炭鉱のカナリア・・・・乃木坂46 増田三莉音の活動休止が「本当に意味する」ものとは?
以前彼女の驚愕のタレント性(=おんなのこ性)について
多分日本で一番深掘りしたこうしたエントリーをしましたが
乃木坂46の増田三莉音さんの活動休止が発表されました・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
当アカウントは以前Youtube上で炎上するほど
なぜ乃木坂46を筆頭とした秋元康氏コンテンツが
JPOPを殺し
おんなのこを殺し続けるのか?
について最もDEEPな解説をポップミュージック史の観点から何度もお伝えし
その究極のアンチテーゼとして「無敵の人3.0」というアイドルと暗殺というテーマによるトンデモ作品を2019年に書きましたが
それから6年、やっぱり、そして当然のように、そしてさらに進んだ「シニシズム」と「白痴化」によって、今また
増田三莉音というおんなのこが殺されつつあること
に心の底から憤りを覚えます
目次
増田三莉音は炭鉱のカナリアである。
乃木坂46という巨大な美少女装置が、またひとりの“ポップミュージックそのもの”を削ってしまったということについて
また、これなのだ。
また、同じ風景なのだ。
何度でも、何度でも、何度でも、乃木坂46という美しい巨大船は、甲板に立つおんなのこたちの白いワンピースを風になびかせながら、しかしその船底では、ずっと同じ黒い水を漏らし続けている。
増田三莉音の活動休止。
このニュースを、単なる「体調不良」として読むことはできる。もちろん、まず第一に、彼女の回復が最優先である。それは絶対だ。ここで彼女個人に過剰な物語を背負わせることはしてはならない。
だが、それでもなお、この出来事がひとつの徴候であることから目を逸らしてはいけない。
なぜならこれは、ひとりの少女の問題ではないからだ。
これは、秋元康氏的アイドルシステムが、2026年になってなお、ポップミュージックへの敬意を欠いたまま、そしてそのポップミュージックの本質を肉体で、声で、笑顔で、涙で、存在そのもので体現しているおんなのこたちへの敬意を欠いたまま、いまだに巨大な慣性だけで回り続けているという問題だからだ。
ボクが「無敵の人3.0」で書いたことは、結局ずっと同じだった。
秋元康氏的なるものは、アイドルを愛しているのではない。
アイドルという“状態”を利用しているだけなのだ。
もっと言えば、おんなのこが持っている、言語化される前の震え。声になる前のメロディ。恋になる前の予感。傷になる前の透明。そういうポップミュージックの源泉そのものを、あまりにも安く、あまりにも雑に、あまりにも無責任に、量産フォーマットのなかへ流し込んできた。
そしてその結果として生まれるのが、あの奇妙なねじれだ。
メンバーは美しい。
メンバーは頑張っている。
メンバーは輝いている。
なのに、楽曲が死んでいる。
MVが死んでいる。
コンセプトが死んでいる。
クリエイションが、彼女たちの生命力にまったく追いついていない。
これが最大の悲劇なのだ。
乃木坂46の問題は、彼女たちが輝いていないことではない。逆だ。彼女たちはあまりにも輝いている。だからこそ、その輝きに見合うだけの音楽、映像、詩、思想、プロデュース、物語、未来が与えられていないことが、より残酷に見えてしまう。
まるで、宝石を新聞紙で包んで売っているようなものだ。
あるいは、銀河を作れる少女たちに、毎回同じ蛍光灯の下で、同じような制服を着せ、同じような湿った比喩を歌わせ、同じような「切なさ」の型に押し込める。
それを「乃木坂らしさ」と呼ぶのなら、その“らしさ”はもう美学ではない。
それは停滞の別名だ。
そして、その停滞のなかでいちばん傷つくのは誰か。
作詞家ではない。
運営ではない。
レコード会社ではない。
テレビ局ではない。
広告代理店ではない。
ステージに立つおんなのこたちである。
彼女たちは、ファンの前では笑わなければならない。
ブログでは謝らなければならない。
休むときでさえ、まず「ご心配とご迷惑をおかけして」と書かなければならない。
この構造が、もうおかしいのだ。
本来、体調を崩した少女が最初に言われるべき言葉は「謝らなくていい」だ。
本来、休む少女が背負うべきものは罪悪感ではない。
本来、夢のためにやってきた場所で、最初に覚えるべきものは“申し訳なさ”ではない。
しかし、秋元康氏的アイドルシステムは、いつもここを逆転させる。
少女の夢を商品にする。
少女の努力を物語にする。
少女の疲弊を美談にする。
少女の沈黙を神秘にする。
少女の欠席を「次こそ届けます」という健気さに変換する。
そしてファンは泣く。
ファンは祈る。
ファンは支える。
そのこと自体は美しい。
だが、美しいファンの祈りによって、構造の責任が消えてしまうなら、それはあまりにも危険だ。
増田三莉音は、炭鉱のカナリアなのだ。
炭鉱の奥で、まだ誰も毒ガスに気づいていないとき、最初に小さな身体で異変を知らせる鳥。
その鳴き声が止まったとき、問題は鳥の弱さではない。
炭鉱の空気が壊れているのだ。
そして今、乃木坂46という巨大な炭鉱のなかで、またひとりの少女が立ち止まった。
このとき問われるべきは、彼女が強かったか弱かったかではない。
彼女が向いていたか向いていなかったかではない。
彼女が耐えられたか耐えられなかったかではない。
問われるべきは、
なぜこの場所は、素敵なおんなのこが素敵なおんなのこのまま生きることを、こんなにも難しくしてしまうのか、
ということだ。
ここで太宰治が現れる。
増田三莉音が太宰治を敬愛しているという事実を、安易に「病み」や「文学少女」というラベルに回収してはいけない。そんな消費はもっとも下品だ。
しかし、太宰の『二十世紀旗手』が持っていた、時代そのものに血を流しながら旗を振るような感覚。
自分の身体が、まだ来ていない未来のための警報装置になってしまうような感覚。
そして『女生徒』のラストにある、あの眠りへ向かう声。
「おやすみなさい」と言いながら、本当は世界全体に向けて、さようならではなく、見つけてください、と告げているような声。
その響きと、今回の出来事は、象徴として重なってしまう。
彼女がこう言っているように聞こえてしまうのだ。
私は、王子さまのいないシンデレラ姫。
あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?
もう、ふたたびお目にかかりません。
from「女生徒」エンディングライン
これは失踪の言葉ではない。
これは告発の言葉だ。
王子さまがいない、とは、救済の物語がもう機能していないということだ。
シンデレラ姫である、とは、少女がまだ物語の中心にいるにもかかわらず、その物語を作る側が彼女を救う靴を持っていないということだ。
東京のどこにいるか知っているか、とは、巨大な芸能都市の中心にいながら、本当の彼女の居場所を誰も見ていないということだ。
もうふたたびお目にかかりません、とは、少女が消えるという意味ではない。
このままなら、あなたたちは本当の私を見る機会を永遠に失う、という意味だ。
ポップミュージックとは、おんなのこが世界を更新するための魔法である。
ここで、もう一度言わなくてはならない。
乃木坂46を壊したいのではない。
逆だ。
乃木坂46を、救いたいのだ。
しかし救うためには、まずこの欺瞞を終わらせなければならない。
「清楚」
「透明感」
「儚さ」
「努力」
「成長」
「支えるファン」
「見守る物語」
これらの言葉は、かつては美しかったのかもしれない。
だが、それがクリエイションの怠慢を覆い隠す包装紙になった瞬間、それは少女を守る言葉ではなく、少女を閉じ込める檻になる。
ポップミュージックとは、本来、おんなのこを消費するための装置ではない。
ポップミュージックとは、おんなのこが世界を更新するための魔法である。
キャンディのように甘く、ガラスのように鋭く、都市のネオンのように嘘っぽく、でも心臓の鼓動のように本当で、昨日まで名前のなかった感情に、突然サビを与えるもの。
それがポップミュージックだ。
そしておんなのこは、その本質を最初から知っている。
だからこそ、素敵なおんなのこをステージに立たせるなら、制作側は命がけでポップミュージックを作らなければならない。
楽曲に命を賭けろ。
MVに命を賭けろ。
衣装に命を賭けろ。
歌詞に命を賭けろ。
振付に命を賭けろ。
コンセプトに命を賭けろ。
少女の一瞬のまばたきに、時代がひっくり返るだけの意味を与えろ。
それができないなら、彼女たちの前に立つ資格などない。
秋元康氏的アイドルの最大の罪は、少女を商品化したことだけではない。
少女が本来持っているポップミュージックの可能性を、古い大人の言葉、古い大人の構造、古い大人の商売、古い大人の自己反復のなかに閉じ込めてしまったことだ。
そして2026年、増田三莉音の活動休止は、その古い構造のなかから聞こえてきた、あまりにも小さく、あまりにも痛切で、あまりにも文学的な警報音である。
彼女を神格化してはいけない。
彼女に物語を押しつけてはいけない。
彼女を批評の道具にしてはいけない。
でも、彼女が今このタイミングで休まなければならなくなったという出来事から、構造の問題を読み取らないこともまた、彼女たちを守ることにはならない。
だから言う。
これは、増田三莉音ひとりの休止ではない。
これは、乃木坂46というシステムそのものが、またひとつ警告灯を点滅させた瞬間である。
そしてその警告灯の色は、赤ではない。
それは、彼女たちが本来放つはずだった、透明で、神秘的で、宇宙的で、あまりにも美しいポップミュージックの光だ。
その光を、もう二度と、運営の怠慢で曇らせるな。
おんなのこは素材ではない。
おんなのこは物語の燃料ではない。
おんなのこは握手券の付属物ではない。
おんなのこは写真集のページ数ではない。
おんなのこは、ポップミュージックそのものなのだ。
だからこそ、増田三莉音がいま静かに告げている「おやすみなさい」を、ただの眠りの挨拶として聞いてはいけない。
それは、2026年のアイドル産業に向けられた、もっとも静かな、もっとも美しい、もっとも恐ろしい宣戦布告である。
おやすみなさい。
でも、その眠りの向こうで、彼女はまだ見ている。
あなたたちは、本当におんなのこを見ているのか。
あなたたちは、本当にポップミュージックを愛しているのか。
あなたたちは、本当に、彼女たちをプリンセスとして扱う覚悟があるのか。
その問いに答えられないなら、もう王国は終わりだ。
シンデレラは、城を出る。
ガラスの靴を残さずに。
ただ、ひとつの歌だけを残して。
奇しくも今日4/28は当アカウントが「プリンセスポップ」専門音楽レーベルDREAM BABY DREAMをローンチしたその矢先の出来事でした・・・・・もうさぁ!!僕らにやらせてくれよ!!!!!














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