「重く受け止める」斎藤知事とパトリック・ベイトマンの「物語なき自己愛」とSNS神格化現象における宗教的構造

2025年5月29日その他

あーーーーーーーなるほどね・・・・・・

昨年2024年の3月からはじまった兵庫県知事の斎藤元彦氏による兵庫県県政の途轍もないカオスっぷり
そして斎藤知事の政治的判断によって多くの方々が「自殺」へと追い込まれた問題

確実に2025年の流行語大賞候補の一つは斎藤知事がこの半年間の定例記者会見で
死ぬほど連発なさった

「重く受け止める」

だと確信してますが

何度もお伝えしてますが当アカウントは「ポップカルチャー的視座から政治=ポリティコを再定義する」のがミッションなので
この一年半!!にわたる斎藤知事について、あれ・・・・絶対に齋藤知事のようなキャラクターをどっかで見てきたはず・・・
と思いながら、その考察ができなかったんですが

昨日(5/27)の第三者委員会による「斎藤知事による指示の可能性」を示唆した会見

そしてそれを受けての「私は何も指示していない」という斎藤知事の会見

そして最終的に「誰がどのようになにをしたのか?はわからない」という極めて極めて極めて官僚的な答弁になってしまった
兵庫県人事部の会見

これらを全部見て、よーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーやく

兵庫県知事である斎藤元彦氏とはポップカルチャー的視点から見ると「何者」なのか???

がわかったのでこのエントリーをさせていただきました。

つまり斎藤元彦知事とはほぼ99%イコールでブレット・イーストン・エリスによる文学史上の奇跡の傑作
「アメリカンサイコ」の主人公であるパトリック・ベイトマンまんまのキャラクターであり

この多くの自殺者を生んだ兵庫県斎藤元彦知事案件の本当の本当の、コア中のコアとは

なぜ斎藤元彦知事は「神格化」されるのか?

なぜ今、このSNS時代に斉藤元彦知事=パトリックベイトマン的キャラが多くの人々にとって「神」として認識されるのか?

ここを書かない限りまったく何も意味がないんですね・・・・・

なのでここから先、これまでもそしてこれからも誰も書かないであろう

・兵庫県知事斎藤元彦氏の精神分析

・なぜ斎藤元彦氏的=パトリックベイトマン的キャラクターが多くの人々によって「神格化」されるのか

だってぇーーーー誰もやんないんだもん(泣)ということで究極解説させていただきます(ポップカルチャーの視点から)

1. 斎藤知事とパトリック・ベイトマンに共通する人格的特徴

兵庫県の斎藤元彦知事と小説『アメリカン・サイコ』の主人公パトリック・ベイトマンには、
自己愛傾向・感情の欠如・責任回避といった共通の人格的特徴が見られます。

これらの特徴は精神分析の観点からナルシシズム的なパーソナリティに典型的なものです。
たとえば精神科医クルト・シュナイダーは、他者への思いやりや良心の欠如、罪悪感の欠如、自己中心性などを特徴とする人格障害を
「情性欠如者 (Gemütlose)」と呼びました

斎藤知事の一連の言動はまさにこの「情性欠如」タイプに近いと指摘されており、
道義的責任を問われてもどこ吹く風で真顔で答える姿勢は不気味ですらあると評されています

実際、斎藤氏は内部告発によって職員へのパワハラ(強権的な怒鳴りつけや深夜のチャット指示乱発など)の事実を認定されましたが、
本人は「記憶にない」「(職員が)気分を害したなら遺憾だ」と述べ、自身の非を認めない態度を崩しませんでした。
これは問題が起きても「自分のせいだとは思わない」という典型的な自己愛人格の特徴と合致します

一方、パトリック・ベイトマンもまた極度のナルシシストかつサイコパス的性格として描かれています。
彼は高級マンションに住み高級品に囲まれた自己顕示的生活を送りながら、内心では他者への共感や良心を著しく欠いています。
映画版の分析によれば、ベイトマンは現実から断絶し自己と表面的な事物に没頭しており、
その日常行動や他者への態度は自己愛性パーソナリティ障害と反社会的人格障害の診断基準に合致しています

たとえば彼は同僚の名刺に嫉妬して
(このシーンは映画史における最も優れた&狂ったシーンとして認定されています)

ホームレスを殺害し(フィクションか幻覚かは曖昧ですが)、
売春婦をチェーンソーで追い回し切り刻んだのちその死体を食べていますが

それにもかかわらず他者への罪悪感や後悔は皆無で、殺人を告白しようとする場面でも自分の行為を悔いる様子がないことが指摘されています
このように、ベイトマンもまた他人の感情や社会的規範に囚われない自己中心性と冷酷さを示し、

**「他人よりも自分を優先し、常に自分が正しいと思い込む」**という自己愛人格の典型を体現しています

2. 自己防衛としての幼児的行動様式

興味深いのは、以上のような共通する人格特徴が自己防衛的なメカニズムとして機能し、
その振る舞いが精神発達上幼児的(未成熟)である点です。
現代精神分析では、極端なナルシシズムは深い不安や劣等感から自我を守るための防衛だとみなされることがあります
メラニー・クラインはナルシシズムを一種の防衛と捉え、健全なナルシシズムなど存在しないとまで述べました
つまり自己愛的な振る舞いの裏には、他者に頼れない弱い自己を守ろうとする無意識の自己防衛が潜んでいるのです。
例えば斎藤知事が部下の些細なミスにも烈火のごとく怒鳴り散らすのは、権威が揺らぐ不安に対する攻撃という防衛反応と解釈できます。
同僚より劣ると感じたベイトマンが衝動的に暴力に走るのも、自尊心の傷を癒すナルシシスティックな怒り(narcissistic rage)といえるでしょう
いずれも外部を攻撃・非難することで、自らの欠点や罪悪感を直視せずに済ませる投射的防衛の様式です。
また、こうした防衛的態度は精神的な発達段階の幼児性を示唆します。
フロイト以来の精神分析では、生後しばらくの乳幼児は自他の区別がつかず
「あらゆる欲求が満たされる全能感の幻想」を抱く一次的ナルシシズムの状態にあるとされます
本来なら成長とともに、現実には自分の思い通りにならないことを学び、他者の存在を認識して適応していくはずです
しかし自己愛人格の人々は心理的にこの幼児期の全能感に固着しているように見えます
。彼らは「自分は特別扱いされて当然だ」という特権意識が強く
自分の欲求が阻まれると子どものように激高したり癇癪を起こしたりします(斎藤氏の机叩きやベイトマンの狂乱ぶりはその典型です)。
さらに問題が起こっても**「自分は悪くない」と責任を否認する傾向も、
まるで叱られた子どもが「ボクじゃないもん!」と言い張る姿に重なります

3. SNSにおける「神格化」と推し活現象の共通点

こうした自己愛的傾向を持つ人物がSNS上で「神格化」される現象も注目に値します。兵庫県の斎藤知事のケースでは、
不信任可決により失職した彼を熱烈に支持する人々がネット上で「#斎藤元彦知事がんばれ」といったハッシュタグを拡散し、
まるでアイドルのように応援する動きが見られました
支持者たちはオリジナルの応援うちわを作って街頭演説に駆け付け、斎藤氏の一挙手一投足に熱狂しましたが、
この現象はメディアから「まるでアイドルの推し活のようだ」と形容されています
実際、日本のネット文化では、自分たちが支持する人物(政治家であれ俳優であれ)を「推し」と呼び、
その活躍に声援を送ったり擁護したりするファンダム(fandom)文化が広がっています
斎藤氏の場合、従来のメディアに叩かれて四面楚歌状態になった彼を「判官びいき」で助けたいという思いと、
既存の権威(オールドメディア)への不信感が相まって、自発的な支援コミュニティが形成されたとも分析されています
支持者らは斎藤氏の演説動画をSNSで拡散し、そのカリスマ的人物像を自ら作り上げていったのです。
この現象は、日本のアイドル文化における「推し活」とも深い共通点があります。
アイドルの熱狂的ファンは自らの“推し”を文字通り**「神」と呼んで崇拝し、
ライバルグループとのファン抗争を「宗教戦争」と称し、推しグッズを飾る棚を「祭壇」と呼ぶなど
、自分たちの活動を擬似宗教になぞらえることさえあります

英語の“fan”(ファン)の語源が「fanatic(狂信者)」であり、元々ラテン語で「神殿に属する」という意味だったのは示唆的です

つまり近代以降、スポーツや芸能の熱狂的ファンの姿は宗教的熱狂になぞらえられてきた歴史があるのです
現代日本の推し活文化もまさに宗教的コミュニティに類似しており、
ファン同士が「同じ神を信仰する同志」として強い連帯感を持っています。
とりわけSNS時代には、ファンが地域や立場を超えてゆるやかに巨大なコミュニティを形成し、
「推し」を中心とした疑似共同体を築いています
それは、一種の共同幻想を共有する信徒集団にも喩えられるでしょう。
斎藤知事の支持者たちもまた、自分たちの“教祖”である斎藤氏を擁護し称賛することで結束し、
外部からの批判に対しては過剰に反発する傾向が見られました。
このようにカリスマ的人物の周囲に熱狂的支持者集団が形成され神格化される様子**は、
アイドルの追っかけから政治運動まで通底する社会現象だと言えます。

ただ、この現象、そして斎藤元彦知事とは何者か?ということをポップカルチャー的にみるともっともっともっと!!

僕等が今を生きることの「意味」がその姿を赤裸々に現前させるのです

斎藤知事とパトリック・ベイトマンの「物語なき自己愛」とSNS神格化現象における宗教的構造

責任を問われ、「ご意見は重く受け止めます」の一言で沈黙し続ける斎藤知事。彼のこの言動は単なる無責任ではない。
むしろ彼は「自分が語るべき物語を持っていない」のである。
内的ストーリーの欠如──これが現代自己愛者の真の病理であり、
その空虚の上に仮面のように貼り付けられたのが「政治家」という役職に過ぎない。
ではその空虚はなぜ暴かれ、なぜ崇められるに至るのか?

ベイトマンの名刺と斎藤知事のチャット──内的物語の欠如

パトリック・ベイトマンはただ高級レストランに通い、完璧な名刺を誇示し、

ハイブランドに囲まれた生活を送る。
だがそれは彼の内的ストーリーを満たすものではない。
むしろ彼の内面は空洞で、彼が殺人という逸脱に手を染めてゆくのは、
破綻した現実においてようやく「何者か」になる唯一の道だった。
斎藤知事が「県政改革の旗手」などと持ち上げられる一方で、
夜中に職員へチャット指示を連投し、激昂するのもまた、
彼の“役割”に自己の物語が伴っていない証拠である。
彼らは物語の欠如に怯える"無名の男"たちだった。

ストーリーと自己愛

そもそも「自己愛」とは何か? それは根源的に“他者の不在”である。他者を不要とし、
関係性の時系列を拒絶する閉じた精神の構造──だからこそ、自己愛には本来「物語」がない。
イエス・キリストをはじめ、古今東西の神たちは壮大なストーリーによってその輪郭を刻まれたが、
自己愛者にはそのような歴史がない。だから彼らは神になれない。はずだった。

だが、SNS時代の神格化は逆方向に成立する。

彼ら自己愛者たちは、外部から「受難のストーリー」を付与される。炎上、誹謗中傷、追放──まるで磔刑のように。

その瞬間、彼らの最後の砦である自己愛は、物語という外圧によって粉砕される危機に立たされる。
そしてここからが面白くも恐ろしい展開だ。

かつての神々は、物語に呑み込まれ神話となった。
だが現代の神(自己愛者)は、物語を跳ね除け、拒絶し、殺してしまう。

彼らが語るのは「物語を否定するナラティブ」。すなわち──“ストーリーを拒絶したこと”自体を勝利の物語にするという自己愛の逆襲劇。

これはもはや闘いではない。

これは、ストーリーそのものの排除である。拒絶であり、抹消であり、
自己愛を守るためなら世界の全てを黙殺してもかまわないという、無意識の極北なのだ。

そして人々は──我々は──
この歪なナラティブに、なぜか救済を感じてしまう。

なぜか?

それは我々自身もまた、自己愛を守り抜くことだけを唯一の正義としているからだ。
どんなに滑稽でも、どんなに破綻していても、「それでも私は間違っていない」という一点を死守するその姿に、
我々は自分の鏡像を見る。そして拍手する。推す。神格化する。

ストーリーを手に入れるとは実は

「ワタシを手放す」

ことなのに

この自己愛のセカイにおいては

「ワタシにしがみつく」

ことが正義となる

「私は間違っていない」という叫び──ジャンヌ・ダルクと斎藤・ベイトマンの決定的違い

では、この「私は間違っていない」という叫びは、ジャンヌ・ダルクのそれと同じなのか?
 一見、自己正当化の言明という点では似ている。しかし、その"私"の質が決定的に異なる。

ジャンヌ・ダルクの「私」は、神と民衆と戦場とを貫く時間の矢印に貫かれていた。
彼女は神の声を信じ、フランスの未来を信じ、自らを犠牲にして物語を生きた。

彼女の自己主張は、「私は神の物語の中にいる」という自己超越の宣言であった。

だが斎藤知事、ベイトマン、そしてインフルエンサーたちの「私は間違っていない」は違う。

それは物語への帰属ではなく、物語の拒絶だ。
他者も歴史も存在しない、自閉的で孤立した“私”の絶叫だ。

そして、その"ワタシ"に共鳴する人々もまた、物語に耐えられなくなっている。
人と繋がることが怖く、物語の中に入るのが面倒で、だからこそ「間違っていない」と言い張る
その閉じた姿勢にこそ、共感という名の逃避が起きる。

つまり彼らの「私は正しい」は、ジャンヌのように他者を巻き込み、歴史を背負うものではない。
それは、**他者と物語を絶縁した果てに残った最後の“孤独な信仰”**なのである。

投影と同一化によるカリスマ共同体の形成

では、なぜ人々はこのような「神格化」を行うのでしょうか。
その心理メカニズムとして、投影と同一化の働きが重要です。
まず投影についてですが、ファンや支持者は自分たちの理想や願望をカリスマ的人物に投げ込み、
まるで自分自身を重ね合わせるかのようにその人物像を作り上げます。
斎藤氏の支持者は、彼を「改革者」「犠牲者」といった理想化されたイメージで捉え、
彼の欠点やスキャンダルには目をつむりました。これは理想化という防衛機制でもあり、
自分たちの望む属性だけを対象に投影して「完璧な偶像」を作り上げるプロセスです
。実際、ファン心理学の研究でも
「ファンはしばしば推しに自分自身を重ね合わせ、推しの活躍をまるで自分の人生の一部のように感じる」ことが指摘されています
言い換えれば、ファンは推しを通じて自己価値を投影しており、推しの栄光は自分の栄光、推しへの攻撃は自分への攻撃と捉える傾向があるのです。
これにより、支持者はカリスマを擁護することに自己の価値を見出し、より一層熱狂的にのめり込んでいきます。
次に同一化のプロセスでは、支持者はカリスマとの一体感や支持者同士の仲間意識を深めます。
フロイトは同一化を「他者への感情的な拘束の最も初期の発現」と定義しました
人は尊敬する人物を自分の理想像とし、無意識にその人物の特徴を取り入れようとします。
支持者にとって斎藤氏やアイドルは、自分がなりたい理想像や目標の体現です。
彼らは憧れの存在と自己を同一視し、「私たち(支持者)は◯◯様と一心同体だ」という感覚を抱きます。
この心理的な一体感は、ファン同士の強固な連帯にもつながります
同じ偶像を愛し支えることでファン同士が深く結びつき、共同体的な帰属意識が生まれるのです。
いわばカリスマ的人物を中心に、支持者集団が擬似家族や宗教団体のようなまとまりを持つようになります。
ファンは互いに「同志」として認め合い、そこでは共通の価値観やルール(教義)が醸成されます。
例えば「推しに課金(投げ銭)するのは巡礼の奉仕」「アンチ(批判者)は異端」といった暗黙の了解が共有され、
秩序が形成されるのです。 このように投影(理想の投影・対象の理想化)と同一化(憧れの対象との一体化)が相まって、
カリスマ的人物像はよりいっそう光り輝くものとして支持者の心に刻印されます。
結果、支持者たちはその人物に対し**全幅の信頼と献身(devotion)を捧げるようになります。
マーックス・ウェーバーの言う「カリスマ的支配」も、結局のところ信徒の側の熱狂的信仰によって成り立つものであり、
そこでは理性より感情による「情緒的な共同体」**が形作られるとされます
斎藤知事の支援者コミュニティも、アイドルのファンコミュニティも、
まさにこの情緒的な繋がりによって維持されるカリスマ共同体だと言えるでしょう

映画アメリカンサイコのラストシーンと斎藤元彦氏の「眼」について

その瞳が見ているのは
パトリック・ベイトマンが最後に何もない空間の一点を見つめて口を閉じたあの瞬間。

斎藤知事が定例会見で「重く受け止めます」と繰り返すその瞬間に一瞬だけ宿る、焦点の定まらない、
だが静かに世界の全てを拒絶しているかのような"視線"。

彼らの瞳は、こちらを見てはいない。ましてや過去や未来も映してはいない。

その瞳が見ているのは、ただただ

自分が空っぽであるという事実を、認めてしまえば壊れてしまう、

その臨界を漂う"自我という名のフィクション"なのだ。

その虚無の淵こそが──

現代の神の、聖域である。

2025年5月29日

Posted by nolongerhuman