吉本ばななという”優しい復讐者”について。 「クラウディクラウドファンディング」レビュー

その他

最初にお断わりしておくと僕は吉本氏一家の正しい読者ではありません・・・・・

不勉強で恥ずかしいですがご母堂の吉本和子氏が俳人であったことやお姉さまのハルノ宵子氏が漫画家であったことは
今回初めて知ったし、もちろんこうしたポップカルチャーの評論を書いているので
戦後最大の哲学者とよばれた吉本隆明先生の著書は読める限りの物はがんばって読破しましたが
これは世代的なものとしかいえないと思うんですが氏が終生おこなっていたポップカルチャー批評は
ドーーーーーー何回読んでもピンとこず(泣)

唯一繰り返し読んだのは詩人であった氏が
「復讐」のようにして書いた(はず)「言語にとって美とはなにか」だけが本棚には残っています

そして吉本ばなな氏の作品に関してはずーーーーっと疑問をもって接していた記憶があります
代表作とされている「キッチン」をはじめ、ばなな氏の作品はスピ系に転向されてからもおおむね

「やさしいセカイ」

と評されることが多いと思います。

で!!!それがとにかくずーーーーっと僕自身の読後感とは180度違っていました。

えーーーーー?!?!?!「やさしいかなぁ??????」と・・・・・・・・

今回「クラウディクラウドファンディング」を読んでみて、よーーーーやくその違和感の謎が解き明かされました。

やっぱり全然「やさしく」ないでしょ??吉本ばなな先生って。

吉本ばななという「やさしい復讐者」について

長い間、私は吉本ばななという作家に対して、ある種の違和感を抱き続けてきた。

それは、彼女の作品があまりにも長く、あまりにも安易に、あまりにも無批判に、
「やさしい世界」
「癒しの文学」
「傷ついた人のための物語」
として受け取られてきたことへの違和感である。

もちろん、そこにやさしさがなかったとは言わない。

むしろ、ある。

あるから厄介なのだ。

吉本ばななの文章には、いつも、壊れかけた人間をそっと包むような手触りがある。
死者と生者の境目で、夜の台所で、曇った窓の向こうで、疲れた魂がふっと救われるような瞬間がある。

だから多くの読者は言う。

「癒された」
「救われた」
「やさしい気持ちになった」

だが、私はずっと思っていた。

本当にそうなのか。

これは本当に、ただのやさしさなのか。

このやさしさの底には、もっと黒く、もっと熱く、もっと粘度の高いものが沈んでいるのではないか。

そして今回の「クラウディクラウドファンディング」によって、その違和感の正体が、ようやくはっきり見えてしまった。

それは、パッシブアグレッシブである。

静かなる攻撃性。
微笑みながらの告発。
尽くしながらの復讐。
愛していると言いながら、決して相手を許さない心。
助け続けることで、相手を永遠に「助けられる側」に固定し続ける構造。

この膨大なテキストを貫いているのは、端的に言えば、吉本ばなな氏の家族への怒りである。

それも、ただの怒りではない。

母への怒り。
姉への怒り。
父をも巻き込んだ家族システムそのものへの怒り。
そして何より、
「あなたたちのせいで、私はこうなった」
という、人生の深い場所から噴き上がってくる怒りである。

しかし吉本氏は、その怒りを、怒りとしてそのまま提出しない。

ここが怖い。

彼女は怒鳴らない。
断罪しない。
少なくとも表面上は、断罪していないように書く。

「母にもいいところはあった」
「姉を愛している」
「恨んではいない」
「しかたなかったのだろう」
「虐待された子どもは死者を悪く言えない」

そう書く。

だが、その直後に、読む者の心臓をつかむような具体的エピソードが並ぶ。

一晩中責められた。
大切なものを捨てられた。
着替えが怖くなった。
生理が来たときに怒られた。
妊娠中に宴会への出席を強要された。
姉は母に支配され、猫にすべてを託す人になった。
実家はねずみの匂いに覆われ、感染症と漏電の危険に沈んでいる。
自分は金を出し続け、老後の家まで売り、なおも救済を求められ続けた。

この反復。

この「私はこんなにしてきた」の反復。

ここに、この文章の本質がある。

それは、本当に「やさしさ」だったのか?

吉本氏は何度も書く。

私は払った。
私は助けた。
私は相続を放棄した。
私は両親の入院費を出した。
私は毎月仕送りした。
私は老後の家を売った。
私は姉のために身体を壊すほど働いた。
私はそれでも姉を愛している。
私はそれでも母のことを理解しようとしている。

だが、ここで問わなければならない。

それは、本当に「やさしさ」だったのか。

もちろん、生活上の援助としては、やさしさである。
家族としての責任感でもある。
罪悪感でもある。
共依存でもある。
サバイバーとしての呪いでもある。

しかし、文学的に、精神構造として見るならば、そこには別のものがある。

吉本氏は、関わり続けることで復讐してきたのではないか。

断ち切るのではなく、関わる。
逃げるのではなく、援助する。
黙るのではなく、書く。
忘れるのではなく、記録する。

そしてそのたびに、心の奥で言い続ける。

「見なさい。私はあなたたちとは違う」

私はあなたたちのようにはならなかった。
私は子どもを愛した。
私は人のお金を当てにしない。
私は仕事をする。
私は感謝を知っている。
私は社会の中で生きている。
私は物語を書ける。
私はまだ魂を完全には殺されていない。

この「違う」という感覚。

これこそが、吉本ばなな文学の地下水脈だったのではないか。

怒りを殺さないためのやさしさ

「やさしい世界」とは、単に他者を救うための世界ではなかった。
それは、彼女が母と姉に対して、そして自分を殺そうとした家族のシステムに対して作り上げた、
対抗世界
だったのだ。

つまり、吉本ばななの「やさしさ」とは、無垢な慈愛ではない。

それは、
怒りを殺さないためのやさしさ
である。

自分が母のようにならないため。
姉のように魂を殺されないため。
父のように身体を壊して沈黙しないため。
自分の中の怒りを、直接的な暴力に変換しないため。

彼女は「やさしい世界」を書いた。

だがそのやさしさは、白い毛布のようなものではない。

それは、怒りを包んだ包帯である。
復讐を文学に変換するための濾過装置である。
家族という地獄に対して、私は違う、私はここには堕ちない、私は言葉で生き延びる、という宣戦布告である。

真正面から「憎い」とは言わない。
むしろ「愛している」と言う。
「恨んでいない」と言う。
「救いたい」と言う。

しかし、その文章全体が、読み終えた者にこう告げる。

この人たちは私を苦しめた。
私は被害者である。
そして私は、それでもあなたたちより正しく生きた。

そして、おそらくこれこそが、吉本ばななという作家の本質なのだ。

彼女は「やさしい人」なのではない。
少なくとも、ただのやさしい人ではない。

彼女は、やさしさという形式を使って、怒りを保存してきた人である。
癒しという文体で、復讐を遅延させてきた人である。
物語という安全な容器の中に、家族への殺意に近い怒りを何十年も密封してきた人である。

愛ではある。

だがそれは、怒りと分離できない愛である。

「あなたたちとわたしは違う」

この一念こそが、吉本ばなな氏の本質であり

その「やさしい復讐者」

という通底音が気になって僕は氏の作品が苦手だったのだと思います。

Posted by nolongerhuman