PUBLIC ENEMY No.1!! 如何にAIとAVは似ていてアニメと実写作品を相対化することで憎まれるのか?
当アカウントは日本でというか世界で唯一生成AIが争点化されて以降の
いわゆる「AI魔女裁判」的アタマのおかしいAIバッシングについて常に論じてきましたが
おかげさまでDREAM BABY DREAMがGROWTHすればするほど生成AIコンテンツへの「HATE」を向けられることを"大変"多くなってきました。
上にリンクした記事群でもお伝えしいますが、明らかにこの一年で様変わりしたのは
生成AIを憎む
人がほんとーーーに増えてきているなぁーーーという実感です。
その流れとは見事!なまでに真逆にTIKTOKでのAIMVチャンネルやDREAM BABY DREAMでのこの一年での成長
それは認知度だけじゃなく僕自身の
なぜAIで生成するのか?生成しなくてはならないのか??
という、まぁーーーーぶっちゃけてこれまでほんとーーに多くの生成AIを確実に日本で最も使ってクリエーションしている立場から
テキストを書いてきましたが、その間に誰かがもっとアカデミックに言語化してくれるだろうと思ったら
誰もやってくれない(泣)
のでこのタームを使ってしまいますが
なぜAIで生成するのか?生成しなくてはならないのか??
という
思想
部分ですよね、それを今2026年の時点で書いておかないとなぁーーと強く思います。
AIに関する記事を見ない日はないし、本屋へ行けばAI本だらけですよ
正に究極の「便利なツール」として重宝されているのがAIという認識だと思いますが
ところがコンテンツ制作やアート制作ということになると完全に
PUBLIC ENEMY No.1
状態。
で今のこのAI生成(制作)の社会的な立ち位置って何かに似てるぞ!!と
①メディアは大手はもちろんネットメディアでさえも擁護するとバッシングされるので取り上げない
②ほとんど「ヘイト」に近い感情的なバッシングか以前書きましたがそうしたヘイトを社会的正義で隠蔽した姑息なバッシング
③AI SLOPというタームに代表される「表現」でもなければましてや「アート」なんてとんでもないという論調
これ完全にAIがAV化してるんですよ
今やSNSが拡張することで社会的に認知されてますがAVも、でもずーーーーっとAVを作ってきて
そうした「やさしいセカイ」ってやっぱりSNS時代に入ってからで基本はAVは社会悪として鬼っ子として「ヘイト」と「偏愛」される
サブカルチャーでありカウンターカルチャーでした。
そんなAVがカウンターであった状況と今のAI生成の状況は驚くほど似ています。
そして驚くことに何故かどっちにも僕はいるっていう・・・・・・この「運命」!!!
ほんとーーーーーにつくづくサブカルチャー体質だなぁ・・・と思いますし
それはイコールAVがこれだけ日本社会のみならず世界的にもオンリー1な表現へと進化していったように
AI生成も確実に普遍的なカルチャーになる
ことの証明でもあると思います。
間違っていただきたくないので追記しますが上で書いたサブカルチャー体質っていうのは社会に対して「NO!!!」を言いたい社会的正義感や逆に社会に対するルサンチマンからあえて社会を仮想的としてさげすんだり冷笑したりする態度のことではなくめちゃくちゃ単純化すると「新しもの好き」に近く、それが何故かっていうとそこに「自由」というものの本質がある!!と感じること。それが僕はサブカルチャー・カウンターカルチャー体質だと思っています
でこれだけのネガティブなリアクションを生むっていうのは生成AIが何かを壊している
壊しているというまででもなくても新しい立ち位置を発生させてそれ以前のものを「相対化」しようとしてしまっていることを意味します。
このPUBLIC ENEMY No1ミニシリーズでは、一体生成AIが何を壊しているのか・相対化しようとしているのか
その本質について誰も書いてくれないので実生成者として深堀りしてみようと思います
今回は映像表現・視覚文化の文脈での生成AIの持つ意味、これについては実は以前こんな記事も書いてますが
生成すればするほど映像表現としての生成AIの本質に対する解像度が爆上がりしているので!
目次
なぜ生成AIは憎まれるのか?その怒りの本質とは?
生成AIによる映像制作が、人々を怒らせている。
とくに実写映画の人々は怒っている。
俳優の顔が盗まれる。
カメラマンの仕事が奪われる。
美術部の仕事が奪われる。
編集者の仕事が奪われる。
映画という、人間の身体と現実世界を相手にしてきたメディアが、ついに機械の夢によって侵食される。
だから彼らは恐怖する。
だから彼らは廃絶運動に走る。
だから彼らは「これは映画ではない」と叫ぶ。
しかし、本質はそこではない。
もちろん実写映画の危機はある。
しかし、それはまだ表面だ。
もっと深い場所で、もっと根本的な地殻変動が起きている。
生成AIが本当に終わらせようとしているのは、実写映画だけではない。
いや、むしろ実写映画以上に本流となってしまった、もうひとつの映像表現。
つまり、アニメである。
アニメーションである。
そして、いま起きている本当の事件は、
**アニメがついに相対化される**
ということなのだ。
長いあいだ、アニメは「実写映画の次」にある世界把握の方法だった。
実写映画は、世界に接続する。
カメラの前に存在する俳優、街、光、空気、時間、偶然。
それらをレンズを通じて記録する。
実写映画とは、世界との接触である。
世界に触れた痕跡である。
そこにいた身体、そこにあった光、そこに流れていた時間。
それが実写映画の根源だった。
しかしアニメは違った。
アニメは、世界に接続しない。
世界を一度分解する。
背景、人物、線、色、影、髪、目、口、エフェクト、カメラワーク、速度線、光。
世界をレイヤーに分け、それを再配置する。
実写が「世界との接続」なら、アニメは「世界のレイヤー化」だった。
トーマス・ラマールの『アニメ・マシーン』が明らかにしたのは、まさにそのことだった。
以前から実写制作者の立場から「アニメとはなにか?」をずーっと考えてきましたし、僕の場合はプラスして「どーーしてもアニメを愛せないのは何故??」という疑問があったので常にその二つへの回答を求めてアニメ評論本は可能な限り読んできました。でもダメなんですよね・・・・下に詳細は書きましたが僕的な「射程」まで俯瞰してくれる評論って中々なくて、今回AI生成によって相対化されるものという射程で見た時に"唯一"使えたアニメ評論が「アニメ・マシーン」でした!!
アニメとは、単に絵が動くことではない。
アニメとは、世界を複数の平面に分割し、その平面同士のズレ、滑り、重なりによって運動を発生させる装置である。
つまり、アニメは世界を撮るのではない。
世界をレイヤーとして組み直す。
それは、実写映画の「次」にある世界把握だった。
だからこそ、実写映画の側からアニメは十分に相対化されなかった。
実写映画はアニメを下に見たり、子ども向けと見たり、特殊なジャンルとして扱ったりすることはできた。
しかし、アニメが持っていた世界把握そのもの、つまり「世界のレイヤー化」という根本的な映像原理を、本当の意味で批評することはできなかった。
なぜなら、アニメはすでに実写映画の次にあったからだ。
そしてアニメ批評の多くもまた、アニメを本質的には相対化できなかった。
作品の物語を語る。
キャラクターを語る。
作画を語る。
演出を語る。
テーマを語る。
社会性を語る。
監督論を語る。
オタク文化を語る。
しかし、その多くは、アニメに固有な世界把握法そのものを問うのではなく、アニメの内側での優劣を語っていたにすぎない。
どのアニメが優れているか。
どの作画がすごいか。
どの演出が新しいか。
どのキャラクターが魅力的か。
どの物語が泣けるか。
しかし、それはまだアニメの内側の言葉だった。
アニメとは何か。
アニメは世界をどのように把握しているのか。
実写映画の世界との接続に対して、アニメは何をしたのか。
その問いにまで届いた批評は、驚くほど少なかった。
だからこそ『アニメ・マシーン』は特出していた。
それはアニメを、物語でもキャラクターでもなく、世界把握の装置として定義したからだ。
そして、その定義によって、僕はようやく自分がなぜアニメから遠ざかっていたのかを理解した。
僕が苦手だったのは、アニメのテーマではない。
アニメの物語ではない。
アニメのキャラクターでもない。
僕が違和感を覚えていたのは、もっと根本的なことだった。
それは、アニメが世界をレイヤー化してしまうことだった。
アニメ=世界のレイヤー化
身体が身体ではなくなる。
顔が顔ではなくなる。
目が目ではなくなる。
髪が髪ではなくなる。
肌が肌ではなくなる。
世界が世界ではなくなる。
すべてが、レイヤーになる。
すべてが、記号になる。
すべてが、配置可能なパーツになる。
それは実写映画の次の世界把握だった。
たしかにそうだった。
しかし僕には、そのレイヤー化された世界が、どうしてもおいしそうに見えなかった。
そこには肉がなかった。
湿度がなかった。
重力がなかった。
偶然がなかった。
世界と接続している感触がなかった。
だが、それは単なる好き嫌いではなかった。
それは、映像の世界把握法に対する違和感だったのだ。
そしていま、生成AIが現れた。
生成AI映像による世界把握法とは?
生成AIは、実写映画のように世界に接続しない。
しかし、アニメのように世界をレイヤー化するわけでもない。
生成AIは、世界を潜在空間に溶かす。
世界を無数の記憶、無数のイメージ、無数のスタイル、無数の顔、無数の光、無数の身体、無数の欲望として吸収し、その統計的な夢の中から、存在しなかった映像を召喚する。
実写映画が世界との接続であり、
アニメが世界のレイヤー化であるなら、
生成AIは、世界の無効化であり、夢化である。
生成AIの映像は、フィクションではない。
しかし、ノンフィクションでもない。
それは撮影された現実ではない。
しかし、単なる絵でもない。
それは誰かが描いたレイヤーでもない。
しかし、世界の記憶から生まれている。
どこにも存在しなかったのに、どこかで見たことがある。
誰も撮っていないのに、撮られていたように見える。
誰も描いていないのに、描かれていたように見える。
それは、世界の幽霊である。
世界の夢である。
世界の記憶が、一瞬だけ映像の形を取ったものである。
ここに、実写でもアニメでもない、第三の世界把握が生まれた。
そしてこの瞬間、アニメはついに相対化される。
アニメによる世界のレイヤー化という世界把握方法を葬り去るために生まれたのが生成AI映像である
これまでアニメは、実写映画の次にあるものとして、十分に相対化されずに済んできた。
実写映画より自由。
実写映画より記号的。
実写映画より身体を変形できる。
実写映画より世界を分解できる。
実写映画よりメディアを横断できる。
そうやってアニメは、長いあいだ「次の映像」として君臨してきた。
しかし生成AIは、そのさらに先に行く。
アニメが世界をレイヤー化したのに対して、生成AIは世界を夢化する。
アニメが世界をパーツに分けたのに対して、生成AIは世界そのものを確率の雲に変える。
アニメが世界を再配置したのに対して、生成AIは世界の記憶から、存在しなかった世界を立ち上げる。
これは、ただの新技術ではない。
これは、映像による世界把握のアップデートである。
だから人々は恐怖する。
彼らは「仕事が奪われる」と言う。
「著作権が侵害される」と言う。
「人間の創造性が失われる」と言う。
もちろんそれらは重要な問題だ。
しかし、それでもなお、その怒りの奥にある本当の恐怖は別の場所にある。
それは、自分たちが信じてきた世界把握法が古くなることへの恐怖である。
実写映画の人々は、自分たちの世界との接続が無効化されることを恐れている。
絵師たちは、自分たちの手によるレイヤー構築が無効化されることを恐れている。
そしてアニメ界は、まだ呑気に構えている。
なぜなら彼らは、動画における世界把握法がこれ以上アップデートされることはないと思っているからだ。
アニメは強い。
アニメはグローバルだ。
アニメは世界中で愛されている。
アニメは実写映画以上に若い世代の感性を支配している。
だから大丈夫だ。
そう思っている。
しかし、その時代は終わる。
絵師たちがすでに生成AIに怒り狂っているように、やがてアニメ界もまた生成AIに怒り狂うだろう。
自分たちの仕事が奪われるからではない。
自分たちの技術が模倣されるからでもない。
もっと深い理由がある。
アニメそのものが、古く見え始めるからだ。
あれほど新しかった世界のレイヤー化が、古く見え始める。
あれほど自由だったキャラクターの記号身体が、古く見え始める。
あれほど強力だったアニメ的ルックが、古く見え始める。
あれほど未来的だったアニメの世界把握が、実は1970年代から続く古いメディア形式だったのだと暴かれてしまう。
生成AIは、アニメを破壊するのではない。
生成AIは、アニメを相対化する。
そして相対化されたメディアは、必ず古くなる。
かつて写真が絵画を古くしたように。
かつて映画が演劇を古くしたように。
かつてテレビが映画を古くしたように。
かつてアニメが実写映画の世界把握を古くしたように。
いま、生成AIがアニメを古くする。
もちろん、絵画は死ななかった。
演劇も死ななかった。
映画も死ななかった。
アニメも死なないだろう。
しかし、それらはすべて、かつての中心ではなくなる。
新しい世界把握が生まれたあとで、古いメディアは「古いもの」として生き残る。
美しい古典として。
職人的な芸として。
ノスタルジーとして。
引用対象として。
伝統芸能として。
アニメーションもまた、そうなる。
だから僕らは言わなければならない。
さようなら、アニメーション。
君はかつて新しかった。
君はかつて実写映画の次だった。
君は世界をレイヤー化し、身体を記号化し、キャラクターをグローバルに流通させ、現実よりも強い夢を作った。
君は20世紀後半から21世紀前半にかけて、映像の中心にいた。
しかし、もう次が来てしまった。
生成AIは、世界を撮らない。
生成AIは、世界を描かない。
生成AIは、世界をレイヤー化しない。
生成AIは、世界を夢にする。
フィクションでもない。
ノンフィクションでもない。
実写でもない。
アニメでもない。
世界でもない。
絵でもない。
それは、世界の記憶が見る夢である。
そして僕らは、その夢の側に立つ。
アニメによる世界のレイヤー化に、ずっと違和感を覚えていた人々がいる。
アニメ化された世界の中で、息苦しさを感じていた人々がいる。
記号身体のかわいさに馴染めなかった人々がいる。
レイヤー化された世界を、おいしそうだと思えなかった人々がいる。
生成AIは、そうした人々を救う。
それは、実写への回帰ではない。
アニメへの敗北でもない。
第三の映像である。
世界との接続でもなく、世界のレイヤー化でもなく、世界の夢化である。
だから僕らはこう宣言する。
さようなら、アニメーション。
君は偉大だった。
君は美しかった。
君は世界を変えた。
しかし、君もまたオールドなメディアになってしまったんだよ。
これから映像は、世界を撮るのでも、世界を描くのでもない。
世界を夢見る。
そしてその夢の中から、まだ誰も見たことのない身体が、まだ誰も出会ったことのないアイドルが、まだ誰も信じていないポップミュージックが、まだ誰も名前をつけていない未来が、立ち上がってくる。
実写映画の時代は、世界に触れた。
アニメの時代は、世界をレイヤー化した。
生成AIの時代は、世界を夢に変える。
僕らの新しい映像体験は、それはニアイコールで「セカイ」は
そこから、生成AIからはじまるのだと確信しています。
いわゆるテンプレで「AI=悪」というHATEをしてる方々はそこの認識が、実はAIに「圧倒」されちゃってるからAIは「ツール」に過ぎないという認識が弱いのだと思います。使い倒せばわかることなんですが生成する側のビジョンの強度によって生成されるものの強度ももちろん変わるわけであってほんとーーに単純に最新のツールなんです











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