祈りと呪い。超ド級のアイドル本 和田彩花「アイドルになってよかったと言いたい 」書評・レビュー

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これは凄い「アイドル本」・・・・・・色々な意味で読む側が「試される」といってもいい凄本でもあります

ここから書評レビューテキストを書くんですが

大前提として僕は"あの"伝説的なスマイレージの青梅ライブにもいっていたり

驚いたのはこれは約14年前!!!!!!のライブレポですがこの本で和田彩花女史が投げかけているメッセージとシンクしている内容になってました!!

彼女が所属していたスマイレージがアンジェルムに改名した際にも音楽サイトでこう総括しています

という立ち位置の人間なので、というかだからこそこのアイドル本としてド級の破壊力をもつ本書に対しては
生半可な読み方はできないし、ポップカルチャー史の視点からもDEEPな読み解きをしていこうと思います。

これは「告発本」ではない「黙示録」である

和田彩花『アイドルになってよかったと言いたい』は、たぶん多くの読者が期待するような、いわゆる「告発本」ではない。
いや、もっと正確に言おう。

これは告発本ですらある。

だが、その射程はジャニー喜多川告発本のような個別の加害者や業界構造への糾弾にとどまらない。
もっと深い。もっと逃れがたい。もっと残酷だ。
これは「アイドル」という存在そのものにかけられた、祈りであり、呪いであり、
そしてほとんど血で書かれた黙示録である。

全編に貫かれた「怒り」の正体とは?

もちろん本書は慎重だ。好奇の視線に消費されること、暴露の快楽に回収されること、
それ自体がまた別の搾取であることを彼女はよく知っている。
だからこそ露悪にはならない。下品な内部告発の見世物にもならない。

だが、その抑制の奥で燃えているものを読み落としてはならない。

本書を最後まで貫いているのは、単なる「つらかった」という回想ではない。
そんな生ぬるいものではまったくない。そこにあるのは、“アイドル業界”という名の捕食システムによって、
鬱病にまで追い込まれた少女の、遅れてやってきた憤怒である。

静かな文体の奥で、火山のマグマみたいな怒りがずっと煮えたぎっている。読者はその温度に触れてしまう。

そして当然、こういう本が出ると、いつもの問いが投げつけられる。

「そんなに嫌なら、なぜアイドル業界に居続けたのか?」。

だが、この問いはあまりに無知だ。あまりに鈍い。あまりにポップカルチャーを知らなすぎる。

この問いを発する者は、「アイドル」が職業カテゴリでしかないと思っている。
転職可能なラベルでしかないと思っている。だが違う。全然違う。
一度“アイドル”として認知されてしまった少女や少年に刻まれるものは、履歴書の一行なんかではない。
それはもっと深い、もっと皮膚に近い、もっと生涯にわたって剥がれない印だ。

これは極端に聞こえるかもしれないが、「そんなに嫌ならやめればよかった」という問いは、
「黒人差別が嫌ならなぜその黒人で居続けるのか」と言うのと同じくらい、構造が見えていない。

ひとたびアイドルとして社会に読まれた身体は、その読みから自由にはなれない。
芸能とはそういう場所だ。ポップカルチャーとはそういう暴力だ。

ポップミュージック史における「アイドル」の意味

なぜそんなことが起きるのか。なぜアイドルという形式は、
ここまで人の人生に食い込んでくるのか。

答えは簡単で、そして不穏だ。ポップミュージックとは、つまるところセックスのシミュレーションだからである。

優れたポップソングとは、その時代の欲望のかたちを音にしたものだ。

声の震え、ビートの跳ね、衣装のきらめき、振付の角度、視線の送り方、
そのすべてが「欲望はこう鳴る」「身体はこう夢みる」という時代の官能の翻訳になっている。
ポップとは、欲望の音響化だ。

だとするなら、その法則を極限まで純化し、先鋭化し、危険なかたちでパッケージしたものが「アイドル」であるのは当然だろう。
アイドルとは、POP=SEXという等式をもっとも可憐に、もっとも残酷に、もっとも社会的に無害な顔をして流通させる装置なのだ。
だから恐ろしい。だから人は惹かれる。だから壊れる。

近年、「推し活」の時代にはアイドルはアセクシャルになった、などという言説がよく語られる。
だが、それは厳密にはアイドルではない。せいぜい安全な記号、管理可能なガラクタである。

人が本当にアイドルに惹かれるのは、その存在が自分を性的に自由にしてくれるからだ。
性的に自由な楽曲。性的に自由なパフォーマンス。性的に自由なスタイリング。
そこに触れた瞬間、こちらの内側に隠されていた欲望までもが解放されていく。

だから人は泣く。だから人は叫ぶ。だから人は人生を賭けてしまう。
POPの本質とは、きれいごとではない。
欲望の解放である。そしてその危険な奇跡を引き受ける存在、それがアイドルなのだ。

アイドルとは「なる」ものではなく「運命」であること

だから本当の意味でのアイドルは、昨今のオーディションブームが夢見るように「努力してなるもの」ではない。

もちろん努力は要る。技術も要る。だが、根本にあるのはそんな話ではない。
アイドルとは、なるものではなく、選ばれてしまうものだ。

運命なのだ。呪いなのだ。

気づいたときにはもう、こちらがアイドルを選んでいるのではなく、アイドルという形式のほうに選び取られている。
そのどうしようもなさ、その神話的暴力、その逃れがたさを、和田彩花は本書で真正面から引き受けようとしている。

ジャンヌダルク的「信仰告白」の書としての本書

その意味で本書は、単なる被害の記録ではない。もっと壮絶なものだ。

これは、“アイドルという運命”に対して、アートとフェミニズムを武器に復讐を企てる書物なのである。

ほとんどジャンヌ・ダルクだ。

神に選ばれてしまった少女が、その選びそのものを問い返すために火刑台の上から叫んでいるような、そういう切迫がある。

信仰告白であり、宣戦布告であり、自己救済のための儀式でもある。

和田彩花はここで、自分を傷つけたものの名前を挙げながら、同時に自分を生かしてもきたものの名前も消せずにいる。

その二重性があるから、この本はただの糾弾で終わらない。

愛してしまったものへの怒りほど、激しいものはないからだ。

和田彩花が「アイドルになってよかった」というために

ただし、ここでひとつ、大きな問いが残る。

本書のなかで彼女自身がほのめかしているように、彼女は「音楽=ポップミュージック」に対する感覚が
、ビジュアルアートに対するそれより鈍いかもしれないと書いている。

つまり彼女は、アートと思想を武器にして、この運命と闘おうとしている。

フェミニズム、批評、展示、言葉。どれも重要だ。どれも必要だ。だが、果たしてそれは最終兵器なのだろうか。

ぼくは、そこにためらいなく「否」と言いたい。

なぜなら彼女を傷つけたのが「アイドル」という形式である以上、
そしてその形式の中心にあるのがポップミュージックである以上、
本当の意味で復讐を完遂するには、彼女はやはり最後にはポップミュージックそのもので殴り返さなくてはならないからだ。

思想で刺すだけでは足りない。アートで撹乱するだけでも足りない。

必要なのは、もっと大衆的で、もっと危険で、もっと人々の身体に直撃するかたちの反撃だ。

つまり、アイドルソングを作ることである。

しかもただ作ればいいのではない。

彼女が本当に「アイドルになってよかった」と言える地点に到達するためには、
自分がかつて閉じ込められていた装置の内部に、まったく新しい欲望の回路を書き込まなくてはならない。

そこで重要になってくるのが、海外でいま確実に増殖している「GIRL ON GIRL」の主題だ。

女の子が女の子に憧れ、欲望し、まなざし、連帯し、陶酔するポップソング。

それは単なる百合的記号ではない。男性中心の欲望経済によって長らく規定されてきたポップの回路を、
別のエロスで作り替える試みである。

だが日本には、これが決定的に足りない。ほとんど存在しないと言っていい。
あるいはあったとしても、十分なスケールでポップの中心にまで達していない。

だったら、そこをこそ和田彩花は引き受けるべきなのではないか。
パフォーマーとしてではなく、プロデューサーとして。

表に立って「元アイドルが語る」だけではない。
アイドル制度の内部で傷ついた者として、その制度を別の欲望で更新する。
その仕事こそが彼女にしかできない仕事なのではないか。

日本で、GIRL ON GIRLを真正面から主題化しながら、しかも思想先行の閉じた作品ではなく、
大衆の口ずさむ大ヒット・ポップミュージックとして成立させること。
ダンスフロアでも鳴り、TikTokでも切り取られ、恋の現場でも流れ、若い女の子たちの身体感覚を本当に変えてしまうような一曲を生み出すこと。

そこまで行ってはじめて、彼女の怒りは歴史に変わる。ただの傷ではなく、次の時代の形式になる。

考えてみれば、それができる人間は本当に少ない。

アイドルの内部にいた者で、アイドルを憎みながら、同時にアイドルという形式の強度を信じてもいる者。

搾取の構造を知りながら、なおポップの奇跡を捨てきれない者。

フェミニズムの言語を持ち、アートの知性を持ち、しかも「元アイドル」という消えない刻印を、自分の武器として引き受けられる者。

そんな矛盾を一身に抱えた存在は、たぶん和田彩花しかいない。

だから『アイドルになってよかったと言いたい』は、完成した書物であると同時に、未完の予告篇でもある。

ここに書かれた怒りはまだ終わっていない。

むしろ始まったばかりだ。この本はゴールではない。発火点だ。

彼女の怒りが正しいかどうか、そんな裁判官みたいな問いはどうでもいい。

重要なのは、その怒りが何を生み出すかだ。その怒りが次のポップを、次のアイドル像を、次の欲望の地図を作り変える力にまで到達するのかどうかだ。

そして、ぼくは信じたい。彼女が本当に手放すべきなのは「怒り」そのものではなく、
怒りを怒りのまま抱えていなければならない状態のほうなのだと。

怒りは作品にならなくてはならない。思想はメロディにならなくてはならない。復讐はヒットチャートに侵入しなくてはならない。
世界を変えるポップとは、そういうものだ。

いつか和田彩花が、日本のポップ史をひっくり返すようなGIRL ON GIRLのアイドルソングをプロデュースし、
それが街で鳴り、少女たちの欲望の言語そのものを更新したその日、
彼女はやっとこの本のタイトルを過去形ではなく未来形としてではなく、現在の震えとして言えるのだろう。

アイドルになってよかった。

その一言は、たぶん赦しではない。和解でもない。もっと凄惨で、もっと美しいものだ。

それは、自分を呪った運命そのものを、最後に自分の作品として奪い返す者だけに許される、勝利宣言なのである

追記。と書いている間に和田彩花氏の結婚が発表されました。おめでとうございます

Posted by nolongerhuman