「みいちゃんと山田さん」を語る時に「花のようなエレ」に言及できない悲しいSNS空間・・・・
『みいちゃんと山田さん』をめぐって、差別だ、露悪だ、当事者表象だ、いや表現の自由だと、SNSでは今日も正義が高速回転している。
しかし私が最も恐ろしいと思うのは、その議論の中で、ほとんど誰もロジェ・ヴァディムの『花のようなエレ』に言及しないことだ。
みいちゃんのような存在は、2026年になって突然、SNSのタイムラインから生まれたのではない。
社会の規範をうまく理解できない少女。
自分の欲望や拒絶を十分に言語化できない少女。
周囲から無垢だと美化され、愚かだと嘲笑され、かわいそうだと同情され、そして性的にも経済的にも搾取される少女。
その少女を「救いたい」と願う善良な人物でさえ、いつの間にか彼女自身の意思ではなく、自分の善意、自分の倫理、自分の物語を彼女の身体に書き込み始める。
そんな構造は、もう半世紀以上も前に『花のようなエレ』が描いている。
そして、答えもすでに出ている。
エレを欲望する男も、エレを救済しようとする男も、エレを聖女として崇める観客も、エレを悲劇として消費する映画も、全員が違う方法でエレを所有している。
これこそが、みいちゃんという存在が社会で持つ意味ではないのか。
問題は「みいちゃんが善人か悪人か」ではない。
「障害があるのかないのか」でもない。
作者に差別意識があるかどうかを裁判することでもない。
ところがSNSでは、まるで人類が初めてこの問題に遭遇したかのように、ゼロから議論が始まる。
「この表現は正しいのか」
「当事者を傷つけるのではないか」
「作品を規制すべきか」
「いや表現の自由だ」
違う。
その議論は50年前にもう始まっている。
映画の中で、文学の中で、少女漫画の中で、ポルノグラフィの中で、障害者表象の中で、フェミニズム批評の中で、何度も何度も繰り返されてきた。
にもかかわらず、その文化的記憶がSNSには継承されていない。
昨日バズった作品だけを材料に、昨日覚えた倫理用語だけで、昨日生まれた問題として語り直す。
これを私は「議論が新しい」とは思わない。
ただのポップカルチャーへの無知だ。
そして、この無知こそが最大の問題なのだ。
なぜなら『花のようなエレ』を見ていれば、みいちゃんを見た瞬間に気づくはずだからだ。
彼女は「かわいそうな弱者」ではない。
「迷惑な人」でもない。
「救済されるべき純粋な少女」でもない。
彼女は、社会が自分自身の欲望と残酷さを映すために、何度も作り出してきた鏡なのだ。
エレを見つめた観客の視線は、半世紀後、みいちゃんを考察するタイムラインの視線へと形を変えた。
映画館の暗闇で行われていた凝視が、いまは引用リポストとコメント欄で行われている。
そして最も皮肉なのは、「みいちゃんを消費するな」と叫ぶ人間までが、みいちゃんを材料に自分の正しさを演出していることだ。
搾取する者。
救おうとする者。
診断する者。
批判する者。
擁護する者。
全員がみいちゃんを必要としている。
『花のようなエレ』がすでに描いていたのは、まさにその地獄だった。
だから必要なのは、最新の炎上に最新の正義を投げつけることではない。
過去の作品を見ることだ。
過去の批評を読むことだ。
ポップカルチャーが何度も描き、何度も失敗し、何度も反省してきた歴史を引き受けることだ。
文化を知らない正義は、同じ悲劇を新発見として何度でも再演する。
みいちゃんを語るのにエレへ辿り着けないSNS。
その言語空間の歴史的記憶の欠如こそが、みいちゃんをめぐるあらゆる議論の中で、最も深刻な問題なのである。










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