話題の乃木坂46 岡本姫奈サンの流出動画はコチラです

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っていうタイトルの曲を今すぐ秋元康氏は書くべきなんじゃないですか??こんなゴミじゃなくて・・・

KPOP大学ではこの20年間近くに渡って主にガールズ系ポップミュージックを確実に蝕み
ほぼ「殺してしまった」といってもいい最大の戦犯として秋元康氏によるアイドルコンテンツ制作の
あり方をポップカルチャー史の視点から確実に日本のどんな媒体よりも常に深掘りし

あまつさえ今回の流出騒動にまで至るような秋元康氏的商法とJPOPの悲劇についての最後通牒ともいうべき
「無敵の人3.0」を2019年に書きました

そのうえで今回問題となっている岡本姫奈さんの途轍もない悲劇も

その根本には

なぜ秋元康氏を筆頭とした既存のJPOPは推し活の名のもとにおんなのこを殺すのか?

という日本のポップミュージックにおける最大の構造的矛盾が横たわっているのだと思います。

騒動のこれまでの時系列的まとめ

①Xアカウントかふちゃんが男性とのツーショット写真をアップ

そのポストは5/21の午後まで平然と残っていましたが先ほど確認したところ削除済み

②いち早く岡本姫奈さん自身がファンダム向けのクローズドなSNSで「写真に写っているのはわたしです」「しかし"乃木坂加入前"の軽率な行動でした」と本人であることをみとめる

③そのツーショットポストは乃木坂公式アカウントへのメンションポストだったため発見したファンダムから多くの反応があったらしくこのような"ヘイポー反省文をポスト

④アップされた画像は2枚、しかしその一枚が動画からのキャプチャーのようなアングルからのものだったので動画があるのでは?との憶測が広がる

⑤この流出に関して憤りをもった乃木坂ファンダムの一人とかふちゃんとの対話がXのスペース上で行われる

これを視聴させていただきましたがファンダム代表の男性の方の興奮度に対して務めて冷静に話そうとする彼女の口調を聴いて
ある人物との類似点を強く感じました

⑥話題が拡散しいわゆる「暴露系アカウント」での転載がスタート

⑦現在こうした「暴露系」に対しても以下のような警告文が乃木坂側の弁護士より送付中

この一連の流れがポップカルチャー的な視点からは非常に興味深く、秋元康氏的コンテンツの問題とは別にテーマとしては二つあると思います

「推し活」という名の小さな宗教裁判
――かふちゃんの“正義”について

「彼女にはアイドルとしての自覚が足りない。であるなら制裁が必要だと思った」

この言葉が本当であるなら、そこにあるのは怒りではない。
嫉妬でもない。
裏切られたファンの悲鳴ですらない。

そこにあるのは、もっとやっかいなものだ。

正義である。

しかも、いちばん危険な種類の正義。
自分の痛みを、倫理の顔にすり替えた正義。
自分の欲望を、社会的制裁という言葉でラッピングした正義。
自分が傷ついたことを、世界の秩序が乱れたことに変換してしまう正義。

それは、ほとんど「いただき女子りりちゃん」のマインドセットに近い。
高齢男性から金を奪うことを、単なる詐欺ではなく、どこかで「男たちへの復讐」や「自分が生き延びるための当然の手段」として正当化してしまうあの回路。
もちろん行為の内容は違う。
しかし根にある構造は似ている。

相手を“悪”に設定した瞬間、自分の加害は“処罰”になる。

これが恐ろしい。

「アイドルとしての自覚が足りない」
この言葉は一見、もっともらしい。
たしかにアイドルはイメージを売る職業であり、ファンとの幻想の契約によって成立している。
だからこそ、そこに傷つく人間がいることもわかる。
失望することも、怒ることも、離れることも、全部自由だ。

だが、問題はそこではない。

失望する自由と、他人を裁く権利は違う。
推す自由と、制裁する権利は違う。
愛したという事実は、相手を所有した証明にはならない。

にもかかわらず、いま「推し活」という言葉は、その境界線をどんどん曖昧にしている。

推し活。
なんと明るく、なんと清潔で、なんと経済的に都合のいい言葉だろう。

推し活は素晴らしい。
推し活は人生を豊かにする。
推し活は経済を回す。
推し活は自己実現だ。
推し活は文化だ。は正しいのか?

そう言われ続けた結果、ファンの感情はいつのまにか、単なる個人の感情ではなくなった。
それは市場になり、共同体になり、信仰になり、そして最後には裁判所になる。

推しを愛している。
推しに金を使っている。
推しの未来を願っている。
だから、推しが「正しいアイドル」であるかどうかを監視する。
正しくなければ怒る。
怒っても変わらなければ告発する。
告発しても足りなければ燃やす。

ここでファンは、もはや観客ではない。
信者であり、スポンサーであり、検察官であり、処刑人である。

ポップミュージックや芸能に触れるということの意味

だが本来、ポップミュージックや芸能に触れるということは、そんなことではなかったはずだ。

表現を受け取るとは、世界を少し違って見ることだ。
自分の感情の形を知ることだ。
自分が何に救われ、何に傷つき、何に惹かれているのかを発見することだ。
つまり芸能とは、自己認識と世界認識を更新するための装置だった。

アイドルを見る。
歌を聴く。
ステージに震える。
そのとき本当に起きていることは、「あの子を所有したい」ではない。
「自分はなぜ、あの光にこんなにも心を動かされるのか」を知ることだ。

しかし、推し活経済はそれを反転させた。

自己認識を深めるかわりに、自己を消す。
世界認識を広げるかわりに、世界を推しと敵に二分する。
他者を理解するかわりに、他者を自分の信仰体系の中に閉じ込める。

その結果、アイドルは人間ではなくなる。
ひとりの若い女性ではなくなる。
揺れたり、迷ったり、間違えたり、成長したりする存在ではなくなる。

彼女は偶像になる。
神棚に置かれる。
そして神棚に置かれた瞬間から、埃ひとつ許されなくなる。

だから「制裁」が生まれる。
神が神らしくなかったから。
偶像が偶像として振る舞わなかったから。
私たちの信仰を裏切ったから。

だが、それは正義ではない。
ただのダブルスタンダードだ。

ファンはアイドルに「純粋であれ」と求める。
しかし自分の欲望の不純さは問わない。
アイドルに「自覚を持て」と求める。
しかし自分が他人の人生に踏み込む暴力性には自覚を持たない。
アイドルに「プロであれ」と求める。
しかし自分は観客としてのプロフェッショナリズムを放棄する。

見る側にも倫理はある。
愛する側にも品位はある。
推す側にも責任はある。

そのことが、いま完全に忘れられている。

今回の「制裁」という言葉が決定的にグロテスクなのは、そこに快楽が見えるからだ。
自分は正しいことをしている。
自分はアイドル界の秩序を守っている。
自分は裏切られたファンの代表である。
だからこの暴露は必要だった。

そう信じた瞬間、人はもっとも簡単に他人を傷つける。

ユダの接吻と推し活

かふちゃんの“正義”は、まるでキリストに対するユダの接吻のようだ。

ここで言う「ユダの接吻」とは、キリスト教における有名な裏切りの場面である。
ユダはイエスの弟子でありながら、兵士たちにイエスを引き渡すため、「自分が接吻する相手がイエスだ」と合図を決めていた。つまり接吻とは、本来なら愛情や親密さのしるしであるはずなのに、その瞬間だけは裏切りと処刑への入口になったのだ。

だからこそ、今回の“正義”はユダの接吻に見える。
近づく。
愛していると言う。
応援していたと言う。
あなたのため、グループのため、ファンのため、アイドル界のためと言う。

しかしその親密さは、救済ではなく引き渡しの合図になる。
「推していた」という距離の近さが、相手を守るためではなく、相手を群衆の前に差し出すために使われる。
愛の身振りが、処罰のスイッチに変わる。

これこそがグロテスクなのだ。
ユダが接吻によってイエスを指し示したように、現代のファンダムは「私はファンだった」「私は見ていた」「私は知っている」という親密さによって、アイドルを炎上の祭壇へと指し示す。

つまりそれは、敵による攻撃ではない。
外部からの破壊でもない。
もっと残酷なものだ。

愛していたはずの者による、愛の形式をまとった裏切りである。

近づく。
愛していると言う。
理解者のような顔をする。
しかしその接吻は、救済ではなく引き渡しの合図である。

「あなたのため」
「ファンのため」
「アイドル界のため」
「自覚を持たせるため」

そう言いながら、人は他人を群衆の前に差し出す。

だが本当の問題は、岡本姫奈さん個人の振る舞いだけではない。
ましてや、ひとりの流出者だけの問題でもない。

問題は、推し活という名の信仰が、いつのまにか他人の人生を裁く権利までファンに与えたかのように錯覚させていることだ。
そしてその錯覚を、メディアも、プラットフォームも、マーケットも、少しずつ増幅してきたことだ。

愛が経済になる。
経済が信仰になる。
信仰が監視になる。
監視が制裁になる。

この流れの果てにあるのは、ポップではない。
文化でもない。
ただの小さな宗教裁判だ。

アイドルは神ではない。
ファンは裁判官ではない。
推し活は免罪符ではない。

ポップミュージックが本当に美しいのは、人間が人間のまま光る瞬間を見せてくれるからだ。
完璧だから美しいのではない。
壊れそうで、矛盾していて、逃げたくて、それでもステージに立つから美しいのだ。

その光を受け取る側に必要なのは、制裁ではない。
所有でもない。
信仰でもない。

ただ、見ること。
聴くこと。
そして自分の中に起きた感情を、自分の問題として引き受けることだ。

それができなくなったとき、推し活は愛ではなくなる。
祈りでもなくなる。
ただの処罰欲になる。

そして処罰欲は、いつだって正義の顔をしてやってくる。

暴露系アカウントという“校内放送の密告者”たち

そして今回の岡本姫奈さんをめぐる流出問題で、もう一つ露わになったダブルスタンダードがある。
それは、いわゆる暴露系アカウントの存在である。

彼らはしばしば、自分たちを「大手メディアが報じない真実を告発する者」として演出する。
昭和期の雑誌『噂の眞相』のようなものだ、と語られることもある。

テレビや新聞が触れない裏側を暴く。
きれいごとで塗り固められた芸能界の虚飾を剥がす。
タブーに踏み込む。
本当のことを言う。

なるほど、たしかにその身振りだけを見れば、そこには一見、反権力的な匂いがある。
メディアの外側から石を投げる者。
正統な報道機関ではないからこそ言えることがある者。
秩序の隙間に入り込み、隠されたものを引きずり出す者。

つまり、トリックスターである。

社会にはたしかに、トリックスターが必要な瞬間がある。
道化、異端者、攪乱者、ルールの外側からやってくる者。
彼らは時に、硬直したメディア環境を破壊する。
偽善を笑う。
権威を茶化す。
巨大なシステムが隠しているものを、まったく別の角度から照らし出す。

創造的破壊とは、そういう場所から始まることがある。
整った言葉ではなく、ノイズから。
編集会議ではなく、路地裏から。
権威ある媒体ではなく、匿名の亀裂から。

だが、ここで絶対に間違えてはいけない。

トリックスターとは、権力に向かって石を投げる者のことだ。
弱い者の背中に石を投げる者ではない。

暴露系アカウントが本当に反権力なのか。
本当にメディアの欺瞞を暴いているのか。
本当に社会の構造を揺さぶっているのか。

そこを見なければならない。

なぜなら彼らが暴露する相手には、ほとんどの場合、決定的な権力者が含まれていないからだ。
巨大資本でもない。
芸能事務所の上層でもない。
広告代理店でもない。
テレビ局でもない。
プラットフォームでもない。
ファンダム経済を焚きつけ、その欲望を収益化している構造そのものでもない。

彼らが狙うのは、いつももっと簡単な相手だ。

若いアイドル。
失言したタレント。
恋愛を疑われたメンバー。
ファンの幻想から少しはみ出した個人。
まだ自分の言葉で十分に反撃できない存在。
沈黙せざるを得ない立場の人間。

つまり、イージーターゲットである。

ここに、彼らの最大の欺瞞がある。

彼らは「真実」を掲げる。
しかしその真実は、権力に向かわない。
彼らは「告発」を名乗る。
しかしその告発は、構造を撃たない。
彼らは「暴露」を行う。
しかしその暴露は、弱い個人を群衆の前に立たせるだけで、背後にある巨大な装置にはほとんど触れない。

それはジャーナリズムではない。
それは批評でもない。
それは反権力でもない。

それは、校内放送で誰かの秘密を読み上げる行為に近い。

「先生、あの子がルールを破りました」
「みなさん、あの子はこんなことをしていました」
「正しい学校生活のために、共有します」

この感じ。
この小ささ。
この息苦しさ。
この、権力に逆らっているようで、実は権力の側に立っている感じ。

暴露系アカウントの多くがやっていることは、巨大な構造を壊すことではない。
むしろ、構造を温存することである。

アイドルは清純であるべきだ。
ファンの幻想を壊してはいけない。
恋愛は罪である。
プロ意識が足りない者は裁かれて当然である。
炎上は自業自得である。

そうした古い倫理、古い監視、古い共同体の暴力を、彼らは新しいメディア形式で再配信しているだけなのだ。

だからそれは、令和の反権力ではない。
昭和的村社会のアップデート版である。

しかも最悪なのは、それが「正義」や「真実」や「公益」の顔をして現れることだ。

彼らは言う。
知る権利だ。
ファンへの説明責任だ。
アイドルとしての自覚の問題だ。
隠していたことが悪いのだ。
暴露されるようなことをした本人が悪いのだ。

だが、その言葉の奥にあるのは、社会的な正義ではない。
ただの観客の退屈である。
ただの処罰欲である。
ただのアクセス数である。
ただのフォロワー増加である。
ただの「自分だけが知っている」という安い優越感である。

つまり彼らは、権力を撃つふりをしながら、権力が用意した競技場の中でゲームをしている。

本当に問うべきなのは、なぜアイドルが恋愛疑惑ひとつでここまで裁かれるのか、という構造である。
なぜファンの幻想が、本人の人生より優先されるのか。
なぜ若い女性の私的領域が、エンタメとして消費されるのか。
なぜプラットフォームはその怒りを拡散し、メディアはそれを記事化し、ファンダムはそれを燃料として回転し続けるのか。

そこを問うなら、それは批評になる。
そこを撃つなら、それはジャーナリズムになる。
そこに踏み込むなら、それはトリックスターになる。

しかし、そうではない。

彼らは構造を撃たない。
構造の中で、いちばん撃ちやすい個人を撃つ。
そして撃った後に言う。

「これは必要な制裁だった」
「これはファンのためだった」
「これは真実の共有だった」

違う。

それは真実ではない。
真実の姿をした娯楽だ。
告発ではない。
告発の姿をした消費だ。
反権力ではない。
反権力のポーズをした順応だ。

本物のトリックスターとは、王の冠を盗む者だ。
教室の片隅で泣いている生徒のノートを奪って、黒板に貼り出す者ではない。

彼らはただ、校内の秩序を守るために、誰かを職員室へ売り渡す優等生である。

それはSNSという今や学校以上に「学校化」された空間では正しいかもしれない。

そして彼等はそうした意味では悪ではなく優等生だと思う。

しかし推し活と同じように芸能・そしてポップコンテンツへのかかわり方としては圧倒的に「豊かさ」が足りないのだ

そして日本のポップミュージック界隈を推し活と暴露系にしてしまったのは

秋元先生、あなたのダブルスタンダードのせいなのではないですか??

Posted by nolongerhuman