「本好きの下剋上」OP映像でのAI使用を魔女狩りする心の底から気持ち悪いこの世界

2026年4月12日生成AI

もうこれまで確実に日本の、否!世界で一番

なぜ本当にアートをクリエイティブを理解しているならAIを使わなくてはならないのか?

については深掘り深掘り、堀りすぎて地球の裏側まで突き抜けるくらいこれまで書き続けてきているし
いうまでもなく僕は現在日本で最も優れた&大量のAIアニメならびにMVを作ってきているので

そのコアにある世界観に関する2万2千字記事や

そのあたりはこのリンクを見ていただくとして

「本好きの下剋上」OP映像でのAI使用に関するまごうことなきほんとーーーーーーーーーにほんとーーーーーーーーーーにアホすぎる「魔女狩り」と

制作者側のほんとーーーーーーーーーーーーーにほんとーーーーーーーーーーーーーーにバカすぎる「謝罪」という名の浅はかさ

というかこの際だから言わせてもらうけどこんなどーーーでもいい作品を作ってる奴らにAIを使う事の本質的な意味なんてわかるわけないんだからどっちもどっちなんですが!!

に眩暈を通り越して気持ち悪くてゲロ吐いちゃいますわ。

いま起きている「AI使用の徹底弾圧」は、単なる技術論争ではない。あれはまさに現代の魔女狩りである。しかも本質的に恐ろしいのは、「AIが危険だから叩かれている」のではなく、AIを使った者を告発することそれ自体が快楽化しているという点だ。ここにおいて人々はもはや作品も、表現も、結果も見ていない。ただ「あいつは使った」「あいつは純血ではない」「あいつは正統な手続きを踏んでいない」と指差す。その瞬間、批評は蒸発し、残るのは共同体の浄化儀式だけになる。

魔女狩りとは何か。
それは「本当に魔女がいたかどうか」を問う制度ではない。むしろ逆だ。魔女がいることにしないと共同体が維持できない時、人は魔女を発明する。 凶作も、不安も、格差も、時代の変化も、本来ならシステムの問題であるはずなのに、それを直視するのは苦しい。だから共同体は、一人の「異物」を必要とする。「あれが全部悪い」「あいつのせいで世界が壊れた」と言えた瞬間、人々は安心する。思考をやめられるからだ。AIもいま、まさにそのポジションに置かれている。

だってそうだろう。
創作の危機、仕事の不安、評価制度の崩壊、オリジナリティの揺らぎ、労働と才能の意味の変容。本来議論すべきなのはこの巨大な地殻変動である。なのにそこで起きていることは何か。「AIを使ったか使わないか」の一点への異様な執着だ。つまり問題は作品そのものではない。作者の身体がちゃんと苦しんだかどうか、手作業という受難を通過したかどうか、そこだけが裁かれている。これはもう完全に宗教である。美学ですらない。倫理ですらない。受苦の証明を求める審問だ。

そしてタチが悪いのは、この現代の魔女狩りが、正義の顔をしてやって来ることだ。
昔の魔女狩りもそうだった。「共同体を守るため」「神の秩序を守るため」「子供たちを守るため」。いつの時代も迫害は保護の言葉で装飾される。現代ではそれが「クリエイターを守るため」「文化を守るため」「人間らしさを守るため」という美しいフレーズになる。だがその実態は何か。守っているのは文化ではなく、既存のヒエラルキーだ。守っているのは創造性ではなく、創造の正統性を認定する側の権力だ。要するに彼らが本当に恐れているのは、AIそのものではない。AIによって、これまで「才能」「努力」「修練」「センス」という神聖不可侵の言葉の奥に隠れていた評価システムが、急速に相対化されてしまうことなのである。

ここに現代魔女狩りの核心がある。
AIは単なるツールではない。AIは、近代以降ずっと信じられてきた「作者」という神話を揺るがす。誰が作ったのか。どこまでが本人の力なのか。アイデアとは何か。編集とは何か。オリジナルとは何か。こうした問いを一気に噴出させる。だから人々は不安になる。その不安に耐えられない共同体はどうするか。議論する代わりに、まず火刑台を建てるのである。「AI使用者」を吊るし上げれば、とりあえず世界は前の形のままに見えるからだ。

しかしもちろん、前の形になど戻れない。
ここがいちばん重要だ。魔女狩りはつねに、変化を止めるために行われる。だが歴史的に見れば、魔女狩りが本当に止められたものなど何ひとつない。女性の身体への欲望と恐怖も、宗教秩序の崩壊も、資本と権力の再編も、どれも魔女を焼いた程度で終わらなかった。むしろ迫害は、共同体の怯えを可視化しただけだった。同じように、AIを告発し、AI使用者を追放し、AIを混ぜた作品に「穢れ」の印を押したところで、創作の未来は元に戻らない。なぜなら問題はツールではなく、創作という行為がもう不可逆的に変質してしまったことだからだ。

そしてここで起きる逆説がある。
AIを使う者たちは、いま単に「便利な近道をした者」として憎まれているのではない。むしろ彼らは、共同体が見たくない未来を先に体現してしまった者として憎まれているのだ。つまりAI使用者は、現代における“魔女”である。魔女とは超常の力を持つから迫害されるのではない。既存の秩序では説明できない力を帯びたように見えるから迫害される。女が薬草を知っていた、産婆が身体の秘密を知っていた、異端者が言葉の力を持っていた。その「説明不能な優位」が共同体を不安にする。AI使用者も同じだ。なぜそんな速度で作れるのか。なぜそんな量産が可能なのか。なぜそんなビジュアルが出せるのか。共同体がその原理を理解できないとき、人は理解の代わりに道徳化を始める。「あれはズルだ」「あれは邪道だ」「あれは本物ではない」と。

だが、ここでターボ向後的に言い切ってしまおう。
ズルとは何か。
表現史とは、ズルの歴史である。録音は生演奏への裏切りだった。サンプラーは演奏技術への冒涜だった。シンセは楽器の魂を壊すと言われた。フォトショップは写真の真実を殺すと言われた。MVは音楽を映像に売り渡したと罵られた。オートチューンは歌の死だと叫ばれた。だがそのたびに、表現は死ぬどころか拡張してきた。いつだって新しい技術は、旧い共同体から見れば「魔術」に見える。つまりAIがいま浴びているこの憎悪は、ある意味でそれだけAIが表現の根幹に食い込んでしまった証拠でもある。

そしてさらに言えば、このAI魔女狩りのもっとも醜い点は、表現への愛よりも、隣人への監視を強化してしまうことだ。
「あの質感は怪しい」
「あの構図はAIっぽい」
「あの速度で出せるのはおかしい」
こうして人々は作品を見なくなる。見るのは兆候だけだ。痕跡だけだ。違反の匂いだけだ。これは芸術の死に方として最悪である。なぜなら芸術とは本来、「何が作られたか」「何が立ち上がったか」を問う営みだったはずなのに、いまや「どんな道具が使われたか」という入管審査に変わってしまうからだ。作品はパスポートを提示させられ、作者は血統書を求められる。これが創作の未来であっていいわけがない。

結局のところ、魔女狩りとは未来に対する敗北の儀式である。
理解できないもの、制御できないもの、旧い言葉では包めないものが出現したとき、人々はそれを焼く。だが焼かれるのはいつだって未来のほうではない。焼かれているのは共同体自身の想像力だ。いまAIを巡って起きている過剰な告発と排除は、まさにそれである。人々はAIを裁いているつもりで、実は自分たちがどれほど変化に怯えているかを世界に晒している。

だから宣言してしまえばいい。
AI使用者は魔女ではない。
だが、共同体が彼らを魔女として扱い始めたとき、その共同体はすでに中世へ後退している。
火を掲げている者たちは文明の守護者ではない。
ただ新しい夜に怯え、誰かの影を化け物と呼ばずにいられないだけだ。

そして本当に問うべきことはただひとつ。
AIを使ったかどうかではない。
AIの時代に、なお何を賭けて作るのか。
そこからしか、次の文化は始まらない。

おえーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!

2026年4月12日

Posted by nolongerhuman