高市早苗総理と無責任一代男。中傷動画騒動の本質と「責任論」
責任論と時代性
週刊現代が火をつけ、文春が油を注ぎ、野党が国会でそれを掲げる。
いわゆる高市総理界隈による中傷動画問題が面白いのは、単に「秘書がやったのか」「総理は知っていたのか」「公選法的にどうなのか」という話にとどまらないからだ。
これはもっと深い。
これは、心底「昭和のおんな」である高市早苗が、令和のSNS政治空間において、果たして新しい無責任一代女になれるのか、という問題なのである。
野党やリベラル側は言う。
「総理の責任はどうなるのか」
「秘書がやったなら監督責任があるのではないか」
「説明責任を果たせ」
もちろん正しい。正しいに決まっている。だが、正しいからこそ古い。
それは、クレイジーキャッツの植木等が平均(たいらひとし)として映画「ニッポン無責任時代」で嘲笑した、あの硬直化した社会のままの責任論である。
会社があり、上司があり、部下があり、出世があり、謝罪があり、辞表があり、そして「責任を取れ」という儀式がある。
あの時代、無責任とは風穴だった。
「わかっちゃいるけどやめられない」
それは責任社会に対する、軽やかな逃走だった。倫理の破壊ではなく、倫理に押しつぶされたサラリーマン社会へのジャズだった。ズレだった。スウィングだった。笑いだった。
暗く変質したSNS時代の「無責任」
だが、時代は移った。
いまや社会に蔓延しているのは、植木等的な明るい無責任ではない。
もっと重い。もっと暗い。もっとせこい。
「自分は知らない」
「秘書がやった」
「外部業者がやった」
「AIが生成した」
「SNS担当が勝手にやった」
「法的には問題ない」
「確認できない」
「有料記事なので見ていない」
そこにあるのは、平均的サラリーマンが掲げた無責任の軽さではない。
金儲けに執着し、名誉に執着し、影響力に執着し、それでいて責任だけは誰かに預ける、他責の病理である。
今回、実行部隊と目されているNO BORDER周辺や松井氏といった人々の存在が象徴的なのは、彼らがまさにこの令和的無責任の顔をしているからだ。
簡単に言うとダサい・・・・・・・・・
軽くない。明るくない。笑えない。
そこにあるのは、無責任のグルーヴではなく、責任回避のビジネスモデルである。
政治思想ではない。
美学ではない。
ただの換金された熱狂である。
この問題で沈黙することで消失した右派の「美学」
そしてさらに面白いのは、この件に沈黙している右派側である。
本来、右派とは美学の結晶化であるはずだった。
国家とは何か。
伝統とは何か。
責任とは何か。
名誉とは何か。
忠義とは何か。
家とは何か。
共同体とは何か。
そうした言葉を、左派よりもずっと重く、ずっと古く、ずっと面倒くさく引き受けるのが右派ではなかったのか。
にもかかわらず、いま右派は何をしているのか。
沈黙している。
見ないふりをしている。
「左翼メディアの攻撃だ」と言って済ませる。
「文春だから」と言って済ませる。
「野党が騒いでいるだけ」と言って済ませる。
違うだろう。
本当に右派なら、ここで問うべきは法律論だけではない。
「その振る舞いは美しいのか」
「その逃げ方は保守の名に値するのか」
「自分たちの陣営の無責任を、なぜ自分たちは裁けないのか」
ということではないのか。
右派とは、本来、美学の側に立つ者である。
にもかかわらず、責任と無責任の線引きすらできない。
それは思想の敗北ではない。
美学の不在である。
明るく、軽やかに、無責任であることを謳え
そして高市早苗である。
昭和のおんな、高市早苗。
サッチャーを憧れ、保守を背負い、国家を語り、強さを演じ、男たちの政治空間のなかで誰よりも硬い顔をしてきた女。
彼女のコアがそして彼女を支持する人々の本質が
昭和アコガレ
であることは日本のどこよりも深く深く分析してきた
その彼女が、いま令和の責任論のど真ん中に立たされている。
ここで普通にやれば、つまらない。
「秘書がやりました」
「私は関与しておりません」
「確認中です」
「法的には問題ありません」
「今後、再発防止に努めます」
そんなのはもう見飽きた。
そんなものは昭和でも平成でも令和でも、何度も何度も繰り返されてきた責任回避の定型文である。
違う。
ここで高市早苗に求められているのは、辞任でも謝罪でもない。
いや、もちろん説明は必要だ。調査も必要だ。責任の所在も明らかにされるべきだ。
だが、それだけでは足りない。
この問題の本質は、政治倫理ではなく、責任美学の問題なのだ。
だから高市早苗には、ここで終止符を打ってもらいたい。
「秘書がやりました」でもない。
「私は知りません」でもない。
「責任を痛感しております」でもない。
もっと先へ行け。
明るく、軽やかに、無責任であることを謳え。
「そうです。私の周辺で起きました。私の名前の下で起きました。けれど、私はこの時代に問いたい。あなたたちは本当に責任を取りたいのですか。責任を取らされることに怯え、スクショに怯え、切り抜きに怯え、炎上に怯え、謝罪文に怯えているこの国民に、いま必要なのは何ですか。私は責任から逃げるのではない。責任という古い形式そのものを笑い飛ばすのです」
そこまで言えたら、事件は変わる。
スキャンダルが思想になる。
疑惑が時代批評になる。
逃げが様式になる。
それこそが、令和の無責任一代女である。
もちろん危険だ。
民主主義を壊すかもしれない。
政治倫理を破壊するかもしれない。
野党は怒るだろう。
メディアは燃えるだろう。
知識人は眉をひそめるだろう。
だが、いまの日本社会は、すでに半分壊れている。
誰も責任を取りたくない。
けれど誰かには責任を取らせたい。
自分は謝りたくない。
けれど他人の謝罪は見たい。
自分の過去発言は掘られたくない。
けれど他人の過去発言は掘りたい。
この国は、責任を信じているのではない。
責任追及という娯楽を信じているだけだ。
だからこそ、高市早苗が本当に昭和のおんなであるならば、ここで昭和を終わらせなければならない。
植木等の無責任は、責任社会へのカウンターだった。
だが令和の無責任は、責任追及社会へのカウンターでなければならない。
「責任を取れ」と叫ぶ者たちもまた、責任を取りたくない者たちである。
その欺瞞を、いちばん古い女が、いちばん新しい無責任で撃ち抜く。
そこにしか、この騒動の美しさはない。
高市早苗よ。
もし逃げるなら、もっと美しく逃げろ。
もし責任を取らないなら、もっと堂々と取るな。
もし無責任であるなら、植木等のように歌え。
わかっちゃいるけど、やめられない。
それはもはや失態ではない。
この国の責任論が腐りきった果てに、最後に残された、たったひとつの政治的ポップソングなのである。
「ニッポン無責任時代」の主題歌として作られたこの歌は、映画と共に大ヒットした。ヒットの理由について作詞者青島は、「大人たちの不誠実さも反吐が出るほど見せられてきた戦後の若い世代には、この唄は我が意を得たとばかり受け入れられたに違いない」と分析している。この曲を「名作」と評している小林信彦は「シャボン玉ホリデー」において初めてこの歌を聞いたときの「ショックを忘れることができない」と回想している
青島によると、「タモリはこの歌を座右の銘にし、ビートたけしはこの歌で人生観を変えられた」らしい。つまり、そのくらい強烈なインパクトを「戦後ベビーブーマーの男たち」に与えたという。











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