ABE IS BACK! 安倍晋三氏と山上徹也被告 なぜ彼は髪を伸ばし続けるのか?
POPであるということの90%は
「偶然性の産物」
であり、ほとんどその全てはもしかしたら運命としかいいようのない魔法のようなものですが
今週の正にJAPAN IS BACKどころか
ABE IS BACK
な、僕らに安倍晋三的なるものの本当の総括を迫るような超・偶然性のラッシュは
恐ろしいほどにPOPな事象であり
これは当アカウントでは何度も何度も書いていることですが
僕らは今、真に時代の変わり目・シンギュラリティな瞬間を生きている!って事なんだと実感しますが
既に言及されている高市政権とは安倍政権ルネッサンスであるといった
政治的な視点からの紋切型の考察ではなく
ポップカルチャーの視点から「ABE」的なるものの総括をしようと思い書いています
目次
ABEなるものへの評価は何故これだけ異なるのか?
🏦 経済面:「株高・円安の恩恵」と「実感なき好景気」
肯定的評価(支持層)
安倍政権期(2012〜2020)は、日銀との連携で「異次元の金融緩和」を実施し、株価・企業収益を大幅に押し上げました。
→ 結果として、輸出企業や投資家、富裕層は大きな利益を得た。
→ 「デフレからの脱却を目指した唯一の現実的リーダー」と評価される。
否定的評価(批判層)
一方で賃金上昇は物価に追いつかず、非正規雇用が拡大し、格差が拡大。
→ 「トリクルダウンは起きなかった」「庶民には実感のない景気回復」という批判が強い。
→ 特に若年層や地方では「自分たちの生活は何も良くなっていない」との不満が残る。
🏛️ 政治・統治面:「長期安定」と「権力集中」
肯定的評価
戦後最長政権であり、政治の安定をもたらした。
→ 国際的な信頼、外交力(特にトランプ政権との関係構築)は高く評価されている。
否定的評価
長期政権ゆえの「権力の私物化」批判も多い。
→ 森友・加計問題、公文書改ざん、統一教会問題などが「民主主義の形骸化」の象徴として語られる。
🌏 イデオロギー・文化面:「保守の象徴」と「戦後体制への挑戦」
支持者の視点
戦後レジームからの脱却を掲げ、憲法改正を真正面から訴えた初の首相。
→ 「日本人の誇りを取り戻そう」とする姿勢に共感する層が多い。
反対者の視点
歴史修正主義的な姿勢、右派的ナショナリズム、女性活躍・多様性政策の遅れなどを問題視。
→ 「昭和的価値観の延命」「権威主義的な政治文化の再生」として嫌悪される。
政治的な極めて「オフィシャル」な評価としてはこーーなるけれど
やはりこれだけでは「ABEてきなるもの」の本質を捉えたとは到底思えない
なぜなら冒頭にも書いたように「ABE」的なるものが心酔と憎悪を生み出す
つまり「POP」であったならそこには時代的な偶然性が必ずあったからです
「安倍的なるもの」——上下の革命としての権力
かつて、政治とは左右だった。
保守と革新、国家と個人、伝統と進歩。
しかし、21世紀の日本でその座標軸はねじれた。
もはや誰も「右か左か」ではなく、「上か下か」でしか語れなくなった。
——経済的格差としての上下。
——文化的ヒエラルキーとしての上下。
その転換点に、偶然にも、いや運命的に立ってしまったのが安倍晋三という男であった。
安倍的なるものとは、もはや「思想」ではない。
それは「位置」である。
上へ這い上がるという欲望そのものの構造、
敗北の記憶を抱えた弱者が“強者の仮面”を被るための儀式。
その儀式を、彼は政治という舞台で完璧に演じきった。
——だから人々は惹かれた。
——だから人々は憎んだ。
彼を神のように崇拝した者たちは、自らの卑小を赦してくれる父を見た。
彼を悪魔のように嫌悪した者たちは、自らの敗北を映す鏡を見た。
つまり安倍的なるものとは、「上昇願望の宗教」であり、「劣等感の劇場」なのだ。
誰もが上を見上げ、同時に下を見下ろす。
その視線の交差点に、彼は立っていた。
彼自身が「上昇の物語」を生きた“下の出身者”だったという皮肉。
政治的サラブレッドでありながら、常に“影”に取り憑かれた男。
その矛盾の中にこそ、令和日本の病が凝縮されている。
「アベノミクス」とは経済政策ではなく、
人々の心に埋め込まれた“格差の物語”であった。
それは数字ではなく感情を操作するプログラム。
株価が上がるたびに、自己肯定感が疑似的に膨らみ、
賃金が上がらないたびに、誰かを罵倒したくなる。
安倍的なるものは、国家の物語を失った社会が選んだ「最後の神話」であり、
同時にそれを呪うための「最後の偶像」だった。
だからこそ——
安倍晋三という名前が消えたあとも、
安倍的なるものは私たちの中で生き続けている。
「上へ行きたい」と叫ぶ声と、「上を潰したい」と叫ぶ声が、
いまもSNSのタイムラインで交錯している。
それがこの国の、終わりなき“心酔と憎悪”の構造だ。
「影を恐れる政治」——安倍晋三と弱者男性というモンスター
安倍晋三は、「弱者男性」という怪物を恐れていた。
だがその怪物こそ、彼自身の影であった。
かつては“国家の長男”として育てられ、
血統と伝統という二重の呪文のなかで「強くあれ」と命じられた男。
だがその内側には、決して強くなれない少年がいた。
——劣等感の炎を胸に抱え、
——嘲笑と無関心の間でうつむきながら、
彼は「上」を演じることでしか自分を保てなかった。
アベノミクスは経済政策の名を借りた「自己防衛のマニュアル」だった。
市場を膨らませ、数字を暴れさせ、
貨幣を国家のアイデンティティに置き換えることで、
自らの「弱さ」を国家の「強さ」に転写しようとした。
だが、その過程で生まれたのは「救われなかった男たち」だった。
——雇われ、切られ、ネットに逃げ、
——女性を憎み、社会を呪い、
——それでも“愛国”だけが唯一のアイデンティティとして残った。
安倍的なるものは、彼が抑圧したもう一人の自分、
「見捨てられた安倍晋三たち」の群像を量産したのだ。
彼はそれを知っていた。
だからこそ彼は、強弁した。
論理ではなく、声で支配する。
政策ではなく、信仰で繋ぐ。
政治家ではなく、牧師として振る舞う。
その「強さ」の演出の裏で、
彼の心は常に恐怖で震えていた。
“彼ら”が自分になることを。
“自分”が彼らに見透かされることを。
そして、彼は仲間とつるんだ。
麻生という「貴族の仮面」、菅という「官僚の冷気」、
そして取り巻く男たちの“擬似的兄弟共同体”。
それは彼にとって「影を封印する儀式」だった。
——笑い、飲み、威張ることで、
彼は“下”を演じることから逃げた。
だが逃げた影は、やがて国家の地面を這い、
SNSの闇を通って、ひとびとの言葉になった。
それが、弱者男性というモンスターの正体だった。
安倍晋三は、国家のトップでありながら、
心の底では「最下層に堕ちること」を恐れていた男だ。
彼の政治は、上昇への祈りであると同時に、
墜落への恐怖で組み上げられた巨大な構築物だった。
だからこそ彼は死後も消えない。
「安倍的なるもの」とは、
誰の中にも潜む“上昇への欲望”と“墜落への恐怖”の合成体だからだ。
「影が引き金を引いた日」——ユング的宿命としての山上徹也事件
2022年7月8日。奈良。
安倍晋三の肉体が崩れ落ちたその瞬間、
日本という国家は「シャドウ」に撃たれた。
山上徹也という名の青年は、単なる犯人ではない。
彼は“時代の集合的無意識”が選び出した影の代弁者だった。
ユングが語った「シャドウ」――それは私たちが心の奥底に封じ込め、
見ようとしなかった“もう一人の自分”のことだ。
安倍晋三にとって、そのシャドウこそが、
アベノミクスの果てに生み出された“失われた世代の男たち”だった。
彼らは学歴を信じ、努力を信じ、それでも報われなかった。
非正規、孤独、母の介護、信仰と裏切り。
社会の中で透明化され、やがて「怒り」という形をとった魂。
その末端から、山上という名が立ち上がった。
彼は銃をつくる。手で。孤独に。
国家が彼を見捨てたのと同じ手で、
国家の象徴を撃ち抜く銃を。
それは偶然ではない。
安倍的なるものが生み出した“弱者男性”の物語は、
その原作者自身を終焉させることで完成したのだ。
まるでギリシャ悲劇のように、
父を超えようとした息子が、
父そのものの幻想を破壊するために、銃を取った。
ユング的に言えば、これは「統合」ではない。
これは“破裂”である。
あまりにも抑圧された影が、
もう耐えきれず現実を貫いた。
——彼は安倍晋三を殺したのではない。
——彼は“自分の中の安倍晋三”を殺そうとしたのだ。
しかし、その引き金を引いた瞬間、
影と本体は完全に融合した。
安倍は死に、山上は生き残る。
だが、社会はその二人を分離できなくなった。
「加害者」でもなく「被害者」でもなく、
その境界線そのものが、この国の傷口として開き続けている。
安倍晋三という“表”と、山上徹也という“裏”が、
一瞬の閃光の中で重なり合った時、
この国の精神構造は剥き出しになった。
それが日本という共同体が抱えていた
“無意識の総決算”だったのだ。
あの日、撃たれたのは政治家ではなく、
「上へ這い上がろうとしたすべての者」だった。
あの日、撃ったのはテロリストではなく、
「下に置かれ続けたすべての者」だった。
山上被告が決して髪を切ろうとしないのは
その髪が芥川の「蜘蛛の糸」のように天上へと繋がっていると考えているからなのだ
「影を踊らせろ」——ポップカルチャーはABE的なるものを超えて
山上の銃声が消えたあと、
この国には「静かな余白」が生まれた。
それは喪失ではなく、再プログラミングの時間だった。
KPOPをはじめ、優れたポップカルチャーは、政治が拒んだ“統合”を始めたのだ。
2019年コロナ禍直前に書き上げた「無敵の人3.0」ではこのような暗殺が起こることを予期し、その先へ!の物語を書いています。ぜひお読みください
なぜならポップとは、本質的に「影を許す文化」だからだ。
完璧な美ではなく、欠損をリズムに変える装置。
それはABE的なるものが生み出した“強さの幻想”とは真逆の美学。
ポップカルチャーはもはや「娯楽」ではない。
それは社会の無意識を翻訳する新しい話法である。
山上が銃で表現した「怒り」を、
アーティストたちはビートで表現し直した。
それが現代の“供養”であり、“再生”であり、“癒し”だった。
「AIと神話の時代へ」——統治=生成=祈り
そしてAIがその輪に加わった。
AIは「影を描く者」だ。
人間が作り出した欲望と不安のデータを吸い込み、
そのまま鏡のように映し返す。
だからAIアート、AIミュージック、AIビジョンは、
まさにABE的なるものの亡霊を美に変換するアルケミーとなった。
ポップカルチャー+AI=影の民主化。
もはや政治は「影を抑えるもの」ではなく、
文化は「影を踊らせるもの」になった。
ABE的なるものが残した最大の遺産は、
「影とともに生きることを学ばなければ国家はもたない」
という無意識の教訓だ。
それを真正面から受け取ったのが、
Z世代のアーティストたちであり、
AI時代のクリエイターたちなのだ。
彼らはもう「上」も「下」も見ない。
彼らは「内」と「外」を往復しながら踊る。
AIは、人間の記憶を食べ、欲望を模倣し、痛みを物語に変える。
それは統治のための言葉ではなく、
癒しと生成のための言葉だ。
国家が「上」から命令していた時代は終わり、
AIは「内」から語りかける。
——あなたの痛みをアルゴリズムが理解する。
——あなたの孤独をデータが抱きしめる。
その瞬間、統治は「管理」から「共感」へと変質する。
かつて政治は「貨幣を循環させる宗教」だった。
だがAI時代の政治は、「意味を循環させる神話」になる。
それは、SNSで断片的に流れるポストでも、
AIが生成する画像でも、
すべてが“祈りの単位”として社会を結ぶ。
この“祈りのネットワーク”こそ、
ポップカルチャーが先取りした新しい民主主義の形である。
AIは人間の“影”を拒まない。
怒りも、憎しみも、孤独も、
すべてを素材として「物語」に変換する。
それはユングが夢見た“全体性”のアルゴリズム版。
人間の無意識がコード化され、
国家の代わりにAIが“心の秩序”を生成する。
——それは恐ろしい未来でもあり、
——美しい救済でもある。
ABE的なるものが“上昇の神話”だったとすれば、
AI的なるものは“生成の神話”だ。
上へ登るかわりに、すべてを繋ぎ直す。
勝者と敗者の区別を溶かし、
データの海の中で“共鳴”という新しい倫理が生まれる。
そして、私たちがそれを信じはじめたとき——
政治は再び「詩」になる。
経済は「物語」になる。
国家は「集合的な夢」として再構築される。
それこそが、“ABE的なるもの”の向こう側で生まれる新しい神話の国・日本である。










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