AI魔女裁判がハロプロ界隈でも! Juice=Juice『BLOODY BULLET』を日本一のAI動画生成者が擁護します
最初にお断りしておくとこの「BLOODY BULLET」MVが途轍もなく優れているわけではなく
はっきり言ってウチのDREAM BABY DREAMのMVの方が数千倍優れているわけですが・・・・
いやーーーーー!!!それでもあまりにもあまりにもこのアカウントが日本で唯一ずーーーーーーーーーーーーーーっと戦い続けている
生成AI魔女裁判
が遂にハロプロ界隈でも勃発!!!
そして相も変わらずSNSで貶しまくってるウィッチハンターな「正義中毒」の方々の言説があまりにもあまりにも・・・・
なので書いています!
目次
Juice=Juice『BLOODY BULLET』のMVが、生成AIを使ったという一点をめぐって、ほとんど「AI魔女裁判」と化している。
最初に言っておく。
DREAM BABY DREAMの制作基準から見れば、今回の生成AIカットは正直かなり拙い。
顔や身体の一貫性、質感の統一、カット間の世界観、実写素材との接続、映像としての必然性。どれを取っても、現在の生成映像で到達可能な水準からは遠い。
生成AIを使えば、それだけで新しくなるわけではない。
プロンプトを入力した瞬間に未来が出力されるわけでもない。
生成AIにも演出が必要だ。
撮影と同じように、何を生成し、何を捨て、どのカットをどこに置き、どこで音楽と同期させ、どんな感情を観客に残すのかという「監督」が必要だ。
だから、今回のAIパートを無条件に擁護するつもりはない。
しかし、それ以上に奇妙なのは、MV全体の映像クオリティを批評せず、ただ「生成AIを使った」という一点だけに人々の怒りが集中していることだ。
率直に言えば、今回のMVで生成AIカット以上に深刻なのは、実写部分が旧来のハロプロクオリティからほとんど脱出できていないことだ。
生成AIカットの不自然さは猛烈に糾弾するのに、それ以外のダンスシーンの照明、背景、美術、画角、編集、身体の見せ方が、長年見慣れた「いつものハロプロMV」の水準にとどまっていることは、なぜ問題にならないのか。
率直に言えば、今回のMVで生成AIカット以上に深刻なのは、実写部分が旧来のハロプロクオリティからほとんど脱出できていないことだ。
生成映像の指が一本多いことには気づくのに、照明に思想がないことには気づかない。
顔の変形には怒るのに、カメラが音楽をまったく解釈していないことには怒らない。
AIの質感には敏感なのに、人物を並べて踊らせ、バストショットを挟み、歌割りに合わせて顔を切り替えるだけの映像文法が、何十年ほとんど更新されていないことには沈黙する。
これは映像批評ではない。
単なる技術検閲だ。
僕はかつて、ハロプロのMVやライブ映像のオープニングを実際に制作したことがある。
その現場で驚いたのは、30年近くハロプロの第一線にいるプロデューサーでさえ、ことMVや映像演出については、ほとんど体系的な知識を持っていなかったことだ。
もちろん、それは個人への攻撃ではない。
ハロプロという巨大な音楽工場において、映像が長い間「楽曲とメンバーを紹介する付属物」として扱われてきた、構造そのものの問題だ。
確かに『LOVEマシーン』のMVは素晴らしかった。
大人数の女性アイドルを、色彩、衣装、キャラクター、セット、グループショット、個人ショットによって高速に編集し、混沌そのものをポップとして成立させた。
その後の日本の大人数アイドルMVに巨大な影響を与えた、歴史的なフォーマットだったと思う。
しかし、ハロプロの映像に対する意識は、極端に言えば、そこでほぼ止まってしまった。
音楽はファンク、ソウル、ディスコ、テクノ、ユーロビート、歌謡曲、ロック、EDM、ヒップホップと、過去のポップミュージックを貪欲に引用してきた。
メンバーの歌唱力やダンスは更新され続けた。
しかし、MVの思想だけが昭和的なテレビ歌番組の延長線上に置き去りにされた。
SNS戦略も含めよーーーーやくアップデートされはじめたハロプロ
そんなハロプロが、2026年になってJuice=Juiceで本格的なSNS戦略を敢行し、さらに生成AIによる映像表現へ踏み込んだ。
ただこの記事あまりにもあまりにもあの「斎藤知事&メルチュ感」が強くてクラクラしますが・・・・
これは本来、画期的な事件である。
完成度とは別の話だ。
うまくできたか、失敗したか以前に、長く映像表現の更新に消極的だった組織が、ようやく未知の技術に手を伸ばした。
まず、その一歩が持つ意味を考えるべきではないか。
ところが、いわゆるハロヲタ界隈から聞こえてくるのは、
「AIを使うな」
「人間の仕事を奪うな」
「学習は盗みだ」
「環境に悪い」
「二度とハロプロで使わせるな」
という、作品批評ではなく、制作手段に対する異端審問ばかりだ。
中にはコメント欄を批判で埋め、今後生成AIを使わせないよう圧力をかけようと呼びかける人までいる。
これは批評ではない。
新しい表現が生まれる前に、その可能性そのものを集団で焼き払おうとするウィッチハンティングである。
何度でも言うが、ポップミュージックの歴史は、常に新しい技術との闘いだった。
シンセサイザーは「楽器を弾いていない偽物」と言われた。
ドラムマシンは「人間のグルーヴを破壊する」と言われた。
ヒップホップのサンプリングは「他人の音楽を盗んでいるだけ」と言われた。
打ち込みで作られたダンスミュージックは「生演奏ではないから音楽ではない」と言われた。
Auto-Tuneは「歌えない人間のインチキ」と言われた。
DTMは「誰でも作れる安物」と言われた。
そして現在、生成AIは「人間が作っていない」と言われている。
だが実際には、サンプラーも、シンセサイザーも、DAWも、カメラも、編集ソフトも、生成AIも、それ自体では何も作らない。
すべては道具だ。
どの素材を選ぶのか。
何を入力するのか。
何百回の失敗から何を残すのか。
どこを修正するのか。
何と何を接続するのか。
最終的に何を作品として差し出すのか。
そこには必ず人間の判断が介在する。
生成AIに問題がないと言っているのではない。
著作権、学習データ、労働、エネルギー、水資源、報酬設計について議論する必要はある。
だが、それは生成AIを全面的に禁止すれば解決するほど単純な問題ではない。
AIは映像や音楽を作るだけでなく、高齢者、障害者、病気を抱える人、言語や身体能力の壁によって創作やコミュニケーションから排除されてきた人々の可能性を広げている。
環境問題を語るなら、そうした社会的利益とのトレードオフまで含めて語らなければならない。
正義の言葉だけを掲げ、新しい道具を使った人間を集団で断罪することは、倫理ではない。
自分が正しい側にいるという快楽への耽溺だ。
そして何より、ハロプロとは何だったのか。
ハロプロの音楽的なコアは、過去のポップミュージックを保存することではなかったはずだ。
過去を引用し、誤読し、変形し、現在の少女たちの身体と声を通して、もう一度未来へ投げ返すことだったはずだ。
歌謡曲も、ファンクも、ディスコも、テクノも、ユーロビートも、過去のまま再現したのではない。
過去を学習し、混ぜ合わせ、別の時代の文脈に置き直すことで、ハロプロという奇妙で巨大なポップを作ってきた。
それは生成AIの構造と、驚くほど近い。
膨大な過去を学習し、そのパターンを分解し、現在の人間の指示と選択によって、まだ存在しなかった組み合わせを出力する。
むしろ、過去のポップミュージックをどう未来へ接続するのかを問い続けてきたハロプロほど、生成AIという技術と真剣に格闘すべき存在はない。
もちろん今回の『BLOODY BULLET』が、その理想に到達しているとは思わない。
拙い。
技術的にも演出的にも、もっとできる。
生成AIを使うなら、こんなものでは困る。
だが、それは「使うな」という結論にはならない。
「次はもっと上手く使え」である。
一度目の失敗を理由に技術そのものを禁止していたら、ポップミュージックは今も生楽器を一発録音している。
重要なのは、AIか人間かではない。
そのカットが音楽をどう解釈したのか。
その映像がメンバーの身体と声に何を与えたのか。
そのMVが、楽曲を聴く前には存在しなかった景色を、観客の頭の中に作ったのか。
問うべきは、そこだ。
生成AIを使っているから駄作なのではない。
生成AIを使っていても、実写で撮っていても、演出がなければ駄作になる。
逆に、生成AIであろうと、スマートフォンであろうと、8ミリフィルムであろうと、そこに切実なビジョンがあれば作品になる。
『BLOODY BULLET』をめぐる騒動で露呈したのは、生成AIの未熟さだけではない。
ハロプロが長年放置してきた映像表現の問題と、ファンダムが作品そのものではなく、制作手段の純潔を監視する「文化警察」になってしまったことだ。
ハロプロは、ようやく止まっていた時計を動かそうとした。
だったら必要なのは、その手を叩き落とすことではない。
もっと先へ行け、と要求することだ。
AIを使うな、ではない。
AIを使うなら、世界を変えるほど使え。
過去のポップを学習してきたハロプロよ。
今度は、未来を学習せよ。
そしてハロプロさーーん!!!! 是非DREAM BABY DREAMのMVをチェックしてください!!
今回みたいな騒動には絶対なりませんよーーーーー











ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません