2026年流行語大賞最有力候補「他責」を考える。それは自己責任論のステルス化である

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今年2026年になってやたらと聞くなーーーーーと思っている一番のワードって

他責

じゃないですか???

それは何故か?ってことを考えていたらこのコトバには濃密な「二重の意味」を今という時代に対して持っているからだと思いました

「自己責任」から「他責」へ

平成期の自己責任論は、ざっくり言えば、

失業した
貧困になった
病気になった
夢に失敗した
不安定な雇用から抜け出せない

――それは社会構造ではなく、あなた自身の選択と努力の問題です。

という論理だった。

日本で現在につながる自己責任論が強くなったのは、1980年代以降の新自由主義的な社会改革と結びついている、という指摘がある。
国家や企業が担っていた保障を縮小する一方で、リスクを個人に引き受けさせるための倫理として「自己責任」が使われた。

ところが「自己責任」という言葉は、あまりに露骨になりすぎた。

生活に困っている人に「自己責任」と言えば冷酷に聞こえるし、社会構造を無視していると批判される。そこで登場したのが、より心理学的・中立的・成長志向に見える言葉、

他責思考をやめよう
自責で考えよう

という「言い換え」

つまり、

「お前の自己責任だ」

とは言わず、

「あなた、他責になっていませんか?」

と言う。

意味はかなり近いのに、後者はまるで本人の人格や思考習慣を改善するための親切な助言に見える。

「他責」は自己責任論のステルス化である

ここが重要で、「他責」という言葉は単に責任の所在を説明しているのではない。

しばしば、

外部要因を指摘すること自体が、未熟さである
組織や制度の問題を語ることが、逃げである
被害や不公平を訴えることが、成長しない人間の態度である

という含意を持って使われる。

たとえば会社で、明らかに人員不足、無茶な納期、上司の判断ミスがあったとしても、それを口にした瞬間、

「環境のせいにするな」
「他責思考では成長できない」
「自分に何ができたかを考えろ」

と返される。

平成は「結果を自分の責任にする時代」だった

平成の自己責任論は、主に結果を個人化した。

成功できないのは努力不足
正社員になれないのは能力不足
貧困は選択の結果
結婚できないのは魅力不足

これに対して令和の「他責」言説は、さらに一歩進んで、原因を社会に求める認識そのものを個人の欠陥にする。

社会が悪いと思うのは他責
会社が悪いと思うのは他責
親や環境の影響を語るのは他責
運や格差を持ち出すのは他責

つまり、

平成の自己責任論は「失敗はあなたの責任」と言い、
令和の他責批判は「失敗の原因を考えるあなたの思考法が間違っている」と言う。

より深く内面に入り込んでいる。

「他責」が頻繁に使われる場所も象徴的

「他責」は、とくに企業の人材育成、自己啓発、起業家界隈、SNS上の成功哲学で使われやすい。

これは偶然ではなく、組織にとって非常に便利な言葉だから。

経営判断の失敗を指摘する社員を「他責」と呼べば、組織の問題を本人のマインドセットの問題に変換できる。

低賃金 → 成長意欲の問題
長時間労働 → タイムマネジメントの問題
ハラスメント → 受け取り方の問題
人員不足 → 主体性の問題
評価制度の不透明さ → 他責思考

こうして、上から下へ押しつけられた責任が、最終的には「自分ごと化」「当事者意識」「オーナーシップ」という明るい言葉で回収される。

「他責」という言葉は、平成の自己責任論が批判されて使いにくくなったあと、“成長”“主体性”“マインドセット”の衣装を着て復活した言葉なのではないか。

自己責任論が社会問題を個人の失敗に変換したのに対し、他責批判はさらに、社会問題を指摘する言葉そのものを個人の人格的欠陥に変換する。

言ってしまえば、

自己責任論2.0
あるいは自己責任論の心理学化

これが「他責」というフレーズのもつひとつの一面です。

そしてこの「他責」が面白いのはもう一つ別の意味をも持つからです。

評価経済社会における「他責能力の高度化」というスキル

「他責」という言葉の流行には二つの階級的な使われ方があると見えてくる。

一つは前に話した、

弱者・労働者・失敗者に対して
「他責になるな。自分を変えろ」

という自己責任論の高度化。

そしてもう一つが今言った、

勝者・インフルエンサー・経営者が自分の失敗や加害を巧妙に外部へ配分する

という他責能力の高度化なんだよね。

つまり現代社会では、下の人間には「他責するな」と要求しながら、上の人間ほど洗練された他責を行っている。

SNS型評価経済社会と「責任を負わない物語」

インフルエンサーが炎上したとき、単純に謝らないというだけではない。

彼らはしばしば、

発言の一部だけ切り取られた
文脈を読まない人に誤解された
アンチが意図的に炎上させた
スタッフとの意思疎通に問題があった
自分にも至らない点はあったが、社会全体の問題でもある
今回の経験を通じて学び、前に進みたい

という物語を作る。

形式上は反省しているように見える。でもよく見ると、責任の中心が本人から、

切り抜き
アンチ
スタッフ
SNSの構造
時代の空気
コミュニケーション不足

へと分散されている。

しかも「自分にも至らない点があった」という一文を入れることで、むしろ誠実に見える。

これは責任を完全否定するのではなく、責任を霧状にして拡散させる技術なんだと思う。

評価社会では「正しさ」より「物語の主導権」が重要になる

評価社会では、誰が本当に悪かったかよりも、

誰が最初に状況を説明したか
誰の説明が感情的に納得しやすいか
誰が被害者のポジションを取れたか
誰がフォロワーを動員できたか

のほうが重要になる。

つまり責任は客観的に確定されるものではなく、ナラティブを握った側によって編集されるものになる。

人気インフルエンサーは、この編集能力が圧倒的に高い。

自分が加害した場面ですら、

実は自分も追い詰められていた
完璧を求められる苦しさがあった
有名人だから不当に攻撃された
正直に生きた結果、誤解された

という形で、自分を「被害者でもある主人公」に作り替える。

これは嘘をつくというより、責任を負う主体から、困難を乗り越える主人公へ自己演出を切り替える能力なんだよね。

なぜそんな「他責者」が人気になるのか

ここがいちばん重要で、彼らが人気なのは、フォロワーが無責任だからではない。

むしろ逆。

多くの普通の人は、日常生活で過剰に責任を背負わされている。

会社では、

主体性を持て
自分ごと化しろ
成果が出ない原因を自分に探せ
愚痴を言うな
他責になるな

家庭でも学校でもSNSでも、

選んだのは自分
努力しなかった自分が悪い
幸せになれないのは考え方の問題

と言われ続ける。

そんな社会で、何が起きるか。

責任を引き受けず、批判を跳ね返し、堂々と生きている人が、自由の象徴に見えてくる。

つまりインフルエンサーの「他責性」は、普通の人が自分では実行できない願望の代理なんだと思う。

私も謝らずに済みたい
私も自分を責めずに生きたい
私も批判した側を悪者にしたい
私も世界のせいにして、それでも愛されたい

その欲望を人気者が代わりに演じている。

責任を背負わなくても自己肯定できる生き方

インフルエンサーが売っているのは、美貌、成功法則、ライフスタイルだけではない。

もっと根源的には、

責任を背負わなくても自己肯定できる生き方

を売っているんじゃないか。

一般人は仕事でミスをすれば謝罪し、評価が下がり、収入にも影響する。

でも人気者は炎上しても、

私らしく生きる
嫌われる勇気
自分を守ることも大切
批判する人から距離を置こう

と意味を変換できる。

本来なら責任問題だったものを、自己肯定やメンタルヘルスや自由の問題に置き換えられる。

そしてフォロワーは、その姿に「強さ」を感じる。

でもその強さの正体は、場合によっては、単なる鈍感さではなく、責任を他者へ移し替える高度な

これまた人気の

「言語化能力」

にある

「謝らない人」がカリスマになる逆説

かつてカリスマとは、思想や才能や実績を持つ人だった。

でも評価社会のカリスマは、

どんな状況でも自分の価値を下げない人
何をしても敗者の位置に落ちない人
批判されても自己像を守り抜く人

になっている。

謝罪とは本来、他者との関係を修復する行為だけど、評価社会では「自分の市場価値を下げる行為」にもなる。

だから勝者は、全面的には謝らない。

謝罪するとしても、

不快にさせたなら申し訳ない
誤解を招いたことを反省している
ご心配をおかけした

となる。

「自分が何をしたか」ではなく、「相手がどう感じたか」「結果として何が起きたか」を謝る。

これは謝罪文の形をした責任回避であり、まさに他責化の文法だと思う。

自己責任社会と他責者人気は矛盾しない

むしろ完全にセットなのである

社会全体が自己責任化すればするほど、人々は責任から逃れている人物に憧れる。

全員が「自分を律せよ」「努力せよ」「反省せよ」と言われているからこそ、

俺は悪くない
嫌なら見るな
自分らしく生きる
批判は嫉妬だ

と言える人間が、異様に輝いて見える。

彼らは自己責任社会の反逆者に見える。

しかし実際には、自己責任社会を破壊しているのではなく、自分に課される責任だけを、より弱い誰かへ流している場合も多い。

だから革命家ではなく、自己責任社会における特権階級なんだと思う。

自分も一度でいいから、あれくらい堂々と責任から逃げてみたい。
自分も一度でいいから、何もかも社会のせいにして、それでも自分を好きでいたい。

現代の勝者は、決して責任を負わない人ではない。

責任を負っていないことを悟らせないまま、責任を負わずに済む人なのである。

ここが重要だ。

では、なぜそんな人が人気になるのか。

なぜ謝らない人がカリスマになるのか。

なぜ自分を正当化し続ける人に、多くの人が魅了されるのか。

それは、普通の人々が毎日毎日毎日、あまりにも多くの責任を背負わされているからではないか。

仕事で成果が出ない。

自分の努力不足。

会社が人員を減らした。

でも自分の工夫不足。

上司が無能。

でも自分の伝え方不足。

給料が安い。

でも自分の市場価値不足。

体調を崩した。

でも自己管理不足。

疲れた。

でもタイムマネジメント不足。

病んだ。

でもレジリエンス不足。

友人がいない。

でもコミュニケーション能力不足。

恋人ができない。

でも自分磨き不足。

人生が苦しい。

でもマインドセット不足。

もう全部、自分。

何でも自分。

朝から晩まで自分。

社会全体が巨大な反省会になっている。

日本人全員が、自分の人生について毎日始末書を書かされている。

なぜ売上が上がらなかったのか。

なぜ幸せになれなかったのか。

なぜもっと努力できなかったのか。

なぜ今日も最高の自分になれなかったのか。

うるせーーーーーーーー!!!!

そう叫びたくなる。

でも普通の人は叫べない。

会社がある。
家族がある。
人間関係がある。
生活がある。
評価がある。
住宅ローンがある。
明日も出勤しなければならない。

だから謝る。

頭を下げる。

自分を責める。

反省する。

改善策を出す。

もう一度チャンスをくださいと言う。

そんな社会の中で、

「俺は悪くない」

「嫌なら見るな」

「アンチは嫉妬している」

「自分らしく生きます」

「理解できない人は置いていきます」

「他人の評価は気にしません」

と堂々と言える人間が登場する。

するとどう見えるか。

自由に見えるのである。

めちゃくちゃ自由に見える。

強く見える。

自分を持っているように見える。

普通の人が会社や家庭や学校では絶対にできないことを、彼らは毎日やっている。

謝らない。
折れない。
反省しない。
自己評価を下げない。
何が起きても主人公の座から降りない。

炎上しても主人公。

批判されても主人公。

加害しても主人公。

謝罪文を出しても主人公。

活動休止しても主人公。

復帰しても主人公。

何があっても物語の中心は自分。

これが評価社会における最強の身体である。

責任から自由な身体。

何をしても敗者にならない身体。

どれだけ批判されても、自分の価値だけは下げない身体。

人々はそこに憧れる。

なぜなら自分たちは、ほんの小さなミスひとつで自己評価を下げ、謝罪し、反省し、縮こまり、自分を嫌いになっているからだ。

本当はみんな思っている。

私も一度くらい謝らずに済ませたい。

私も自分を責めずに生きたい。

私も環境のせいにしたい。

私も会社が悪いと言いたい。

私も親が悪いと言いたい。

私も社会が悪いと言いたい。

それでも愛されたい。

それでも価値があると言われたい。

それでもフォロワーを失いたくない。

インフルエンサーは、その願望を代理で実演してくれる。

彼らが売っているのは、化粧品ではない。

情報商材ではない。

ライフスタイルではない。

自由そのものでもない。

責任を引き受けなくても、自分を肯定し続けられるという幻想である。

「責任から逃げても、自分を好きでいていい」

という、最強の商品である。

ただし、ここにはとんでもなく大きな非対称性がある。

弱者が構造の問題を語る。

すると、

他責だ。
甘えだ。
被害者意識だ。
成長しない人だ。
人のせいにするな。

と言われる。

一方で、勝者が自分の責任を外部へ移す。

すると、

自己肯定感が高い。
メンタルが強い。
自分軸がある。
嫌われる勇気がある。
堂々としている。
リーダーシップがある。

と言われる。

下の人間が社会を批判すると「他責」。

上の人間が部下へ責任を押しつけると「権限移譲」。

下の人間が環境を語ると「言い訳」。

上の人間が失敗を時代のせいにすると「大局観」。

下の人間が傷ついたと言うと「被害者意識」。

上の人間が批判されたと言うと「誹謗中傷との戦い」。

言葉はいつも権力側に都合よく翻訳される。

つまり現代のインフルエンサーとは、単に人気がある人ではない。

自分の責任逃れを、

自由。
勇気。
成長。
自己肯定。
被害。
挑戦。
前進。

というキラキラした言葉へ翻訳できる人である。

そして私たちは、その翻訳に魅了される。

なぜなら、自分たちも本当は、責任を負い続けることに疲れ切っているからだ。

だから他責者を嫌いながら、同時に憧れる。

あいつは絶対に謝らない。

あいつはいつも人のせいにする。

あいつは何でも自分に都合よく解釈する。

あいつは被害者ぶる。

そう言いながら、心の奥では思っている。

自分も一度でいいから、あれくらい堂々と責任から逃げてみたい。

自分も一度でいいから、何もかも社会のせいにして、それでも自分を好きでいたい。

自己責任という巨大な重力が、社会全体を地面へ押しつけている。

だからこそ、その重力を受けていないように見える人間がスターになる。

浮いている人が人気になる。

落ちない人が人気になる。

謝らない人が人気になる。

責任を引き受けない人が、自由の象徴になる。

そう考えると、現代のカリスマとは、もっとも責任感のある人物ではない。
もっとも高度に責任を消失させられる人物なのではないか。

責任を負わない。

しかし無責任には見えない。

逃げる。

しかし挑戦しているように見える。

謝らない。

しかし自分を大切にしているように見える。

他人のせいにする。

しかし自分軸で生きているように見える。

この魔法。

この編集。

この言語化能力。

これこそが、評価社会における最大の才能なのかもしれない。

そして恐ろしいのは、庶民に向かって「他責になるな」と説教する社会ほど、その頂点には、もっとも巧妙な他責者たちが君臨しているということである。

Posted by nolongerhuman