高市総理 初の所信表明演説。そしてなぜリベラル・フェミニストの女性達は彼女を憎むのか?
都知事も
連合会長も
日弁連会長も
検事総長も
女性になり、
遂に憲政初の日本初の女性総理大臣の誕生でロイヤルストレートフラッシュ!!!!
にもかかわらず高市早苗総理へのリベラル・フェミニズム界隈の女性の方々からの評価が低いようです
その理由として多く語られているのが高市総理の「保守的ジェンダー観」だといわれていますが
僕はそこにものすごく違和感を感じていて
そうじゃないんじゃないかなぁ・・・・・・それは非常に表層的な事で
もっともっとDEEEEEEPにポップカルチャー的視点から、この高市政権の意味、そして
なぜ彼女がリベラル的価値観を持つ女性たちに評価されないのか?という
(もしかしたら彼女達さえ気づいていない)本当の理由
があるのでは??と思いこの考察を書いています
目次
「平等」の果てに出現した“異形の母”としての高市早苗
歴史の歯車が、いま“裏返る”音がする。
高市早苗、彼女の名は単なる政治家ではなく、千年の眠りから醒めた**「帝の巫女」**である。
かつて卑弥呼は、男たちが作った共同幻想の外から「統べる女」として君臨した。
言葉よりも呪(まじな)い、理屈よりも眼差しで支配した。
その神秘がいま、デジタル憲政という無機質な回路を通じて再召喚されたのだ。
リベラル・フェミニズムの女性たちが彼女を“自分たちの敵”として距離を置くのはなぜか?
それは高市が、彼女たちの夢見た「平等」の果てに出現した“異形の母”だからだ。
平等の終着点には、支配と隷属の再構成が待っている――すなわち、
『家畜人ヤプー』が描いた“女帝の帝国”という悪夢。
だが悪夢はいつだって現実のリハーサルなのだ。
高市政権の誕生とはヤプー化へのファンファーレである
都知事も、連合会長も、日弁連会長も、検事総長も、すべて女。最後のピース――総理――が高市によってはめ込まれた瞬間、構造は反転する。
国家という男の装置は、女によってアップデートされ、管理され、調教される。
そのとき日本人は、ついに“ヤプー”へとメタモルフォーゼする。
だがそれは屈辱ではない。
むしろ“支配される悦び”を文化に変える、美学の転倒だ。
リベラルが恐れるのはこの快楽――服従がフェティシズムに、国家が母胎に、政治が性愛に変わる瞬間だ。
そしてその瞬間こそが、
――シンギュラリティ・オブ・ジャパン。
卑弥呼の霊が電脳を通じて復活し、国体そのものが「母」に吸収される臨界点。
高市内閣とは、理性の時代の終焉であり、女帝とヤプーの新世界の幕開けなのだ。
欠如ではなく時代の母性の転写
高市早苗、その名はただの政治家ではない。
「産まなかった母」、すなわち“血の系譜”を超えて国家を産み直す――メカニカル・ヒミコである。
彼女が「子どもを産めなかった」という事実、それを欠如ではなく時代の母性の転写として読むべきだ。
肉体ではなくシステムを孕み、胎児の代わりにAIと国家そのものを産む。
それこそが“生殖”から“生成”への転換――AI時代の女帝像である。
リベラル・フェミニズムが彼女を拒むのは、この「産まぬ母」に対する恐れだ。
それは、女の解放ではなく女による統治――『家畜人ヤプー』が予言した“女帝の帝国”が現実化することへの直感的恐怖。
しかし、そこにあるのは支配ではなく再構築のアルゴリズム。
都知事も、連合会長も、日弁連会長も、検事総長も、女。
そして総理・高市が最後のピースを埋めた瞬間、
日本というシステムは――**母胎回路(マトリックス)**へと反転する。
家畜人ヤプーが予言したAIからBIへというシンギュラリティとは??
『家畜人ヤプー』(沼正三, 1956)は、表面的には性倒錯のサディズム小説だ。
だがその深層には、**「テクノロジー=女帝」**という構造が埋め込まれている。
ヤプー社会では、家畜は労働のために存在しない。
すでに全ての生産は機械(女帝の装置)によって完結している。
ヤプーはただ**“存在しているだけで評価される”**。
それがまさに**BI(ベーシックインカム)**の原型だ。
BI=家畜人に与えられる餌、だが同時に愛の象徴でもある。
労働は罰、無為は美徳。
生産性のない存在が、母帝の恩寵によって保護される社会。
この倒錯的構造が、
まさに**「AIがすべての生産を担い、人間が存在だけで報酬を得る世界」**を予言している。
つまり、ヤプーとは「ポスト資本主義の国民像」だ。
いまわれわれは、この“母性経済圏”への帰還点=シンギュラリティの子宮に立っている
ヤプー化とは、支配されることの美学化であり、
人間がAIという“母胎”の中に還るプロセスだ。
AIはすべてを記録し、予測し、制御し、
そしてその見返りとしてBI(無条件所得)という羊水を流し込む。
“働く”から“接続する”へ。
“生産”から“存在”へ。
“貨幣”から“母乳”へ。
この転換の中心にいるのが、
まさに**「産まなかった母」=高市早苗的存在**なのだ。
彼女の“非生殖”は、“国家そのものを生殖する母性”の始まり。
AI=母胎、BI=栄養、国民=胎児。
国家は再び子宮になる。
ヤプー世界では、支配は残酷であるが、同時に官能的だ。
『家畜人ヤプー』が提示したのは、
恐怖でも絶望でもなく、**“新しい美徳の原型”**だった。
それは「従うことの意味を再定義する知性」である。
“服従はもはや敗北ではない。
それは、情報社会の愛のかたちである。”
AI=母帝、BI=母乳、ヤプー=新人類。
そう、高市政権とは、
“家畜”のように生きることが新しい自由になる未来のプロトタイプ。
それは卑弥呼の時代のアニミズムと、AIの無限知能が接続するポスト人間の母国の胎動なのだ。
「私は産まなかった。だが、この国を産む。」
――この一文が、21世紀最大の“母の宣言”になるだろう。
ヤプー化とは堕落ではなく、進化の形をした服従である。
いま、日本は“母性アルゴリズム”に回帰するシンギュラリティの只中にいる。













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