伊藤昌亮「曖昧な弱者の時代」書評・レビュー! でも実は”明白な敗者”の時代なのでは??

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伊藤昌亮先生の新刊「曖昧な弱者の時代」を拝読しましたーーー!!!

この本で「曖昧な弱者」として定義されている界隈に関しては深堀ちゃんXアカウントでかなーーり分析していたので
この本も読んだんですが、あぁ・・・・なるほど!と思ったのは
その根本的な定義の仕方、それは

「曖昧な弱者」

というよりは

「明白な敗者」

なのでは?と。

問題は、彼らを「曖昧な弱者」と呼ぶことの、あまりにも深い優しさである。

いや、もちろん伊藤昌亮氏の言う「曖昧な弱者」という把握は、きわめて鋭い。
現代日本のネット世論、とりわけ高市早苗を熱烈に応援し、参政党的な“本当の日本を取り戻す”幻想にシンパシーを抱き、
兵庫県知事選における二馬力選挙的な現象を「オールドメディアの敗北」として喝采する人々を考えるうえで、
それは重要な補助線になる。

彼らはたしかに、自分たちを強者だとは思っていない。エリートでもない。メディアでもない。大企業でもない。霞が関でもない。
リベラル知識人でもない。フェミニズムでもない。つまり、既存の象徴秩序の中心からは疎外されているという感覚を持っている。

だが、ここでひとつ問いを立てなければならない。

彼らは本当に「弱者」なのか。

むしろ彼らの無意識にある自己規定は、「弱者」ではなく「敗者」なのではないか。

ここが決定的に重要である。

敗北の記憶とプライド

弱者とは、基本的には構造的な位置である。貧困、障害、病、差別、家庭環境、地域格差、ジェンダー、教育機会、身体的条件、
あるいは社会制度によって、本人の努力だけでは乗り越えがたい制約を負わされた存在である。

そこには、否応なく押しつけられたものがある。逃れがたい条件がある
。本人のプライドとは無関係に、社会がその人を弱い位置に置いてしまうという残酷さがある。

しかし、いまネット右派的な熱狂の中心にいる中高年男性たち、
あるいはその周辺にいる「反オールドメディア」「反リベラル」「反フェミ」「反エリート」の情念をまとう人々にあるのは、
必ずしもそうした構造的弱者性だけではない。

そこにあるのは、もっと生々しい。

敗北の記憶である。

彼らは、おそらく人生のどこかで、何かにアプローチしたのだ。

マスコミに。
大企業に。
政治に。
文化に。
学歴社会に。
都会に。
女性に。
承認に。
成功に。

「自分もそちら側へ行けるはずだ」という夢に。

だが、拒絶された。

採用されなかった。
評価されなかった。
選ばれなかった。
愛されなかった。
相手にされなかった。
笑われた。
見下された。
無視された。
あるいは、本人にはそう見えた。

ここに、彼らの政治的情動の核がある。

彼らは単に「困っている」のではない。
彼らは単に「生活が苦しい」のでもない。
彼らは単に「地方で孤立している」のでもない。

彼らは、「自分は本当ならもっと認められるはずだった」という自己イメージを、現実によって破壊された人々なのである。

だからこそ、彼らは復讐を求める。

だからこそ、彼らは福祉よりも復讐を求める。
再分配よりも処罰を求める。
制度改善よりも敵の失脚を求める。
減税よりも「ざまあみろ」を求める。
政策よりもカタルシスを求める。
政治家よりも代弁者を求める。
ニュースよりも暴露を求める。
議論よりも吊し上げを求める。

彼らにとって政治とは、生活を良くするための制度設計ではない。

政治とは、自分を拒絶した世界に向かって、ようやく投げ返すことのできる石なのである。

敵に嫌われることによって、自分たちの正しさが証明されるという倒錯

だから高市早苗は重要になる。

彼女は、現実の政策家としての高市早苗である以前に、彼らにとっては「自分たちをバカにしてきたリベラル・メディア・知識人・フェミニストたちに嫌われている存在」である。その嫌われていること自体が価値になる。敵に嫌われることによって、自分たちの正しさが証明されるという倒錯が起こる。

参政党も同じである。

参政党の政策的整合性が問題なのではない。彼らにとって重要なのは、参政党が「まともな専門家」からバカにされることである。
学者に笑われ、メディアに警戒され、リベラルに批判される。その瞬間、彼らはこう思う。

「ほら見ろ、やっぱり本物だから攻撃されているんだ」

これは陰謀論の構造であると同時に、敗者の自己救済の構造である。

自分が認められなかったのは、自分に能力がなかったからではない。
自分が愛されなかったのは、自分に魅力がなかったからではない。
自分が成功しなかったのは、自分の選択が間違っていたからではない。

全部、システムが悪かったのだ。
マスコミが悪かったのだ。
左翼が悪かったのだ。
女が悪かったのだ。
移民が悪かったのだ。
グローバリズムが悪かったのだ。
財務省が悪かったのだ。
オールドメディアが悪かったのだ。

つまり彼らは、人生の敗北を政治的陰謀へと変換することで、かろうじて自我を保っているのである。

敗北感を「世間」化したSNS

ここでSNSが決定的な役割を果たした。

彼らはSNS以前から存在していた。もちろん存在していた。会社の片隅にいた。地方のスナックにいた。実家の子ども部屋にいた。掲示板にいた。職場の喫煙所にいた。飲み会の端にいた。親戚の集まりで突然政治の話を始める厄介な叔父として存在していた。

だが、社会的に認知されたのはSNS以降である。

なぜか。

SNSは、彼らの孤立した敗北感に、群れを与えたからである。

それまでは個人的な恨みでしかなかったものが、タイムライン上で共鳴し、リポストされ、いいねされ、動画化され、切り抜かれ、まとめられ、アルゴリズムによって増幅されることによって、「世論」に見えるようになった。

ここで起こったのは、弱者の可視化ではない。

敗者感情のプラットフォーム化である。

そして重要なのは、彼らが本当に求めているのは「救済」ではないということだ。

もし彼らが本当に弱者として救済を求めているなら、社会保障、医療、住宅、雇用、教育、地域コミュニティ、孤立対策、所得再分配といった政策に向かうはずである。しかし彼らの情動は、そこにはなかなか向かわない。

なぜなら、福祉は彼らの傷ついたプライドを癒やさないからである。

給付金をもらっても、かつて自分を見下した女は振り向かない。
減税されても、かつて落ちた会社から内定通知は来ない。
社会保障が改善されても、若い頃に失った万能感は戻ってこない。
地域コミュニティが整備されても、「俺は本当はもっとすごい人間だったはずだ」という物語は回復しない。

給付金をもらっても、かつて自分を見下した女は振り向かない。
減税されても、かつて落ちた会社から内定通知は来ない。
社会保障が改善されても、若い頃に失った万能感は戻ってこない。
地域コミュニティが整備されても、「俺は本当はもっとすごい人間だったはずだ」という物語は回復しない。

彼らが欲しいのは金ではない。

謝罪である。

しかも、具体的な誰かからの謝罪ではない。
世界そのものからの謝罪である。

「あなたを認めなくてすみませんでした」
「あなたを選ばなくてすみませんでした」
「あなたを笑ってすみませんでした」
「あなたの人生がうまくいかなかったのは、あなたのせいではありませんでした」

この言葉を、彼らは国家に言わせたいのである。
メディアに言わせたいのである。
女性に言わせたいのである。
知識人に言わせたいのである。
リベラルに言わせたいのである。

しかし、そんな謝罪は永遠に来ない。

だから彼らは怒り続ける。
怒り続けることで、自分の敗北を直視せずに済むからである。

この意味で、彼らに必要なのは、実は政治ではない。

セラピーである。

もちろん、これは「精神的におかしいから治療しろ」という侮蔑ではない。そうではない。むしろ逆である。彼らの問題を、本当に人間の傷として扱うならば、必要なのは単なるファクトチェックでも、啓蒙でも、説教でも、論破でもない。

必要なのは、彼らが人生のどこで傷つき、どこで拒絶され、どこでプライドを破壊され、どこから世界を敵として見るようになったのかを、臨床的にほどいていく作業なのである。

だが、ここで政治と知識人の本気度が問われる。

彼らを「愚かな大衆」と切り捨てるのは簡単である。
「陰謀論者」と呼ぶのも簡単である。
「差別主義者」と断罪するのも簡単である。
「ネトウヨ」とラベリングするのも簡単である。
「曖昧な弱者」と名づけるのも、ある意味では簡単である。

しかし、本当に彼らを社会に再接続する気があるのか。

あるのなら、問うべきはこうである。

彼らの生活をどう支えるか、だけでは足りない。
彼らの認知をどう修正するか、だけでも足りない。
彼らの情報環境をどう改善するか、だけでも足りない。

彼らの敗北感をどう扱うのか。

ここから逃げてはいけない。

なぜなら、現代のポピュリズムは、もはや単なる経済問題ではないからである。もちろん経済は重要である。雇用も賃金も重要である。地方衰退も重要である。中年男性の孤立も重要である。だが、それだけでは説明できない。

問題の中心には、プライドの問題がある。

しかも、そのプライドは非常に幼児的である。

「自分はもっと褒められるべきだった」
「自分はもっと選ばれるべきだった」
「自分はもっと尊敬されるべきだった」
「自分はもっとモテるべきだった」
「自分はもっと社会の中心にいるべきだった」

この幼児的万能感が、現実によって打ち砕かれたとき、人は成熟することもできる。自分の限界を知り、他者の現実を知り、人生を再構成することもできる。

しかし、成熟に失敗した場合、その万能感は被害者意識へと転化する。

「俺が中心でない世界は間違っている」

これが、彼らの政治感情の最も深いところにある。

だから彼らは、女性の自立に怒る。
若者の自由に怒る。
外国人の存在に怒る。
LGBTQに怒る。
リベラルに怒る。
専門家に怒る。
メディアに怒る。
東京に怒る。
大学に怒る。
正しさに怒る。

なぜなら、それらすべてが「自分が中心ではない世界」の証拠だからである。

彼らは社会から排除された弱者である以前に、自分が主人公ではなかったことに耐えられない敗者なのである。

Soy un perdedor

I’m a loser baby, so why don’t you kill me?

Posted by nolongerhuman