AI魔女狩りと環境保護という免罪符
定期的にお届けしているAIを魔女狩りのように糾弾する人々についての深掘りエントリー記事。
何度も言及してますがお陰様で生成AI動画(アニメ)コンテンツとしては異例のグロースとなった
TIKTOKアカウントを運営しているところから

様々なアンチAI=魔女狩りバッシングは常に受け続けてる中で
このところ一つ気づいた変化があります。
それはAI魔女狩りにおけるバッシングの根拠が「環境問題」という文脈へと急速にシフトしているという実感です。
これまでは「AIはクソ」とかやみくもなバッシングが多かったけどそれが
「AIは環境に悪い、特に冷却用の水問題があるのでAIコンテンツはBANされるべき!!」
という論調のバッシング・アンチが急増してるんですよね
目次
「AIは環境に悪い」という言葉が、これまでただ感情的に、やみくもにAIを攻撃してきた人々にとって、ものすごく“便利な武器”に
AI魔女狩りに、最近新たな糾弾の仕方が現れてきた。
それは、
「AIは環境に悪い!!!」
というものだ。
特に言われるのが水の問題である。
AIのサーバーを冷却するために大量の水が使われる。電力を食う。環境負荷が高い。だからAIは悪である。そういう言い方だ。
もちろん、これはもともと環境保護思想を持っている人たちの、ある種の真剣な危機意識でもある。そこには現実の問題がある。地球環境は無限ではない。水も電力も、魔法のようにどこからか湧いてくるわけではない。
だが、ここで見逃してはいけないのは、
この「AIは環境に悪い」という言葉が、これまでただ感情的に、やみくもにAIを攻撃してきた人々にとって、ものすごく“便利な武器”になっているということだ。
つまり、彼らの中に最初からあったのは、環境問題への深い考察ではない。
AIが怖い。
AIが憎い。
AIに自分の仕事や価値や居場所を奪われそうで不安だ。
でも、その不安をそのまま言うと、あまりに個人的で、あまりに裸で、あまりに弱い。
そこで「環境」が出てくる。
「AIが嫌い」ではなく、
「地球のためにAIに反対している」と言える。
「AIに怯えている」ではなく、
「未来世代のために怒っている」と言える。
「自分の価値が揺らいでいる」ではなく、
「自然を守るために戦っている」と言える。
ここでAIへの不安は、環境保護という社会的正義の衣装を着る。
個人的な恐怖は、公共的な怒りに変換される。
自分の動揺は、道徳的な正しさとして再パッケージされる。
だからこの文脈は、これほど急速に広がっているのだと思う。
「環境保護」「自然保護」を自らのアイデンティティとすることの本質的な意味とは?
そしてここで本当に検証すべきなのは、
「環境保護」「自然保護」を自らのアイデンティティとするとはどういうことなのか
という問題である。
それは単に、自然を大事にするということではない。
それは、世界の破壊に抵抗する側に自分を置く、ということだ。
「私は壊す側ではない」
「私は守る側である」
「私は資本や技術や欲望に汚染されていない」
「私はまだ清い側にいる」
この自己像は、非常に強い。
なぜなら、現代社会はあまりにも速く変化しすぎているからだ。
AI、グローバル資本、戦争、気候変動、SNS、移民、都市化、労働の崩壊、創作の自動化。すべてが巨大な濁流のように押し寄せてくる。
そのとき人は、自分が何もコントロールできないという無力感を抱く。
そこで「自然」が呼び出される。
自然とは、失われた秩序である。
自然とは、汚れていない過去である。
自然とは、人間がまだ間違える前の世界である。
自然とは、自分が戻るべき場所である。
だが、ここに大きな錯覚がある。
自然とは本来、固定されたものではない。
自然そのものが変化であり、淘汰であり、生成であり、破壊であり、更新なのだ。
自然は、やさしい母ではない。
自然は、保存された庭園ではない。
自然は、人間の不安を慰めるために静止してくれる美しい絵葉書ではない。
自然とは、噴火であり、洪水であり、疫病であり、捕食であり、絶滅であり、突然変異であり、進化である。
生まれ、壊れ、奪い、変わり、また別のものになる。
それが自然である。
にもかかわらず、「自然保護」をアイデンティティにした瞬間、自然はしばしば“変わらないもの”として神格化される。
守るべき自然。
壊してはいけない自然。
人間の技術によって汚される前の自然。
そこにあるのは、本当の自然ではなく、人間が自分の不安を鎮めるために作った、理想化された自然のイメージだ。
つまり「自然保護」は、ときに自然そのものへの愛ではなく、
変化への恐怖を美しい言葉に変換する装置になる。
ここがAI批判と接続する。
AIとは、変化そのものだからだ。
自然を守ることと、AIを使う事は、本来、対立しない
AIは、創作とは何かを変える。
労働とは何かを変える。
知性とは何かを変える。
人間とは何かを変える。
才能とは何かを変える。
努力とは何かを変える。
オリジナルとは何かを変える。
だから怖い。
その怖さをそのまま引き受けるなら、まだいい。
「私はAIによって自分の価値が揺らいでいる」
「私はこの速度についていけない」
「私は創作の意味が変わることに傷ついている」
そう言うなら、それは人間的で、切実で、理解できる。
だが、それを言わずに、いきなり「環境」を盾にする。
「AIは水を使うから悪い」
「AIは電力を使うから悪い」
「AIは地球を破壊するから悪い」
すると、その人は自分の不安を語らずに済む。
自分の恐怖を見なくて済む。
自分の嫉妬や敗北感や喪失感を、地球規模の正義に置き換えることができる。
これはかなり強力な心理的トリックである。
しかも、環境という言葉は反論しにくい。
「地球を守るべきだ」と言われれば、誰も正面から否定できない。
だからその言葉は、思想というより、しばしば棍棒になる。
議論ではなく、糾弾。
検証ではなく、断罪。
問いではなく、踏み絵。
「あなたはAIを使うのか?」
「ではあなたは環境破壊に加担するのか?」
「ではあなたは自然を壊す側なのか?」
こうしてAI魔女狩りは、新しい宗教的正当性を手に入れる。
だが、ここで本当に問うべきなのは、AIの環境負荷そのものだけではない。
もちろん、それは検証されるべきだ。改善されるべきだ。技術は常に、自分の副作用を引き受けなければならない。
しかし同時に問うべきなのは、
なぜ人は、AIへの恐怖を語るとき、これほど急いで“自然”の側に逃げ込むのか?
ということだ。
自然を守ることと、未来を作ることは、本来、対立しない。
環境負荷を下げることと、AIを発展させることも、本来、対立しない。
技術とは、破壊の道具であると同時に、破壊を超えるための道具でもある。
問題はAIそのものではない。
問題は、AIを使う人間がどんな未来を設計するのかである。
それなのに、未来を設計する想像力を持てない人々は、すぐに「自然へ帰れ」と言う。
だが、その自然は本当の自然ではない。
変化しないでほしいという願望が作った、心の中の避難所である。
AIをめぐる環境批判の中には、真剣に検証すべき問題がある。
それは間違いない。
だが同時に、その批判の中には、あまりにも露骨に、変化への恐怖が混ざっている。
未来が来るのが怖い。
世界が変わるのが怖い。
人間の価値が揺らぐのが怖い。
だから「自然」を掲げる。
だから「環境」を掲げる。
だから「地球」を掲げる。
しかし本当の自然は、そんなに甘くない。
自然は、変わる。
自然は、壊す。
自然は、更新する。
自然は、古い秩序を守ってはくれない。
ならばAIもまた、自然の外側にある怪物ではない。
人間という自然が生み出した、次の変化である。
問題は、それを悪魔として燃やすことではない。
それをどう飼いならし、どう美しく使い、どう未来の側へ接続するかだ。
環境を守るとは、過去を保存することではない。
自然を守るとは、変化を拒絶することではない。
本当に自然を理解するとは、世界が常に変わり続けることを受け入れることだ。
そしてAIとは、その変化の最前線に立つ、いま最も巨大な炎である。
その炎を見て、魔女狩りの松明にするのか。
それとも、未来を照らす火にするのか。
問われているのはAIではない。
問われているのは、
変化の前で、人間がどれだけ人間でいられるのか
ということなのだ。









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