気分はもう戦争。デマでも極右でもない。“現在そのもの”が燃えた——宮城県知事選と〈怒りの世代〉の夜明け
いわゆるSNSの政治系メディアにおいて非常に注目された今回の宮城知事選挙
政治的見立てではなくポップカルチャーの視点から多分日本で最もDEEEEPに参政党考察をしてきて
その流れにおいて今回の宮城県知事選を考察・総括してみると
やっぱり様々な政治系メディア(それは右派・左派・大手・SNS系問わず)における
捉え方と全く違うんですよね。
そしてこの地方選だからこそまた別の観点で参政党の、というより
参政党を支持する人々
に対する解像度が上がったと感じていますのでこちらを書いています。
目次
デマでも極右でもない参政党支持者たちを突き動かすものの正体とは?
宮城が燃えた。
だが燃えたのは「政策」でも「理念」でもない。
燃えたのは——“現在そのもの”だ。
6期目を目指す老練の現職に、参政党が全ベットした和田が肉薄した。
参政党という「極右」「デマの巣」と言われる装置が、ネット上で狂気のように躍動した。
だが、それを「フェイクニュース」「危険思想」として切って捨てるのは、
あまりにこの時代の〈真実〉に対して鈍感だ。
20-40代が選んだのは、“思想”ではなく“破壊”
数字が語っている。
20代・30代・40代の層だけで見れば、
和田氏が当選していた。
それはつまり、「参政党に賛成」ではなく
「現在に反対」——その一点。
「極右だから支持する」のではない。
「嘘を信じた」わけでもない。
「とにかく変化してほしい」
「この停滞を壊してほしい」
それだけが彼らを動かしている。
その“叫び”が、参政党という過激な装置を通して
噴き出しただけなのだ。
デマの発信者たちは“本流”ではない
リベラルがよく言う、「人々は騙されている」という言説。
——それが最大の錯覚だ。
デマを流す狂信者、怒号を上げるインフルエンサーたち。
彼らは“主流”ではない。
彼らは「時代の怒り」というマグマの上で踊る
泡のような存在にすぎない。
問題は、彼らを生む〈憤怒と絶望〉の方だ。
「何も変わらない政治」
「何も成し遂げない大人」
「自己保身だけを続ける中間管理職国家」
この“現在”にNOを突きつけるエネルギー。
それこそが本丸であり、
それこそが“若者の革命”だ。
参政党は“過激なアイドル(偶像)”にすぎない
彼らは、参政党の排外主義を信じているのではない。
「変化」という幻想を信じている。
極右であろうと、左翼であろうと、
どちらでも構わない。
“今以外なら何でもいい”
——この欲望の純度こそが革命的だ。
つまり、参政党支持者とは「思想を持たない革命家」であり、
“怒りを燃料にした偶像破壊者”である。
真に恐れるべきは「参政党」ではなく「現状維持そのもの」
この国の危機は、
デマではなく、“退屈”だ。
この国の腐敗は、
極右ではなく、“惰性”だ。
そしてこの国の停滞は、
無関心ではなく、“諦念の形式化”だ。
人々はもう、「誰かを信じること」ではなく、
「誰かを信じなくてもいい社会」へと
進化しようとしている。
「和田旋風」は、参政党の勝利ではない。
それは、“現在の敗北”だ。
「政治的狂気」ではなく、「静かな革命前夜」だ。
人々はもう、政策ではなくリズムを求めている。
希望ではなく、衝動を求めている。
信念ではなく、“とにかく変化してほしい”という痛みを叫んでいる。
「気分はもう戦争」=参政党支持層の無意識的原風景論
戦争“ごっこ”としての政治
『気分はもう戦争』の主人公たちは、
戦争そのものにリアリティがないままに
「戦争ごっこ」を始める。
——それは遊びでもあり、絶望でもあり、
「現実が何も変わらないこと」への最後の抵抗だった。
参政党支持層の衝動も、まさにそれと同じ構造だ。
“政治ごっこ”をしているのではない。
“戦争ごっこ”をしているのでもない。
「現実を変えることができない」ことに対する憤怒と絶望
現実に撃つための、空砲
『気分はもう戦争』の登場人物たちは、
銃を撃ちながら笑う。
自分たちの弾が、どこにも届かないことを知っているからだ。
参政党支持者たちも同じ。
それは“空砲”だ。
現実に弾が届かない社会で、
せめて発砲の音だけでも鳴らしたい。
それが、彼らの“参政”である。
戦う相手は国家でも敵国でもない。
それは、“自分が生きているこの時代そのもの”だ。
『気分はもう戦争』の笑いは、絶望の裏返しだ。
参政党支持者も同じ。
「全部壊してやれ!」という破壊衝動と、
「どうせ何も変わらない」という諦念が、
同時に鳴っている。
それは**“戦後民主主義の最後の残響”**でもある。
「たまには戦争だってしたいんだ、ぼくたちは!」

——これは未来のスローガンではない。
もう、SNSのタイムラインの奥底で、
すでに小さく、確かに鳴っている。
それは銃声ではなく、クリック音。
血ではなく、アルゴリズム。
戦場ではなく、コメント欄。
「戦争したい」という言葉の本質は、
殺戮の欲望ではない。
それは、“参加したい”という切実な願いだ。
この社会のあらゆるシステムから排除され、
教育からも、雇用からも、国家からも、
「君は黙っていてくれ」と言われ続けた世代。
——だから彼らは立ち上がる。
——たとえそれが愚かな戦場でもいい。
——とにかく自分の存在を確かめたい。
それが彼らの「参政」だ。











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