京都府南丹市で子どもと見られる遺体が見つかる。”コナン化”したSNS的正義の欺瞞とは?

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殺人事件が起こるたび、SNSには無数の“名探偵”が出現する。
いや、名探偵などという呼び名はまだ甘い。あれは推理しているのではない。物語の空白を、もっとも安っぽい道徳で埋めているだけだ。
誰が怪しい、動機はこれだ、あの発言が伏線だった、あの顔つきが異常だった、あの過去投稿が証拠だ。
まるで『名探偵コナン』のダイジェスト版を、夏休みの自由研究のノリで現実に貼り付けているかのような、あまりにも軽薄で、あまりにも無邪気な正義のごっこ遊び。

だが本当に恐ろしいのは、彼らの考察が外れることではない。
その考察のほとんどすべてが、あまりにも幼稚な“正義のナラティブ”に支配されていることだ。

SNSコナンたちは、犯人を見つけたがる。
だが、犯人を理解しようとはしない。
いや、理解という言葉すら嫌う。
「理解しようとすることは擁護ではないか」
「事情を語ることは甘さではないか」
そんなふうに、彼らは人間を人間として見ることそのものを、すでに道徳的敗北だと信じ込んでいる。

だから彼らにとって殺人とは、悲劇でもなければ、人間の破綻でもない。
ましてや社会の裂け目でもない。
それはただ、
“答え合わせ可能な謎”
でしかない。

ここが決定的にコナン的なのだ。
つまり犯罪は、最後には必ず一人の“悪い犯人”へと回収され、視聴者の安堵のうちに閉じられるべきものだ、という発想。
世界はまだ説明可能で、悪はまだ個人に封じ込められ、正義はまだ安全圏から執行できる――そう信じている者だけが、あの種の軽やかな断罪に酔える。

しかし現実の犯罪は、そんなにきれいに終わらない。
人を殺すという行為はもちろん許されない。
だが許されないからこそ、そこで思考を止めてはならない。
「許されない」で終えるのは、倫理ではない。
思考停止を道徳でラッピングしただけだ。

本来問われるべきなのは、
なぜその人間はそこにまで追い詰められたのか、
なぜその欲望はそのかたちで噴き出したのか、
なぜその憎悪は止まらなかったのか、
なぜその孤独は、誰にも発見されなかったのか、
なぜ社会は、家族は、共同体は、その人間を“そこまで壊れる前”に受け止められなかったのか、
ということのはずだ。

だがSNSコナンたちは、そこに興味がない。
彼らは人間の闇に興味がない。
ただ事件のフォーマットに興味がある。
動機を知りたいのではない、**“納得できる悪役設定”**が欲しいだけだ。
背景を知りたいのではない、自分の正しさを補強する材料が欲しいだけだ。

そして何よりも彼らには、決定的に欠けているものがある。
それは、
自分もまた悪を犯しうる存在かもしれない
という、あの底知れぬ恐れだ。

人間を裁くというのは、本来、もっと震える行為のはずだ。
なぜなら犯罪とは、どこか遠い怪物の出来事ではなく、環境と偶然と欲望と絶望の噛み合わせひとつで、こちら側にも開きうる“穴”だからである。
自分は絶対にそこに落ちない、と信じている者の正義ほど危ういものはない。
なぜならその正義は、人間を知らないからだ。
そして人間を知らない正義は、たいてい最終的に人間を壊す。

犯罪を語るとは、単に善悪を仕分けることではない。
それは、人間という存在の内部に、なぜこれほどまでに暴力、支配欲、破壊衝動、嫉妬、恨み、自己崩壊の火種が埋め込まれているのかを見つめることだ。
もっと言えば、
他人の罪を見ながら、自分のなかの罪の可能性を直視することだ。

そこに十字架がある。
犯罪を本当に考えるということは、その十字架を背負うことだ。
「あいつが悪い」で終えるのではなく、
「なぜ人間はこうなのか」
「なぜ社会はこうなのか」
「なぜ私たちは、あそこまで壊れた人間を生み続けるのか」
という問いを、自分の胸にも刺し返してくることだ。

だがSNSの“正義”は、その痛みを引き受けない。
彼らは裁判官の顔をしているが、実際には観客である。
しかも最悪の種類の観客だ。
悲劇を見ているのではない。
悲劇を、自分が正しいことを確認するための娯楽へと変えてしまう観客だ。

だから彼らの言葉には重みがない。
どれだけ強い言葉で犯人を罵倒しても、どれだけ鮮やかに真相を言い当てても、そこに人間への絶望も、人間への畏れも、人間そのものへの問いもないのなら、それは正義ではない。
ただの快楽だ。
断罪の快楽。
自分だけは安全地帯にいると信じる者の、無邪気で、残酷で、幼稚な快楽である。

『名探偵コナン』的正義がフィクションとして機能するのは、それが子供向けの秩序回復の夢だからだ。
どれだけ異常な事件が起きても、最後には真実が暴かれ、悪は名指され、秩序は回復される。
だが現実には、そんなふうに秩序は戻らない。
死者は戻らない。
壊れた人生は戻らない。
そしてひとつの犯罪の背後にある無数の見落とし、無数の放置、無数の歪みは、犯人一人を“解答”として提出したところで消えはしない。

それでもSNSコナンたちは、事件のたびに現れる。
そしてまた鮮やかに謎を解き、鮮やかに断罪し、鮮やかに満足する。
その姿は滑稽であると同時に、きわめて不気味だ。
なぜなら彼らは、正義を愛しているのではない。
正義のポーズによって、自分が人間の暗部から免責されることを愛しているからだ。

だが、そんな免責は存在しない。
人間である以上、誰も無垢ではない。
誰の内部にも暴力の種はある。
支配したい夜も、壊したい衝動も、消えてほしい他者への憎悪も、条件次第では目を覚ます。
そこから目を逸らしながら犯罪を語る者は、犯罪について語っているのではない。
ただ、自分が善であるという自己イメージを朗読しているだけだ。

本当に犯罪を語る資格があるのは、
犯人を許す者ではない。
だが同時に、犯人を怪物化することで安心しない者だ。
罪を罪として断固見つめながら、なおその罪を生んだ人間の闇と社会の責任から逃げない者。
断罪と理解の、そのどちらも投げ捨てない者。
そして何より、
自分もまたその裂け目のこちら側にいると知ってしまった者だけだ。

正義とは、そんなに明るいものではない。
もっと暗い。
もっと重い。
もっと、自分自身を傷つけ返してくるものだ。

だからこそ言わなければならない。
“コナンごっこ”の正義で現実の犯罪を語るな。
事件を、宿題みたいに解くな。
人間の破滅を、考察コンテンツにするな。
その罪の前で本当に問われているのは、犯人の異常性だけではない。
そこまで人を追い込み、そこまで人を壊し、そこまで人を孤立させる世界と、そしてその世界の一部である私たち自身なのだから。

Posted by nolongerhuman