KINK OF POP 映画『Michael/マイケル』とNetflix『マイケル・ジャクソン:ザ・バーディクト』ダブルレビュー
既に当アカウントではポップカルチャー史とアメリカという「神話を持たない国」の深層心理考察という二つの視点から
なぜアメリカ小児性愛事件に熱狂するのか?
について日本語による最も深掘りした記事をアップしていますが
奇しくも(というか正確には狙ってですが・・・・・)
同時期にリリースされたKING OF POP、マイケルジャクソンの二つの評伝コンテンツをどちらも見ました!
目次
ほとんどワイドショーの「再現ドラマ」・・・ 映画『Michael/マイケル』
まがりなりにもBOXOFFICEでアメリカではヒットしてる『Michael/マイケル』
でもほんとーーーーに驚いたのはなんだこれは?????というくらいお粗末な
映画というよりは「再現ドラマ」な作品の出来でした・・・・・・・大丈夫か??USA???
というくらいしかレビューのしようがないわけですが
そして一方Netflix『マイケル・ジャクソン:ザ・バーディクト』の方も
例えばあの悪名高い、であるがゆえにPOPコンテンツとしては傑作となった
「Leaving neverland」のような
強度をもたないどっちつかずの、それは言い換えると誠実なともいえるんですがSO-SOな作品でした。
でもここでこの二つの作品を並べて批評したいのは、この二面性
SNSによって誰もが15分だけポップスターになれる時代に
KING OF POPとして死後もなお「正体を掴ませない」この多義性こそが「POP」であることの本質であるということです
ポップスターとは、鏡の中で自分が誰なのかわからなくなる者のことである
映画『マイケル』と、Netflix『ザ・バーディクト』。
この二つのまったく別のベクトルを持つ評伝が、ほとんど同じ時代の空気の中に放たれてしまうこと。
それ自体が、もうひとつのマイケル・ジャクソン現象なのである。
一方には、神のごとき身体がある。
ムーンウォークがあり、白い靴下があり、指先の閃光があり、叫び声があり、スタジアムを宗教に変えてしまう肉体がある。
もう一方には、決して消えない疑惑がある。
子どもたちの影があり、証言があり、法廷があり、沈黙があり、誰も最終的には触れることのできない暗い部屋がある。
彼は天才パフォーマーだったのか。
それとも小児性愛者だったのか。
この問いに、世界は何十年も答えを出せないままでいる。
そしておそらく、答えを出せないからこそ、世界は彼から目を離せないのである。
ここが重要なのだ。
マイケル・ジャクソンという存在の恐ろしさは、単に「偉大なアーティストだった」ということではない。
単に「疑惑にまみれたスターだった」ということでもない。
その二つが、完全には分離できないまま、ひとつの身体の中に同居していること。
それこそが、ポップの本質なのである。
ポップとは清潔なものではない。
ポップとは正しいものではない。
ポップとは、みんなに愛されるために漂白された砂糖菓子ではない。
本当のポップとは、欲望と祈りが同じリズムで踊っている場所のことだ。
知性と痴性が、同じ白い手袋をはめていることだ。
真実と嘘が、同じ鏡の前で同じ顔をして微笑んでいることだ。
マイケルは、まさにその鏡だった。
彼は黒人であり、そして強迫的なまでに漂白していった。
彼は男であり、少年であり、少女であり、人形であり、幽霊であり、王であり、罪人であり、天使であり、怪物だった。
そのどれか一つに決めようとした瞬間、彼は指を鳴らしてスピンし、別の存在になってしまう。
だからマイケル・ジャクソンは「KING OF POP」だったのではない。
もっと正確に言えば、彼は KINK OF POP だったのである。
ポップスターとは、輝きすぎて影まで商品になってしまった人間である。
ポップの王ではなく、ポップの歪み。
ポップの快楽。
ポップの倒錯。
ポップの祈り。
ポップがポップであるために、決して切り捨てることのできない黒い染み。
現代は、誰もが一瞬だけポップスターになれる時代だ。
TikTokを開けば、15秒で世界に見つかる。
YouTube Shortsに乗れば、無名の少女が翌朝には何百万回も再生される。
Xで一言バズれば、その日だけは誰もがステージの中央に立てる。
しかし、それはまだ片翼の遊戯にすぎない。
SNS時代のポップスターは、見られることには慣れている。
バズることにも慣れている。
自分を商品にすることにも、自分をキャラクター化することにも慣れている。
だが、本当のポップスターはそれだけではない。
本当のポップスターとは、見られたいという欲望と、見られてはいけないという闇を同時に持つ者のことだ。
愛されたいという祈りと、愛されるほどに壊れていく宿命を同時に生きる者のことだ。
鏡に映った自分を見て、そこに映っているのが王なのか、子どもなのか、怪物なのか、神なのか、もう自分でもわからなくなってしまった者のことだ。
だから、ポップスターはただ輝く人間ではない。
ポップスターとは、輝きすぎて影まで商品になってしまった人間である。
マイケル・ジャクソンは、その究極だった。
彼の歌声は、あまりにも美しい。
彼のダンスは、あまりにも完璧だ。
彼のステージは、あまりにも神話的だ。
だが同時に、彼の存在には、誰も最後まで説明できない不気味さがある。
その不気味さを消してしまえば、マイケルはただの天才になってしまう。
逆に、その才能を消してしまえば、彼はただの疑惑の人物になってしまう。
しかし、マイケル・ジャクソンとは、そのどちらでもない。
天才と疑惑。
聖性と猥雑。
少年性と権力。
無垢と支配。
夢と裁判。
ネバーランドと法廷。
それらがすべて、ひとつの白い光の中で燃えている。
死後17年たってもマイケルジャクソンがPOPである理由を
逆説的に証明してしまう二作品でした。










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