POPOPOのサ終とは何か? それは「平成おじさん」への死刑宣告である・・・・

その他

POPOPOが終わる。

このニュースを見た瞬間、僕は思った。

ああ、ついに来たのだ、と。

ひとつのアプリが終わったのではない。

ひとつのサービスが失敗したのでもない。

これは、もっと巨大で、もっと残酷で、もっと歴史的な出来事である。

平成が死んだのだ。

平成という“勝ち逃げしたおじさんたちの残響”

いや、平成という元号はとっくに終わっている。

しかし、平成という精神、平成という態度、平成という“勝ち逃げしたおじさんたちの残響”は、令和になってもなお日本社会の中心に居座り続けていた。

そしてPOPOPOのあまりにも無残なサービス終了は、その平成の亡霊に対して、令和が初めてはっきりと突きつけた公開処刑だったのである。

「あんたたち、結局、何か新しいものを生み出しました?」

この一言である。

この冷笑。

この侮蔑。

この凍りついた視線。

これこそが、昨今の「おじさん叩き」のコアにある感情なのだ。

平成おじさんアベンジャーズの敗北

POPOPOには、名前だけ見ればとんでもない人たちが関わっていた。

川上量生。

GACKT。

西村博之。

庵野秀明。

そして代表取締役社長の矢倉純之介。

まさに平成サブカル・ネット文化・自己演出・論破芸・オタク映像文化のオールスターである。

平成おじさんアベンジャーズ。

平成文化圏の七福神。

日本インターネット老人会の最終決戦兵器。

しかし、その結果どうなったか。

半年で終わる。

爆発的に流行るでもなく、社会現象になるでもなく、若者が飛びつくでもなく、文化になるでもなく、ただ静かに、しかしあまりにも象徴的に、終わる。

この終わり方が重要なのだ。

炎上して終わったのではない。

社会を揺るがして終わったのではない。

賛否両論の巨大な渦を作って終わったのではない。

誰にも必要とされないまま終わった。

これが一番きつい。

これは死よりもきつい。

無視である。

文化における最大の敗北は、批判されることではない。

嫌われることでもない。

笑われることでもない。

関心を持たれないことである。

POPOPOは、まさにその最も冷たい死に方をした。

「名前がある」ことは、もう何の武器にもならない

平成において、名前は武器だった。

有名人がやる。

大物が関わる。

あの人が取締役にいる。

あのクリエイターが参加している。

それだけで人は振り向いた。

メディアは記事にした。

ユーザーは試した。

投資家は金を出した。

企業は頭を下げた。

しかし令和は違う。

令和のユーザーは、名前に対して冷酷である。

「で?」

これで終わる。

川上量生がいる。

で?

ひろゆきがいる。

で?

GACKTがいる。

で?

庵野秀明がいる。

で?

問題はそこではない。

それで、これは私の生活をどう変えるんですか?

それで、これは私の孤独にどう触れるんですか?

それで、これは私の退屈をどう破壊するんですか?

それで、これは私が明日も生きていく理由になるんですか?

令和のプロダクトは、この問いから逃げられない。

そしてPOPOPOは、この問いに答えられなかった。

川上量生氏は、令和になって何を「した」のか

川上量生氏は、間違いなく平成の重要人物である。

ニコニコ動画はすごかった。

あれは本当にすごかった。

動画の上にコメントが流れる。

視聴者が映像を消費するだけでなく、映像に寄生し、映像を汚し、映像を拡張し、映像を共同体に変えてしまう。

あれは平成の日本が生んだ、ほとんど民俗芸能に近いインターネット文化だった。

だが、だからこそ問われる。

川上量生は令和になって何をしたのか。

ニコニコ動画の次に、何を作ったのか。

平成の勝利を延命することではなく、令和の欲望を掘り当てることに成功したのか。

POPOPOには、かつてのニコニコ動画にあった「わけのわからない熱」がなかった。

ニコニコには、素人の狂気があった。

POPOPOには、有名人の企画書があった。

ニコニコには、ユーザーが勝手に壊せる余白があった。

POPOPOには、経営陣が想定した使い方があった。

ニコニコには、文化になる前の泥があった。

POPOPOには、最初から文化っぽく見せようとするパッケージがあった。

これが決定的に違う。

文化は、偉い人が上から「はい、これが次の文化です」と差し出して生まれるものではない。

文化は、誰にも許可されていない人間たちが、勝手に、汚く、間違って、切実に、使い始めるところから生まれる。

POPOPOには、その切実さがなかった。

ひろゆき氏は、令和になって何を「した」のか

西村博之氏もまた、平成インターネットの巨大な象徴である。

2ちゃんねるという存在が日本社会に与えた影響は、良くも悪くも計り知れない。

だが令和のひろゆき氏は何を作ったのか。

新しい共同体か。

新しい表現形式か。

新しい技術か。

新しい思想か。

違う。

彼が令和で肥大化させたのは、「論破」という芸である。

口喧嘩の形式である。

責任を取らずに相手の言葉尻を撃つ技術である。

「それってあなたの感想ですよね」

このフレーズが象徴しているのは、知性ではない。

責任の回避である。

何かを作る人間は、必ず感想を持つ。

何かを始める人間は、必ず仮説を持つ。

何かに賭ける人間は、必ず間違える。

しかし論破芸は、それを許さない。

作る側ではなく、作る人を裁く側に回る。

失敗する側ではなく、失敗を指摘する側に回る。

泥をかぶる側ではなく、泥の外側から「それ、汚いですよ」と言う側に回る。

これが平成おじさんの最大の病である。

彼らは安全圏からしか発言しない。

そして、その安全圏を「知性」と呼ぶ。

違う。

それは知性ではない。

ただの高性能な逃げ足である。

GACKT氏は、令和になって何を「した」のか

GACKT氏は、自己演出の天才である。

それは間違いない。

平成におけるGACKTとは、単なるミュージシャンではなかった。

美学であり、身体であり、金であり、謎であり、貴族であり、格付けであり、自分自身を巨大なフィクションとして成立させるプロジェクトだった。

しかし、自己演出が完成しすぎた人間は、やがて新しい挑戦ができなくなる。

なぜなら、新しい挑戦とは、一度ダサくなることだからだ。

初心者になることだからだ。

失敗することだからだ。

「え、GACKTなのにこれ?」と言われる危険を引き受けることだからだ。

完成された人間は、その完成を守るために、挑戦者ではなく審査員になる。

一流を知る人。

本物を見抜く人。

若者に苦言を呈する人。

しかし令和が求めているのは、本物を見抜く人ではない。

まだ誰も本物だと思っていないものを、本物にしてしまう人である。

そこにGACKT氏は立っていたのか。

POPOPOは、本物を見抜く人たちによるサービスではあったかもしれない。

しかし、本物を生んだサービスではなかった。

庵野秀明氏は、もう新しい呪いを作れないのか

そして庵野秀明氏である。

ここが一番つらい。

なぜなら庵野氏は、本当に怪物を作った人だからだ。

『新世紀エヴァンゲリオン』は、平成そのものだった。

バブル崩壊後の日本。

父親不在。

自己肯定感の欠落。

他者への恐怖。

コミュニケーション不全。

終末願望。

セカイ系。

サブカル青年の自意識。

全部入っていた。

あれは作品ではなく、平成日本人の精神病棟だった。

だからこそ庵野秀明は偉大だった。

しかし令和の庵野氏はどうか。

ゴジラ。

ウルトラマン。

仮面ライダー。

ヤマト。

もちろん、それらの再解釈は創作である。

リミックスも批評も編集も立派な表現である。

しかし問いたい。

庵野秀明は、もう一度、誰も見たことのない新しい呪いを作る気があるのか。

過去の怪獣を美しく磨くことはできる。

昭和のヒーローを現代に再配置することもできる。

日本特撮史への愛を作品化することもできる。

しかし、それは未来を作ることなのか。

それとも、過去の聖遺物を修復しているだけなのか。

庵野氏の問題は、才能が枯れたことではない。

もっと深刻だ。

自分自身の物語をもう一度始めることを、どこかでやめてしまったように見えることである。

自分の中から怪物を産むのではなく、子供の頃に見た怪物を再演する。

これは美しい。

だが同時に、あまりにも悲しい。

POPOPOはなぜここまで痛々しいのか

POPOPOの失敗が痛々しいのは、単に流行らなかったからではない。

そこに「自分たちならまだ時代を動かせるはずだ」という平成おじさんたちの無意識が透けて見えるからだ。

俺たちが集まれば何か起きる。

俺たちの名前があれば人が来る。

俺たちが面白いと思えば世間も面白がる。

俺たちが未来っぽいものを作れば、それは未来になる。

しかし令和は、そこまで甘くなかった。

令和のユーザーは、権威に冷たい。

令和の若者は、過去の実績に冷たい。

令和の文化は、会議室に冷たい。

そして何より、令和は「口だけの人間」に冷たい。

これが今のおじさん叩きの正体である。

おじさんが叩かれているのではない。

責任を取らないまま社会の中核に居座る人間が叩かれているのだ。

平成世代は、なぜ責任を回避するのか

平成とは、失われた時代だった。

バブルの後始末を押しつけられた時代。

政治が停滞し、経済が停滞し、希望が停滞し、若者文化だけが異様に肥大化した時代。

この時代を現役で生きたおじさんたちは、「大きな物語が壊れた後」の世界に適応した。

だから彼らは、大きな物語を信じない。

国家も信じない。

会社も信じない。

共同体も信じない。

未来も信じない。

その代わりに身につけたのが、シニシズムである。

冷笑である。

批評である。

距離を取る技術である。

本気にならない技術である。

失敗しない位置に立つ技術である。

これは平成を生き延びるためには有効だった。

しかし令和では、それがただの老害に見える。

なぜなら令和は、もう「何も信じない俺かっこいい」の時代ではないからだ。

気候変動がある。

少子化がある。

戦争がある。

AIがある。

地方崩壊がある。

孤独がある。

貧困がある。

メンタルヘルスがある。

若者たちは、冷笑している暇がない。

何かを作らなければならない。

何かを始めなければならない。

何かを信じたふりでもしなければ、生きていけない。

そこへ平成おじさんがやってきて、

「それ、意味あるんですか?」

「それ、失敗しますよ」

「それ、昔からありますよ」

「それ、あなたの感想ですよね」

と言う。

うるさいのである。

本当にうるさい。

令和は「解説者」を必要としていない
平成おじさんの最大の勘違いは、自分たちがまだ解説者として必要とされていると思っていることだ。

昔はそれでよかった。

テレビに出る文化人。

雑誌で語る評論家。

ネット番組で若者を斬るおじさん。

業界の裏側を知っている人。

しかし、令和の若者は、解説者を必要としていない。

彼らが欲しいのは、伴走者である。

共犯者である。

一緒に失敗してくれる人である。

一緒に泥に入ってくれる人である。

自分の過去の栄光を語る人ではなく、今この瞬間に、わけのわからないものを一緒に作ってくれる人である。

POPOPOには、それがなかった。

あったのは、平成の成功者たちによる「未来っぽいもの」の提示だった。

だから誰も乗らなかった。

高市的昭和の台頭と、平成の空洞化

ここでさらに皮肉なのは、令和の政治空間において、極めて昭和的なものが再び力を持ち始めていることだ。

高市氏的なもの。

国家。

伝統。

強さ。

家族。

秩序。

保守。

昭和的な物語が、再び前景化している。

これは単純な復古ではない。

むしろ平成があまりにも空洞だったことの反動である。

平成は、昭和を笑った。

昭和的な熱血を笑い、会社人間を笑い、家族主義を笑い、国家を笑い、根性論を笑った。

しかし、その後に何を作ったのか。

冷笑。

サブカル。

ネットミーム。

自己責任。

論破。

脱構築。

そして、何も信じないことを知性だと勘違いしたおじさんたち。

その空洞に、昭和が戻ってくる。

「だったら、まだ昭和の方が物語があったじゃないか」

という形で戻ってくる。

つまり高市的昭和の台頭は、平成への勝利宣言ではない。

平成への死刑宣告なのだ。

平成は昭和を超えられなかった。

平成は令和を産めなかった。

平成はただ、昭和を冷笑しながら、自分自身は何も作れなかった。

その結果、昭和の亡霊が令和に帰ってきた。

POPOPOは墓標である

だからPOPOPOは、ただのサ終ではない。

これは墓標である。

平成おじさんたちの墓標である。

「俺たちはまだやれる」

「俺たちなら時代を動かせる」

「俺たちの名前にはまだ力がある」

そう信じていた人々に対して、令和が無言で立てた墓標である。

そこにはこう書かれている。

ここに、過去の成功を未来と勘違いした者たち眠る。

あまりにも残酷だ。

しかし、あまりにも正確だ。

POPOPOの失敗は、ひとつの企業の失敗ではない。

ひとつの世代の失敗である。

ひとつの文化圏の失敗である。

ひとつの態度の失敗である。

つまり、

「口は出す」

「責任は取らない」

「過去は語る」

「未来は作らない」

「若者は批評する」

「自分は批評されない場所に立つ」

という平成おじさん的態度の敗北である。

では、平成おじさんはどうすればいいのか

答えは簡単である。

黙れ、ではない。

消えろ、でもない。

若者に全部譲れ、でもない。

そうではない。

もう一度、初心者になれ。

これだけである。

もう一度、笑われる場所に立て。

もう一度、失敗する場所に立て。

もう一度、誰にも理解されないものを作れ。

もう一度、過去の名前が通用しない場所に行け。

もう一度、「それ何の意味があるんですか?」と自分が言われる側に回れ。

もう一度、泥に入れ。

もう一度、バカにされろ。

もう一度、無視されろ。

もう一度、ゼロから作れ。

それができる人間だけが、令和に生き残る。

年齢は関係ない。

おじさんでも未来は作れる。

しかし、平成の勝ち逃げポジションに座ったまま、令和を解説しているだけの人間に、未来は作れない。

POPOPOの死が教えてくれること

POPOPOの死は、僕たちにひとつの真理を教えてくれる。

名前では文化は作れない。

権威では熱狂は作れない。

論破では共同体は作れない。

再解釈だけでは未来は作れない。

自己演出だけでは若者は動かない。

そして、過去の成功者を集めても、新しい時代は生まれない。

新しい時代を作るのは、いつだって、まだ誰にも認められていない人たちだ。

まだ名前のない人たちだ。

まだ笑われている人たちだ。

まだ失敗している人たちだ。

まだ「何それ?」と言われている人たちだ。

だからPOPOPOの終わりは、悲報ではない。

これは朗報でもある。

平成の権威が未来を作るという幻想が、ひとつ終わったのだから。

これから本当に必要なのは、有名なおじさんたちが作った未来っぽいサービスではない。

名もない誰かが、切実さに押し出されて作ってしまった、まだ名前のない文化である。

POPOPOは死んだ。

平成も死んだ。

しかし、だからこそ、令和は始まる。

口だけの時代は終わった。

解説者の時代は終わった。

論破の時代は終わった。

再解釈の時代は終わった。

名前で人が集まる時代は終わった。

これから問われるのは、ただひとつ。

で、あなたは何を作ったんですか?

この問いから、もう誰も逃げられない。

Posted by nolongerhuman