「和」ではなく「魔」という欲望。政治の再宗教化に高市早苗女史さえも抗えなかった理由
めちゃくちゃ驚くと共に、そりゃそうだよなぁーーとも思いました。
この「出馬会見」が19日
そしてこの「所見発表演説会」が22日
3日しかたってません・・・・・でもこれ本当におんなじ人の会見?!?!?!!?と二度見したぐらいの
まるでクローネンバーグの「ザ・ブルード」ばりの変貌ぶり
当アカウントではポップカルチャーの視点から
今現在、政治の現場で起こっていることは
「政治の再宗教化」である
とずーーーーっとお伝えしてきましたが
高市早苗女史もやはりそうした「欲望のカタチ」から自由になることができなかったと思います。
高市早苗「出馬会見」の驚き
こっちが去年の「出馬会見」の映像なんですが
映像コンテンツを作ってるものからして19日に行われた今年の出馬会見を見て驚いたんですよね
「うわぁーーーーーうまく、すごくわかりやすく"あなたとわたし"という関係性ベースの喋りに変えたなー」
と。
いうまでもなく高市早苗女史はめちゃくちゃクレバーな方で「政策」がわかりやすい。
でもその「人間性」はこれまであまりにも右側の方々からの強力な推し活のおかげで/せいで
ぶっちゃけ「よくわからない不気味なヒト」だったわけです。
それをちょっとあざといくらいの「方言」と「自らの介護体験」「自らの疾病体験」を入れ込むことで
絶対的な自信のある政策をひたすら説明する去年の喋りから
あなたに話していますという関係性の構築のための喋りへ
そうした喋りは今回の会見のために用意したものだから板についているかといえばついてないわけですが
それでも経済対策としての「給付付き税額控除」も含めて
「ウヨサーの姫」状態じゃなくなった感がめちゃくちゃあったわけです。
「和」から「魔」へ。「所見発表演説会」までの3日間に何が起こったのか?
ところが22日の「所見発表演説会」では完全に「ウヨサーの姫」へと逆戻り・・・・・・・
このピボットどころか人格が変わっちゃった?!?!ぐらいの変貌ぶりには現在政治的には2つの見立てが行われており
一つはリベラル側からの解釈である「進次郎氏圧倒的リードに対しての焦りからくるもの」
もう一つは右派側からの「高市氏の方が優勢なのにオールドメディアは彼女をつぶそうとしている。反撃だ!!という進軍ラッパ的見立て」
でももっと本質的な話としては19日のやっつけの「和」よりも政治家高市早苗は「魔」を選んだということ
政治の再宗教化という潮流の中へ飛び込むことを覚悟したとても面白い会見だったと思います。
「無敵の人3.0」を書いたものとしてコンテンツ制作者で僕以上に三島由紀夫というキャラクターを熟知している人間はいないと思いますが
自らの生のコアとして「魔」が必要であること
そうしたコスパ無視の不合理性と生が不可分であること
今の政治の再宗教化を自ら体現し、その結末までを切腹によって描き切ったのが今から50年以上前!!の三島由紀夫でした
でもこれもこれまで死ぬほど書いてきましたがこの政治の再宗教化なんていう生の再定義は
ポップカルチャーでは1950年代から起こっていることであり目新しいことではなくて
むしろあーー遂に政治もまた
「POPであることの魔」
によーやく追いついてきたんだなぁということです。
「POPであることの魔」という神話
1970年11月25日──その日、三島由紀夫は国家という虚構の祭壇に己の肉体を捧げた。あまりにも劇的で、あまりにも物語的で、そしてあまりにもポップだった。
なぜか?
彼は知っていたのだ。「正しさ」や「論理」では時代の魂は動かせないと。
必要なのは、“理不尽という魔”を己の体に宿すこと。
「言葉で届かないものを、血と肉で語る」
それが切腹という終末装置であり、三島の“政治の再宗教化”だったのだ!
それは言語の終わり=身体の開始。
それは論理の終わり=美の爆発。
それは近代批評の死=神話の再構築。
三島が選んだのは、「合理」でも「改革」でも「演説」でもない。
**神話(マキナ)**だった。
ポップであるということは、自己を超えること
高市早苗女史は果たして???
あなたは愛国者を名乗る。あなたは保守を語る。あなたは信念を説く。
だが!信念とは何か?
それは**「自らを炎上させる装置としての自己」**を持てるかどうかにかかっている
三島由紀夫は死によって永遠を得た。
では、あなたは何をもって「理不尽」を引き受けるのか?
「国家観」や「政策」は論者に任せればいい。
だが、「この人が言うなら信じたい」という“存在の力”は、
政治家自身が神話になるしかないのだと思います
三島の切腹は、政治行為であると同時に美学の完成だった。
非合理を生きる勇気
物語を自分で終わらせる意志
世界の“演出”としての政治
これらが融合して、初めて“ポップな存在”として刻印される。
高市氏は自分の物語の脚本家であり、演出家であり、主演女優である覚悟があるかが重要だし
あなたが“信念”と呼ぶその言葉に、
どれだけの痛みと狂気と詩が刻まれているのかが重要だと思います
「美しい国」とは、誰かが美しく散ってくれた国のことである
三島由紀夫はそれを実行した。
では、令和の政治家は?
国民に夢を見せるには、言葉ではなく“儀式”が要る。
政治の終わりには、**“演出としての終末美”**が必要だ。
その装置に、高市早苗女史はなれるか?
高市早苗氏にも「ポップ」の門は開かれています。
この自民党総裁選になんらかの意味があるとすればそれは
高市女史が、そこに踏み込む覚悟があるか????を注視することだと思います












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