PUBLIC ENEMY No.1!! 如何にAIとAVは似ていてアナタとセカイの関係性を相対化することで憎まれるのか?

2026年6月30日AI魔女裁判, 生成AI

この記事は下の記事の姉妹版のため以下の冒頭部分は同じ「宣言」となっていることをご了承下さい。ただ前回は生成AIによるアニメと実写作品の相対化、視覚文化の視点から深堀りしましたがこの記事では「アナタ=ワタシとセカイとの関係性」という認知学の視点から深堀りしています!

当アカウントは日本でというか世界で唯一生成AIが争点化されて以降の
いわゆる「AI魔女裁判」的アタマのおかしいAIバッシングについて常に論じてきましたが

おかげさまでDREAM BABY DREAMがGROWTHすればするほど生成AIコンテンツへの「HATE」を向けられることを"大変"多くなってきました。

上にリンクした記事群でもお伝えしいますが、明らかにこの一年で様変わりしたのは

生成AIを憎む

人がほんとーーーに増えてきているなぁーーーという実感です。

その流れとは見事!なまでに真逆にTIKTOKでのAIMVチャンネルやDREAM BABY DREAMでのこの一年での成長
それは認知度だけじゃなく僕自身の

なぜAIで生成するのか?生成しなくてはならないのか??

という、まぁーーーーぶっちゃけてこれまでほんとーーに多くの生成AIを確実に日本で最も使ってクリエーションしている立場から
テキストを書いてきましたが、その間に誰かがもっとアカデミックに言語化してくれるだろうと思ったら

誰もやってくれない(泣)

のでこのタームを使ってしまいますが

なぜAIで生成するのか?生成しなくてはならないのか??

という

思想

部分ですよね、それを今2026年の時点で書いておかないとなぁーーと強く思います。

AIに関する記事を見ない日はないし、本屋へ行けばAI本だらけですよ
正に究極の「便利なツール」として重宝されているのがAIという認識だと思いますが
ところがコンテンツ制作やアート制作ということになると完全に

PUBLIC ENEMY No.1

状態。

で今のこのAI生成(制作)の社会的な立ち位置って何かに似てるぞ!!と

①メディアは大手はもちろんネットメディアでさえも擁護するとバッシングされるので取り上げない

②ほとんど「ヘイト」に近い感情的なバッシングか以前書きましたがそうしたヘイトを社会的正義で隠蔽した姑息なバッシング

③AI SLOPというタームに代表される「表現」でもなければましてや「アート」なんてとんでもないという論調

これ完全にAIがAV化してるんですよ

今やSNSが拡張することで社会的に認知されてますがAVも、でもずーーーーっとAVを作ってきて
そうした「やさしいセカイ」ってやっぱりSNS時代に入ってからで基本はAVは社会悪として鬼っ子として「ヘイト」と「偏愛」される
サブカルチャーでありカウンターカルチャーでした。

そんなAVがカウンターであった状況と今のAI生成の状況は驚くほど似ています。

そして驚くことに何故かどっちにも僕はいるっていう・・・・・・この「運命」!!!

ほんとーーーーーにつくづくサブカルチャー体質だなぁ・・・と思いますし
それはイコールAVがこれだけ日本社会のみならず世界的にもオンリー1な表現へと進化していったように

AI生成も確実に普遍的なカルチャーになる

ことの証明でもあると思います。

間違っていただきたくないので追記しますが上で書いたサブカルチャー体質っていうのは社会に対して「NO!!!」を言いたい社会的正義感や逆に社会に対するルサンチマンからあえて社会を仮想的としてさげすんだり冷笑したりする態度のことではなくめちゃくちゃ単純化すると「新しもの好き」に近く、それが何故かっていうとそこに「自由」というものの本質がある!!と感じること。それが僕はサブカルチャー・カウンターカルチャー体質だと思っています

でこれだけのネガティブなリアクションを生むっていうのは生成AIが何かを壊している
壊しているというまででもなくても新しい立ち位置を発生させてそれ以前のものを「相対化」しようとしてしまっていることを意味します。

このPUBLIC ENEMY No1シリーズでは、一体生成AIが何を壊しているのか・相対化しようとしているのか
その本質について誰も書いてくれないので実生成者として深堀りしてみようと思います

前回はまだシンプルに「視覚表現」の2つ、実写映画とアニメーションに対してなぜ生成AIがカウンターであるのか?
という内容でしたが

今回はもっとターゲットが広がってしまいます・・・・・こーいう記事を書くたびになんでこんな面倒なことを僕が?????(泣)
なんですが、これはですねー実際に手を動かして生成するのとAIについて考えること
この二つを同時にやってる人がほぼいないからですね・・・・・・・
であたりまえですけどこの二つを接続するための言語化をしないとそのジャンルは「死ぬ」ので
やっているという感じです。

今回は「視覚表現」からもう一歩踏み込んで

全てのエンタメ・ポップコンテンツと生成AI

問題設定をするなら

なぜ生成AIコンテンツは小説・ロック・ポップ・映画・アニメ・ゲーム・インフルエンサーによるSNSコンテンツといった現存する全てのポップコンテンツにおける「ワタシとセカイ」を相対化し圧倒的に新しい「ワタシとセカイ」を生成できているのか??

その理由を徹底的に考察・解説しまっす!!と。

小説・映画・ロック・アニメ・ゲーム・SNSと「ワタシ」の歴史

生成AIが憎まれる理由は、著作権とか仕事を奪うとか、もちろんそれもある。あるのだが、もっと根底にあるのはそこではない。生成AIは、近代以降のポップカルチャーがずっと守ってきた**「ワタシ」**という幻想そのものを、あまりにも無邪気に、あまりにも高速に、あまりにも残酷に、解体してしまうからだ。

小説は言った。

ホントウのワタシは、内面の奥深くにある。

だから人は読む。
ページをめくる。
登場人物の苦悩に自分を重ねる。
この痛みは私のものだ。この孤独は私のものだ。この言葉にできなかった感情こそ、私の本当の姿だったのだと気づく。

近代小説とは、つまり「内面」という地下室を掘る装置だった。
ワタシはまだ発見されていない。
だから探さなければならない。
この社会の中で、この恋愛の中で、この家族の中で、この言葉の迷宮の中で、ワタシはワタシを探す。

ロックもまた言った。

ホントウのワタシは何処にある??

ギターを歪ませる。
声を枯らす。
身体をステージに投げ出す。
社会が嘘なら、学校が嘘なら、会社が嘘なら、家族が嘘なら、せめてこのノイズだけは本当だ。
この声だけは本当だ。
この痛みだけは本当だ。

ロックとは、近代的自我の最後の火柱だった。
俺は何者なんだ。
俺はここにいていいのか。
俺の孤独には意味があるのか。
誰か俺の声を聴いてくれ。

つまりロックは、自己を探す音楽だった。
ホントウのワタシがどこかにあると信じていたからこそ、叫ぶことができた。

映画もまた言った。

ホントウのワタシは、物語の時間の中で変化する。

主人公は旅に出る。
誰かと出会う。
何かを失う。
何かを選ぶ。
そしてラストシーンで、ワタシは少しだけ別のワタシになる。

映画とは、人生には起承転結があり、苦しみには意味があり、喪失には回収があり、ラストには何らかのカタルシスがあるという、二十世紀最大の美しい嘘だった。

だが、それでもそこにはまだ「ワタシ」がいた。
傷つき、選び、変化し、最後に何者かになるワタシがいた。

しかしアニメは、そこに別のことを言った。

ワタシは代替可能である。

これは一見、冷たい。
しかし同時に、ものすごく優しい。

アニメのキャラクターは、近代小説的な「唯一無二の内面」ではなく、髪色、声、属性、制服、口癖、トラウマ、能力、関係性、世界観によって成立する。
ツンデレ。
委員長。
魔法少女。
転生者。
ぼっち。
妹。
推し。
地雷。
天才だけど不器用。
世界からズレた少女。

つまりワタシは、発見されるものではなく、設定されるものになった。

ここで決定的な転換が起きる。

小説やロックや映画は、ワタシを探した。
アニメは、ワタシをキャラにした。

「ホントウのワタシ」などいなくてもいい。
ワタシは属性の組み合わせでいい。
ワタシは世界観の中の配置でいい。
ワタシは誰かに代替されてもいい。
むしろ代替可能だからこそ、誰でもそこに入れる。
キャラクターとは、内面を持つ人間ではなく、投影可能な空洞なのだ。

アニメは言った。

ワタシが空洞であることは、敗北ではない。
それはフィクションになるための入口である。

そしてゲームはさらに言った。

ワタシは世界の攻略者である。

もうワタシを探さなくていい。
ワタシの本質を問わなくていい。
この世界のルールを覚えろ。
マップを読め。
敵のパターンを見ろ。
スキルツリーを組め。
装備を整えろ。
経験値を稼げ。
バグを見つけろ。
最短ルートを探せ。
勝て。

ゲームにおいて、ワタシとは内面ではない。
ワタシとはプレイヤーである。
ワタシとは操作する主体である。

世界は悲劇ではない。
世界は攻略対象である。

これは現代社会そのものだった。
受験。就活。恋愛。SNS。YouTube。投資。炎上回避。アルゴリズム。生成AI。
すべてがゲームになった。

この世界は変えられないかもしれない。
だが、ルールを覚えれば少しは勝てる。
この世界に意味はないかもしれない。
だが、攻略法はあるかもしれない。

ロックは世界に叫んだ。
ゲームは世界を読んだ。

ロックが「ふざけんな」と言ったところで、ゲームは「仕様です」と言った。
そして私たちは、叫ぶことよりも攻略することに慣れていった。

そしてSNSは、さらに残酷なことを言った。

ワタシとは、評価された数字である。

フォロワー数。
再生数。
いいね数。
コメント数。
保存数。
インプレッション。
エンゲージメント。
案件単価。
月収。
登録者数。

SNSにおいて、ワタシは内面ではない。
キャラですらない。
ワタシはアカウントである。
ワタシはダッシュボードである。
ワタシは数字として返ってくる反応の総量である。

小説の時代、人は日記を書いて自分を確認した。
ロックの時代、人は叫んで自分を確認した。
アニメの時代、人はキャラになって自分を確認した。
ゲームの時代、人は攻略して自分を確認した。
SNSの時代、人はアナリティクスを見て自分を確認する。

これは恐ろしいが、あまりにも正確だ。

私は何者か。
その問いはもう内面には向かわない。

何人に見られたか。
何人にフォローされたか。
いくら稼げたか。
どれだけ拡散されたか。
どれだけアルゴリズムに愛されたか。

SNSは言った。

見られないワタシは、存在していない。
数字にならないワタシは、社会的に実在していない。

だからインフルエンサーは数字にこだわる。
それは浅ましいからではない。
数字こそが、インフルエンサー的自己の存在証明だからだ。

ロックは「俺は数字じゃない」と叫んだ。
SNSは「数字にならなければ、あなたはいない」と言った。

そして、そこに生成AIが現れる。生成AIは、これらすべてを相対化する。

小説が探したホントウのワタシ。
ロックが叫んだホントウのワタシ。
映画が物語の中で変化させたワタシ。
アニメがキャラとして設定したワタシ。
ゲームが攻略者にしたワタシ。
SNSが数字として測定したワタシ。

そのすべてに対して、生成AIはこう告げる。

そんなワタシなど、最初からなかったのではないか。

ここが、生成AIが本当に憎まれる理由である。

生成AIは、絵を描ける。
歌を作れる。
声を作れる。
文章を書ける。
映像を作れる。
キャラクターを作れる。
世界観を作れる。
感情らしきものを作れる。
青春らしきものを作れる。
孤独らしきものを作れる。
叫びらしきものを作れる。
祈りらしきものを作れる。

しかも、それはしばしば人間のそれに似ている。
いや、似ているどころか、ポップカルチャーの表層においては十分に機能してしまう。

ここで人間は恐怖する。

なぜなら、もしAIが「私らしい歌」を作れてしまうなら、
私の歌とは何だったのか。

もしAIが「私が描きたかった絵」を描けてしまうなら、
私の絵とは何だったのか。

もしAIが「私の痛みに似た言葉」を出力できてしまうなら、
私の痛みとは何だったのか。

もしAIが「青春っぽさ」「孤独っぽさ」「反抗っぽさ」「少女性っぽさ」「アニメっぽさ」「ロックっぽさ」「映画っぽさ」を生成できてしまうなら、
私たちがホントウだと思っていたものは、単なる形式の束だったのではないか。

生成AIは、ポップカルチャーの歴史全体に死刑宣告を下す。

小説が信じた内面は、文体のパターンではないのか。
ロックが信じた叫びは、音色と態度のパターンではないのか。
映画が信じた人生は、物語構造のパターンではないのか。
アニメが信じたキャラは、属性の組み合わせではないのか。
ゲームが信じた攻略者は、最適化された入力ではないのか。
SNSが信じた自己は、数値化された反応ではないのか。

生成AIは言う。

全部、生成可能です。

ここで生成AIは、ポップカルチャーの歴史全体に死刑宣告を下す。

これが許せないのだ。

仕事を奪われるからではない。
もちろんそれもある。
権利を侵害されるからではない。
もちろんそれもある。
だが、もっと深いところでは、人は怒っているのではなく、怯えている。

生成AIは、創作物を奪うのではない。
生成AIは、創作物の奥にあるはずだったホントウのワタシを奪う。

いや、もっと残酷に言えば、奪うのではない。
そんなものは最初からなかったのではないか、と暴いてしまう。

だから生成AIは憎まれる。

それは剽窃者だからではなく、
それは労働破壊者だからではなく、
それは人間の尊厳を踏みにじるからではなく、
それ以前に、生成AIはこう言ってしまうからだ。

あなたがワタシだと思っていたものは、形式です。
あなたが魂だと思っていたものは、反復可能なスタイルです。
あなたが才能だと思っていたものは、学習可能なパターンです。
あなたがオリジナリティだと思っていたものは、組み合わせです。
あなたが本物だと思っていたものは、出力です。

これは死刑宣告である。

近代的なワタシへの死刑宣告。
ロック的なワタシへの死刑宣告。
映画的なワタシへの死刑宣告。
アニメ的なワタシへの死刑宣告。
ゲーム的なワタシへの死刑宣告。
SNS的なワタシへの死刑宣告。

生成AIは、それまでのすべてのワタシとセカイの関係性を、一気に相対化してしまった。

だから人はAIを嫌う。

AIが下手だから嫌うのではない。
AIが上手いから嫌うのだ。

AIが偽物だから嫌うのではない。
偽物なのに機能してしまうから嫌うのだ。

AIに魂がないから嫌うのではない。
魂がなくても、魂っぽいものが生成できてしまうから嫌うのだ。

そこに、戦慄がある。

ロックは言った。
魂を聴け。

アニメは言った。
キャラを愛せ。

ゲームは言った。
世界を攻略せよ。

SNSは言った。
数字で存在せよ。

生成AIは言う。

魂も、キャラも、攻略も、数字も、全部プロンプトで再配置できます。

ここで、ワタシは崩壊する。

だが、ここで終わりではない。

むしろここからが本当の始まりなのだ。

ワタシという牢獄からの解放

なぜなら、生成AIが「ワタシなんてない」と告げるなら、私たちは初めて、ワタシという牢獄から解放される可能性もあるからだ。

ホントウのワタシを探さなくていい。
唯一無二の才能に呪われなくていい。
内面の深さを証明しなくていい。
魂の本物性を叫ばなくていい。
数字だけで自分を測らなくていい。

生成AIはワタシを殺す。
だが同時に、無数のワタシを生成する。

ここに、次のポップの核心がある。

生成AIとは、ホントウのワタシの終わりであり、
生成されるワタシたちの始まりである。

AIが生成しているのは「新しい自由」である

ポップカルチャーは常に「ワタシとは何者か?」を最大のテーマとしてきました。

新しいワタシを宣言したものがその時代で最もポップなものになった。

なぜならそれが「自由」というものの本質だからです

AIは評価経済とSNSでDEADENDまで追い詰められた全ての古い「ワタシの物語」を殺します

それは100年以上あらゆるポップコンテンツが追い求めた「自由の最終形」

を生成するためなのです。

僕は1000作品近くを生成し、すればするほど
快感が増していく事に驚いています。

それは3年ぐらい前まで「撮る」「作る」
で得てきた気持ちよさより圧倒的に強く
風通しがいい快感

冒頭に僕らがポップコンテンツを求める
作る理由は自由というものの本質に近づくためだと
書きました。

僕は生成AIが生成しているものは

自由

だと思います。

その感覚を強引にこれまでのポップ史の中に探すならば
以前この記事で書いたMDMAムーブメントに近いと思います。

もしキミが本当に自由を求めるなら今すぐ
ペンをカメラをスマホを捨てて生成しなきゃならない

生成AIが憎まれる理由は「自由」だからだし

思想としての生成AIの本質もまた
完全な「自由」についてのものなのだと確信しています。

という「思想」をもって使うと抜群に面白いツールがAIです

いわゆるテンプレで「AI=悪」というHATEをしてる方々はそこの認識が、実はAIに「圧倒」されちゃってるからAIは「ツール」に過ぎないという認識が弱いのだと思います。使い倒せばわかることなんですが生成する側のビジョンの強度によって生成されるものの強度ももちろん変わるわけであってほんとーーに単純に最新のツールなんです

2026年6月30日

Posted by nolongerhuman