GEZAN マヒトゥ・ザ・ピーポー氏による性加害事案をAV業界視点で完全深掘り解説

その他

マヒトゥ・ザ・ピーポーはこれまで、差別や分断、戦争、社会的弱者、共同体、フェミニズムやジェンダーについて積極的に発言してきた。
2019年のインタビューでも、LGBT、フェミニズム、人種差別を「新しい時代に直面している」ことで表面化した重要な問題として語っている。
近年も「差別と分断の構造」をテーマに対談し、2026年の武道館前インタビューでは、
各地で出会った人々を「私たち」と呼ぶ共同体的な思想を示していた。

だから今回露呈したのは、いわゆる「清廉な人にも過ちはある」という話ではない。

最も大きな断絶

彼が公共の場で批判してきたはずの構造――

力の強い側が弱い側の意思を奪う
相手を対等な主体として扱わない
社会的立場や影響力を利用する
少数者の尊厳や自己認識を軽視する
被害を受けた側に説明責任を負わせる

これらを、声明によれば本人自身が私的な関係の中で実行していた。

つまり「思想とは反対のことをしてしまった」というだけではなく、彼が戦争や国家権力、差別の問題として語ってきた支配と非対称性の構造を、
最も身近な一対一の関係において再現していたことになる。

戦争や政治権力の暴力は批判できても、自分が持つ身体的・性的・社会的な権力は認識できなかった。ここが決定的な矛盾だと思う。

謝罪文の異様なまでの「正しさ」

この声明は、一般的な芸能人の謝罪文と比較すると非常に踏み込んでいる。

「誤解を招いた」「不快な思いをさせた」「認識の相違」といった逃げ道を使わず、

不同意性交だった
虚偽の説明をした
自己決定権を侵害した
女性蔑視的な価値観があった
力関係を利用した
二次加害を行った
今回だけではなく暴力性が常態化していた
他にも被害者がいると認識している

と書いている。

責任を曖昧化しないという点では、文章上はかなり明確だ。

しかし同時に、あまりにも現在の性暴力・ジェンダー論の言葉が整然と配置されている。
本人も書いているように、この認識に至るまで被害者が何度も説明し、訂正しなければならなかったのであれば、
この精緻な言葉の相当部分は、本人が自力で到達したというより、被害者や支援者から突きつけられた認識を文章化したものと考えるのが自然だろう。

だから問題は「この文章が正しいか」ではない。

これほど正確な言葉を持つことと、その倫理を身体的な行動として実践できることはまったく別である、という事実がむき出しになっている。

「知らなかった」は成立しにくい

一般的なケースなら、ジェンダーや同意について学んでいなかった、という説明が一定程度は出てくる。

しかし彼は、フェミニズムやジェンダー、差別、非対称な権力関係を公の場で繰り返し語ってきた人物だ。政治や社会に対して沈黙しない表現者として紹介され、
本人も連帯や共同体を主要なテーマにしてきた。

そのため「知識不足だった」という説明だけでは不十分で、声明自身もそこを認めている。

むしろ、

社会について語るための知識は持っていたが、自分自身をその批判の対象に含めていなかった

ということではないか。

権力者、国家、保守政治、社会制度など、自分の外側にある権力を批判することはできた。
しかし、自分が音楽家・主催者・年長者・著名人・男性として持つ権力には、批判の視線が向かなかった。

これは左派的・反権力的な文化圏で繰り返されてきた問題でもある。

大きな権力に反対することが、その人自身の小さな共同体内での権力行使を自動的に無害化するわけではない。

「高圧的な反権力」という矛盾

過去の高市首相に対する「バカ」「センス磨いてやる」といった発言にも、今回とは次元が違うとはいえ、彼のある特徴が現れていたように思う。
本人は後に「感情的で稚拙だった」と謝罪したが、相手を上から啓蒙しようとするような語り口だった。

もちろん、政治家への暴言と性暴力を同列に扱うべきではない。

ただし、そこに共通して見えるのは、

自分は正しい側にいる、自分には相手を導いたり規定したりする資格がある、という自己認識

かもしれない。

反権力を語る人物が、対人関係では高圧的・支配的になることは矛盾して見えるが、心理的には必ずしも矛盾しない。
「自分は倫理的に正しい」という確信が強いほど、自分自身の加害性を検査しなくなることがあるからだ。

声明で特に重い箇所

僕が最も重大だと思うのは、泥酔状態、コンドームについての虚偽、裂傷、PTSDという記述に加え、

今回の件に限らず
性的対象として扱うような行為を繰り返してきた
暴力性が常態化していた
他にも被害者がいることを認識している

という部分。

これは「一度の判断ミス」や「酔った勢い」ではなく、本人が反復性と常態性を認めた文章になっている。したがって、活動自粛と講習参加だけで簡単に整理できる内容ではない。

また、「その責任を一生引き受け続ける」と述べながら、活動については「一定期間の自粛」としていることにも、かなり大きな緊張がある。

一定期間後に活動を再開する可能性を最初から留保している一方で、被害者側の損害には終了時期がない。再開の是非は単なる反省期間の長さではなく、被害者の安全、法的・経済的責任、所属組織の検証、周囲が加害を可能にした構造、他の被害申告の有無まで含めて考えられるべきだろう。

ファンダムという極めて非ロック的な構造について

今回の声明を読んで「信じていたのに」「音楽と言動のギャップにショックを受けた」と言っている人たちが大量にいる。

しかし僕はそこにまず驚く。

ギャップなど、本当にあったのだろうか。

もちろん今回の不同意性交、避妊に関する虚偽、被害者の自己決定権の侵害、その後の二次加害、そのすべての責任はマヒトゥ・ザ・ピーポー本人にある。

これは絶対に動かない。

しかし同時に、彼を「反権力のカリスマ」として祭り上げ、その権力性を長年ロックの熱量として消費してきたGEZANのファンダムの問題も、僕は避けて通れないと思う。

僕はGEZANについて、これまで一度も書いたことがない。

なぜなら僕には、GEZANの音楽を素晴らしいものだと思うことができなかったからだ。

その最大の理由は、彼らの音楽にある圧倒的な「昭和性」だった。

誤解しないでほしい。

昭和的であること自体が悪いのではない。

2020年代に昭和をやるなら、そこには必然として、2020年代まで生き延びた者にしかできない構造的アップデートが必要なのだ。

ジェンダー観。

男性性。

カリスマと観客の関係。

バンド内の権力。

運動体と個人の関係。

声の大きい者が共同体を代表することへの警戒。

そうしたものすべてを更新したうえで昭和を鳴らすなら、それは現代の表現になりうる。

しかしGEZANには、それがなかった。

少なくとも僕にはずっと、そう聴こえていた。

激しい言葉。

むき出しの感情。

巨大な声。

群衆への呼びかけ。

敵と味方の明確化。

中央に立つ男性カリスマ。

そしてそのすべてが、「反権力」「連帯」「抵抗」という便利な言葉によって自動的に正義へ変換されていく。

だがそれは本当に反権力だったのだろうか。

むしろ極めて古典的な権力の形式ではなかったのか。

権力を批判する人間が、権力的ではないとは限らない。

というより現代において最も危険なのは、「私は権力と戦っている」と語ることで、自分自身が持つ権力を見えなくしてしまう人間である。

社会に対しては反権力。

政治に対しては反権力。

国家に対しては反権力。

しかし自分の周囲では、圧倒的なカリスマとして人々を従わせる。

これは矛盾ではない。

極めて一貫している。

なぜなら彼が嫌っていたのは権力そのものではなく、自分以外の人間が持つ権力だった可能性があるからだ。

同族嫌悪としての高市批判

ここで僕が何度も書いてきた「高市現象」が出てくる。

マヒトゥ氏は高市早苗を激しく嫌悪していた。

だが僕には、あれはかなり強い同族嫌悪にも見える。

政治思想は正反対だろう。

しかし構造は似ている。

強い言葉で人々を動かす。

危機を煽る。

自分だけが本質を理解していると語る。

支持者に、自分は正しい側にいるという快楽を与える。

群衆の感情を束ね、自らを共同体の代弁者として中央に置く。

それは右であろうが左であろうが、同じカリスマ政治である。

高市現象とGEZAN現象は、表面上は対極に見えて、深部ではよく似ている。

どちらも支持者に批評を要求しない。

信仰を要求する。

どちらも支持者に考えさせるのではない。

帰属させる。

そしてどちらも「私たちは正しい」という陶酔によって巨大化する。

僕はこれまで何度も、ファンダムや推し活とは宗教団体であり宗教行為であると書いてきた。

これは比喩ではない。

中心に教祖がいる。

言葉が聖典化される。

ライブやイベントが儀礼化される。

内部と外部が分けられる。

批判者は敵とされる。

信者同士が忠誠心を確認し合う。

そして対象への疑問は、共同体そのものへの裏切りとして処理される。

この構造はアイドルだけのものではない。

むしろロックファンダムのほうが厄介である。

なぜならロックファンは、自分たちだけは宗教ではない、自分たちだけは批評的である、自分たちだけは権力に抵抗している、と信じているからだ。

だが実際にやっていることは何か。

中央に立つ男性カリスマを崇拝し、その発言をありがたく受け取り、その人物の政治的正しさによって人格全体を保証し、異論を「わかっていない」と排除する。

これはそのまま宗教である。

本来、ロックとはファンダムと対極にあるものだったはずだ。

ロックとは偶像を作る音楽ではない。

偶像を破壊する音楽だった。

教祖に従うための音楽ではない。

教祖を疑うための音楽だった。

「この人についていけば間違いない」と思った瞬間に、ロックは終わる。

しかしGEZANの周囲では、マヒトゥ氏の政治的発言や社会運動への参加が、彼の人格を保証する証明書として機能していた。

反戦を語る。

差別に反対する。

マイノリティとの連帯を語る。

社会的弱者に寄り添う言葉を発する。

するとファンは、その人物を倫理的に優れた存在として認定する。

あとは何をしても、その高圧性は「熱量」になる。

支配性は「カリスマ性」になる。

自己陶酔は「純粋さ」になる。

男性中心的な古さは「ロックンロール」になる。

これほど危険な変換装置はない。

ファンダムとは、対象の問題を消去する装置である。

そして対象の問題を消去するだけではない。

時にその問題を魅力へ変換してしまう。

だから今回の事件を、密室で突然起きた例外的な出来事として処理してはいけない。

声明の中で本人は、自分の社会的立場や影響力、相手との力関係を利用したと書いている。

さらに今回に限らず、相手を対等な人格として尊重せず、自分の欲求を優先し、性的対象として扱う行為を繰り返してきたと認めている。

つまりこれは一度の逸脱ではない。

常態だった。

ならばその常態は、本当に性行為の場面だけに現れていたのだろうか。

音楽には現れていなかったのか。

ライブには現れていなかったのか。

政治発言には現れていなかったのか。

共同体の中心に立つ姿には現れていなかったのか。

僕は現れていたと思う。

ただ多くの人は、それを権力性として聴かなかった。

カリスマ性として聴いた。

支配的な声を、強い声として聴いた。

高圧的な態度を、覚悟として見た。

古い男性性を、ロックの純粋さとして受け取った。

それは聴き間違いだったのではないか。

今「幻滅した」と言っている人たちに、僕は聞きたい。

あなたたちは一体、これまでGEZANの何を聴いていたのか。

歌詞の表面だけを聴いていたのか。

「反戦」「連帯」「抵抗」という単語だけを聴いていたのか。

音楽の中にある力の配置は聴かなかったのか。

中央に誰が立っているのか。

誰が声を持ち、誰が沈黙しているのか。

観客がどう動員されているのか。

共同体がどのように一人の人物を神格化しているのか。

そこまで含めて音楽を聴くのが批評ではないのか。

それが読み取れなかったのなら、本当にロックを聴いていたと言えるのだろうか。

少なくとも、何も見抜けなかったまま「裏切られた」「幻滅した」とだけ語り、自分は被害者だったという位置に逃げ込むことは許されないと思う。

権力的な人物を神格化し、その権力を増幅し、批判を封じ、異論を排除し、本人に「自分は正しい側の人間だ」と思わせ続けた構造に、
ファンダムが関与していなかったとは言えない。

GEZANのファンダムは、マヒトゥ氏に裏切られたのではない。

彼の権力性を長年カリスマとして消費し、その構造を自ら強化してきた。

だから「なぜ気づかなかったのか」という問いは、本人だけに向けるべきではない。

ファンダム自身にも向けられるべきである。

Posted by nolongerhuman