明確さ」と田中圭の(であるがゆえに彼は「ダメンズ」枠として消費されてるわけですが)「不明」である
ナボコフの『ロリータ』において、ハンバートは“愛していた”という。
だが、彼はドロレス・ヘイズを愛していたのではない。
彼の記憶に封じられた“ロリータ”を編集し続けていたのだ。
つまり彼は、「自らの記憶によって少女を物語化すること」に
性的興奮を感じていた。
なぜハンバートはロリータを愛したのか?
少女だったからではない。
“誰も愛さないでほしい少女”を自分だけが所有するという物語を
彼だけが知っていたからだ。
ここに倒錯が生まれる。
倫理を逸脱することは、倒錯にとっての“導火線”ではない。
むしろ倒錯とは、**倫理が過剰に支配する世界の中でのみ輝く「想像力の爆弾」**なのだ。
田中圭と永野芽郁の関係が過剰に騒がれた理由も同じである。
そこには社会が見て見ぬふりをしたい、
“パパのような人と恋に落ちる娘”という語りたくなる倒錯構図が潜んでいた。
性愛は常に――倫理をいったん脱臼させてから始まる。
なぜなら、性愛とは「他者」を欲望するのではない。
“他者のイメージ”を、自己の物語の中にねじ込み、再生産する行為だからだ。
つまり性愛とは、“現実を一時的に壊す”ことでしか味わえない快楽なのである。
ナボコフのハンバートも、
我々の不倫ドラマ視聴者も、
同じ地平に立っている。
誰もが――
倫理の世界に生きながら、物語の中では悪魔になれる場所を探しているのだ。
性愛とは、呪いと文学の交差点なのだ。
われわれが“恋”を語るとき、
それは倫理ではなく、
亡霊の語りなのだ。
僕はそのど真ん中を生きている「少女」としての永野芽郁サンをはじめて「愛しい」と思ったし
そんな彼女の本質をまーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーったく
検証しない全てのメディアに対してとてもとてもとても疑問を感じます
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