推し活とルサンチマン。誰もが誰かを罰したがっている
もうこれまでに当アカウントは日本中で一番、この書くだけでゲロ吐きそうな「推し活」「ファンダムエコノミー」という名の地獄について
ずーーーーっと書き続けてきました・・・・・
そんなめんどくさい事したくないんですが何しろ誰も書かないし・・・と。
でもですねーーーここ最近ほんとーーーに生成AIに対する「環境破壊」を御旗とした=エコロジー思想の推し活!!!!の実態とか
つい先だってのMrs Green Appleの生成AI容認におけるファンダムの発狂っぷりとか
いくらなんでももーーそろそろ誰かがちゃんとその本質を解説してくれるだろうと思ってたんですが
どーーもそれどころか事態はますます悪化してんじゃん!と。
この「推し活」事案のもっともヤバいところはほぼ99.99%がその「効能」しか語らない。生きることにハリがでました系のね
その上ガス抜き的に報じるのは「推し活したくて資金が欲しいのでトー横でパパ活しました」みたいな
それもまた「推し活以後」の話しかしてないところなんですね
そーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーじゃないだろ!!!!!
語られるべきは「BEFORE」です。
つまり
どういう心理機制が人を「推し活」という地獄に閉じ込め彼等をモンスター化するのか??
その説明"だけ"なんですよ!!
目次
- 推し活とルサンチマン。誰もが誰かを罰したがっている
- 「弱者」ではなく「敗者」にされた人々
- ルサンチマンという言葉を単なる「恨み」だと思うと本質を逃す。
- SNSは「怒っていい場所」を発明した
- ルサンチマンのロンダリング
- なぜ「法」ではなく「道徳」なのか
- 「本当のファンなら」という宗教
- あなたは本当に推しを愛しているのか
- 最も必要だったものが推しではなく、敵。それが推し活の正体
- 道徳観が高くなった、のか?
- 法が怒りを止めるから、道徳を持ち出す
- 推し活と政治はどこでつながったのか
- 「お前は悪くなかった」という救済
- 通報ボタンという小さな権力
- アルゴリズム化された宗教
- 誰かを罰することでしか、自分が正しい側にいることを確認できなくなっている。
推し活とルサンチマン。誰もが誰かを罰したがっている
先日、TikTokでちょっと奇妙なやり取りをした。
僕がアップしたMrs. GREEN APPLEの楽曲を使ったAIによるMVリミックス動画に、こんなコメントがついた。
「ミセスAIダメですよ。ミセス好きならそういうところ守りましょう」
おや?
と思った。
だってMrs. GREEN APPLEは最近のMVでAIを使用している。それ以前に公式ガイドラインを読んでも、ファンによるオリジナルコンテンツへの音源利用や、一定の条件下での公式素材の二次利用を認めている。
少なくとも僕が確認した限り、「生成AI禁止」「AIを使った二次創作禁止」というルールは存在しない。
だから僕は、
「今回のMVではAI利用がされているようですが?」
と返した。
すると返ってきたのが、
「自分の非を認めないんだ笑 精神年齢が凄く低いですね笑」
だった。
そこで、また、
おや?
と思ったのである。
なぜなら、この瞬間、議論の内容が完全に変わったからだ。
最初の話は、
「Mrs. GREEN APPLEのルールではAIは禁止されている」
という話だった。
だったら簡単だ。
「公式のこのページの、この部分です」
と示せばいい。
ところが、こちらが公式側もAIを使っているという事実を示した途端、突然、
「精神年齢が低い」
という人格攻撃が始まった。
つまりこの人は、Mrs. GREEN APPLEのルールを守らせたかったのではないのではないか。
もしかすると、
最初から、
誰かを怒りたかっただけなのではないか。
この小さな出来事から、最近ずっと考えていたいくつものことが一気につながった。
推し活。
炎上。
キャンセルカルチャー。
反AI。
政治ファンダム。
石丸現象。
斎藤知事選。
立花孝志をめぐる現象。
右でも左でも繰り返される「敵」の発見。
僕はこれまで、こうしたものを「社会と政治の再宗教化」と書いてきた。
しかし、それだけでは少し足りなかったのではないか。
宗教化のもっと手前に、
ルサンチマン
があるのではないか。
「弱者」ではなく「敗者」にされた人々
最近「弱者」という言葉をよく聞く。
弱者男性。
社会的弱者。
経済的弱者。
しかし僕は、この言葉には少し違和感がある。
弱者というのは優しい言葉だからだ。
この事については以前エントリー記事を書いた
弱いのだから守ってあげましょう。
支援しましょう。
包摂しましょう。
そんなニュアンスがある。
でも、現在多くの人が感じているものは、もう少し残酷なのではないか。
「あなたは敗者です」
という判定なのではないか。
現代社会は、ありとあらゆるものをランキングする。
年収。
学歴。
会社。
容姿。
恋愛。
結婚。
フォロワー数。
いいね数。
再生数。
登録者数。
コミュニケーション能力。
市場価値。
何歳までに何を達成したか。
どれだけ「充実した人生」をSNSに提示できるか。
僕たちは生まれてから死ぬまで、
「で、あなたは何位なんですか?」
と聞かれ続ける。
しかも恐ろしいのは、これは身分制度ではないことになっている。
自由競争である。
誰にでもチャンスはある。
努力すれば成功できる。
だから競争に負けた人間には、さらに残酷な言葉が待っている。
自己責任。
お前が努力しなかったからだ。
お前の選択が悪かったからだ。
勉強しなかったからだ。
コミュニケーション能力を磨かなかったからだ。
行動しなかったからだ。
アップデートしなかったからだ。
つまり、
「私は負けた」
だけでは終わらない。
「負けたのは私自身が悪い」
まで引き受けさせられる。
ここに、巨大な感情の行き場のなさが生まれる。
怒ってはいけない敗者たち
負けた。
悔しい。
社会に腹が立つ。
成功している奴が憎い。
自分より大したことないと思っていた人間が評価されている。
なんで自分じゃないんだ。
本当はそう叫びたい。
しかし、それを言うことすら許されない。
「嫉妬でしょ」
「僻みでしょ」
「負け犬の遠吠えですね」
と言われるからだ。
だから怒れない。
いや、
怒っているのに、その怒りを怒りとして表現することができない。
これがルサンチマンの温床になる。
ルサンチマンという言葉を単なる「恨み」だと思うと本質を逃す。
重要なのは、
直接表現することのできない怒り
なのだ。
自分より力のある者に正面から怒れない。
自分の敗北そのものについて怒れば、さらに「敗者」として笑われる。
だから怒りは内側に蓄積する。
怒り。
屈辱。
羞恥。
無力感。
嫉妬。
そして自己嫌悪。
全部がぐちゃぐちゃに混ざったまま蓄積される。
しかし感情というものは、永遠に保存しておけるものではない。
どこかに出口を必要とする。
そこでSNSが登場した。
SNSは「怒っていい場所」を発明した
ここが今回、僕が一番「おや?」と思ったところだ。
僕たちはこれまで、
「SNSではみんな怒っている」
と考えてきた。
でも逆なのではないか。
みんなSNSで怒るようになったのではない。
もともと怒っていた人々が、SNSによって初めて「怒っていい対象」を発見したのではないか。
いや、もっと正確に言おう。
彼らが探していたのは、
怒るべき敵ではなかった。
怒ってもいいという許可だった。
ここは重要だ。
例えば、
「俺は人生がうまくいっていないから腹が立つ!」
と言って誰かを攻撃したら、ただの八つ当たりである。
ところが、
「著作権を守れ!」
ならどうだろう。
「推しを傷つけるな!」
なら?
「差別を許すな!」
「女性を守れ!」
「男性差別をやめろ!」
「子どもを守れ!」
「日本を守れ!」
「クリエイターを守れ!」
全部、同じことが可能になる。
怒りの出口に、
正義
というラベルが貼られる。
すると突然、怒ってよくなる。
いや、それどころか、
怒らない方が悪い
ということになる。
これはものすごい発明だ。
ルサンチマンのロンダリング
僕はこれを、
「ルサンチマンのロンダリング」
と呼びたい。
本来の感情は、
「俺は私は報われなかった」
である。
しかし、そのままでは格好悪い。
だから一度別の場所を通す。
「私はクリエイターを守っている」
「私は推しを守っている」
「私は社会正義のために戦っている」
「私は正しいファンです」
するとどうなるか。
私怨が正義に変わる。
嫉妬が倫理に変わる。
無力感が使命感に変わる。
攻撃性が社会貢献に変わる。
そして、
「誰かを傷つけたい」
という欲望が、
「悪い人間を正しく罰している」
という物語へ洗浄される。
これほど気持ちのいい装置はない。
本人自身も、
「私は八つ当たりをしています」
などとは夢にも思わない。
むしろ、
「私は正しいことをしている」
と思っている。
だから厄介なのだ。
なぜ「法」ではなく「道徳」なのか
今回のMrs. GREEN APPLEの件は、この構造が非常によく見えた。
最初は、
「ルール違反です」
という話だった。
だから僕はルールを調べた。
すると、少なくとも単純な「AI禁止」という規則は確認できなかった。
むしろ一定条件下でファンによる二次利用まで認められている。
ここで普通なら、
「あ、そうなんですね」
で終わる。
ところが終わらない。
なぜか。
ここで僕は気づいた。
法では怒り切れないからだ。
法というものは面倒くさい。
条文がある。
例外がある。
証拠が必要だ。
反論が可能だ。
「それは何条ですか?」
と聞かれる。
「その利用は本当に禁止されていますか?」
と確認される。
つまり法には、
怒りにブレーキをかける機能
がある。
そこで持ち出されるのが道徳だ。
「法律の話じゃない」
「ファンなら普通分かる」
「リスペクトがない」
「常識でしょ」
「人としてどうなの?」
そして最終的に、
「精神年齢が低い」
になる。
見事な移動である。
法 → マナー → 道徳 → 人格。
法的根拠が崩れても、
道徳なら攻撃を続けられる。
道徳的根拠まで崩れても、
人格を攻撃すれば続けられる。
つまり、
理由があるから攻撃していたのではない。
攻撃を続けるために、理由が次々と交換されている。
「本当のファンなら」という宗教
「ミセス好きならそういうところ守りましょう」
この言葉も非常に面白い。
なぜ、
「公式ガイドライン第○項に違反しています」
ではないのか。
答えは簡単だ。
「本当に好きなら分かるはず」
という論理だからである。
これはもはや契約でも法律でもない。
信仰告白だ。
本当のファン。
正しいファン。
推しを理解しているファン。
推しを守るファン。
そして、その外側には、
偽物のファン。
迷惑なファン。
推しを汚す者。
敵。
がいる。
これは宗教の構造と非常によく似ている。
推しが聖なるものになる。
ファンダムが信徒共同体になる。
「界隈の常識」が戒律になる。
炎上が異端審問になる。
謝罪文が告解になる。
ブロックが破門になる。
そして、
集団通報が私刑になる。
ここまで来ると、
推しが実際に何を言ったかは、それほど重要ではなくなってしまう。
今回のように、推し自身がAIを使っていたとしても、
「AIを使う奴は推しを冒涜している」
という信仰は維持できる。
なぜなら信じている対象は、実は推しそのものではないからだ。
「推しを守る正しい私」
だからである。
あなたは本当に推しを愛しているのか
ここで最初の疑問に戻る。
攻撃的なファンダムは、本当に推しへの愛が強すぎるから攻撃するのだろうか。
僕には逆に見える。
もしかすると、
攻撃したい欲望が先にあり、その攻撃を正当化してくれるものとして「推し」が利用されている
のではないか。
推しを愛しているから敵を攻撃する。
のではなく、
敵を攻撃するために、
推しを神聖化する。
この順番の逆転だ。
もし本当に推しそのものが中心なら、推しの言動が変われば自分の態度も変わるはずだ。
推しがAIを使えば、
「あ、AIそのものが禁止というわけではなかったんですね」
となる。
でもそうならない。
敵だけが残る。
それはつまり、
最も必要だったものが推しではなく、敵。それが推し活の正体
誰もが誰かを罰したがっている
そしてこれはアイドルファンダムだけの話ではない。
現代社会全体が、
誰かを罰したがっている。
不倫した芸能人。
失言したタレント。
マナーを守らない観光客。
AIを使ったクリエイター。
転売ヤー。
迷惑系YouTuber。
政治家。
マスコミ。
外国人。
フェミニスト。
アンチフェミニスト。
右派。
左派。
陰謀論者。
反ワクチン。
ワクチン推進派。
誰でもいい。
毎日、
「今日、怒っていい人」
が供給される。
SNSを開けば、
本日の生贄がトレンド欄に並んでいる。
そして僕たちはそこへ行って、
一言ずつ石を投げる。
昔の村社会より巨大で、
昔の宗教裁判より高速で、
しかも自宅のベッドから参加できる公開処刑。
それがSNSである。
道徳観が高くなった、のか?
最近、
「Z世代は倫理観が高い」
「若い世代は社会問題への意識が高い」
という言葉をよく聞く。
もちろん、本当にそういう部分もある。
差別やハラスメントへの感度が上がったことには、大きな意味がある。
でも僕は同時に疑っている。
僕たちが目撃しているものの一部は、
倫理観の上昇ではなく、道徳を使う頻度の上昇なのではないか。
これは全然違う。
倫理というものは、本来、
自分を縛るものでもある。
自分と意見の違う人にも権利がある。
嫌いな表現にも表現する自由がある。
自分が間違っていたら訂正する。
自分の側にも同じ基準を適用する。
つまり倫理とは、
自分が嫌いな相手に対してもフェアであること
を要求する。
これは苦しい。
ところがSNS的道徳は、もっと快適だ。
「悪い人を攻撃する」
だけでよい。
自分は傷つかない。
自分は反省しなくてもいい。
むしろ自分は正義の側にいられる。
だから、
「多様性を守れ」
と言いながら自分と異なる価値観の人間を集団排除することもできる。
「人を傷つけるな」
と言いながら、
「悪い人」と認定した相手にはどんな言葉を投げてもよいと思える。
これは倫理ではない。
道徳による攻撃の免許
である。
法が怒りを止めるから、道徳を持ち出す
自由社会には、本来ものすごく重要な領域がある。
「合法だけど嫌い」
である。
僕は嫌いだ。
僕は不快だ。
僕は絶対にやらない。
でも、
あなたがやることまで禁止する根拠はない。
この宙ぶらりんな状態に耐えること。
それが自由主義社会のかなり重要な能力だったはずだ。
ところが現在、この状態に耐えられない。
嫌い。
だから悪い。
悪い。
だから禁止すべき。
禁止できない。
ならば社会的に罰する。
となる。
つまり、
法が怒りを止めるから、道徳を持ち出す。
これは今、右でも左でも起きている。
政治でもファンダムでも同じだ。
法的には問題ありません。
と言われる。
すると、
「法律の問題じゃない!」
と言う。
その瞬間、裁判所の代わりに、
SNSの群衆が裁判官になる。
推し活と政治はどこでつながったのか
僕は以前から、石丸現象、斎藤知事選、立花孝志をめぐる現象などを見ながら、
政治が再び宗教化している
と書き続けてきた。
もちろん、それぞれの政治家や支持者を全部同じだと言いたいわけではない。
重要なのはコミュニケーションの形式だ。
政治家の政策を支持する。
ではなく、
「誰と戦っている政治家なのか」
が重要になる。
マスコミと戦っている。
既得権益と戦っている。
議会と戦っている。
古い政治と戦っている。
敵がいる。
だから味方になる。
ここでは、
支持対象より敵の共有の方が共同体を強く結束させる。
「私はこの人の政策が好きです」
より、
「あいつらを倒してくれるのはこの人しかいない」
の方が強い。
推しがいて、
アンチがいる。
信徒がいて、
異端がいる。
そして重要なのは、
支持対象が提供する最大の商品が政策でも音楽でもなく、
「あなたが怒ってよい敵」
になることだ。
「お前は悪くなかった」という救済
自己責任社会の中で負けた人間にとって、最も甘い言葉は何だろう。
「努力すれば成功できます」
ではない。
もう聞き飽きている。
もっと甘い言葉がある。
「あなたは悪くなかった」
である。
なぜ人生がうまくいかなかったのか。
あなたが悪いのではない。
マスコミが悪い。
既得権益が悪い。
社会が悪い。
政治が悪い。
男が悪い。
女が悪い。
外国人が悪い。
AIが悪い。
敵がいたからだ。
この瞬間、
自己責任によって内側へ向けられていた怒りが、
一気に外へ放出される。
これは快楽である。
しかも、
「あなたは敗者ではない」
だけではない。
「あなたは真実を知っている側だ」
と言ってくれる。
つまり、
敗者が信徒になり、信徒が選民になる。
なんという劇的な身分上昇だろう。
だから現代の政治的・文化的ファンダムは強い。
政策や作品の話だけでは説明できない。
そこには、
傷つけられた自己評価を回復する装置
としての共同体がある。
通報ボタンという小さな権力
そしてSNSには、その回復を実感できる素晴らしいボタンまである。
「通報する」
である。
社会で自分の意見など誰も聞いてくれなかった。
会社では決定権がない。
政治を変えることもできない。
世の中に影響を与えている実感もない。
しかしSNSなら、
通報できる。
仲間と一緒に通報すれば、
動画を消せるかもしれない。
アカウントをBANできるかもしれない。
つまり昨日まで無力だった人が、
突然、
他人の存在をプラットフォームから消す力
を手にする。
これはものすごく強烈なエージェンシーだ。
しかも、
「私が嫌いだから消した」
ではない。
「ルールを守らない悪質ユーザーを排除しました」
と言える。
ここでも、
ルサンチマンが正義にロンダリングされる。
アルゴリズム化された宗教
昔の宗教には教会があった。
司祭がいた。
聖典があった。
現在はもっと効率的だ。
教会はSNSになった。
司祭はインフルエンサーになった。
聖典は「界隈の常識」になった。
そして神託を出すのは、
アルゴリズム
になった。
誰を怒るべきか。
誰が炎上しているか。
何が許せないのか。
全部おすすめ欄が教えてくれる。
しかもアルゴリズムは、
怒っている人には、
もっと怒れるものを見せてくれる。
だからこの宗教には安息日がない。
毎日が異端審問だ。
24時間365日、
新しい罪人が供給される。
誰もが誰かを罰したがっている。
というより、
誰かを罰することでしか、自分が正しい側にいることを確認できなくなっている。
本当に必要なのは「怒らないこと」ではない
「みんな怒るのをやめましょう」
という話ではない。
そんな簡単なことではない。
怒りには意味がある。
不正に対する怒り。
差別への怒り。
搾取への怒り。
権力への怒り。
社会を変えてきたものの中には、必ず怒りがある。
問題なのは、
自分が何に怒っているのかを、自分自身が分からなくなることだ。
目の前のAI動画に怒っているのか。
それとも、
人生のどこかで味わった屈辱に怒っているのか。
推しが傷つけられたことに怒っているのか。
それとも、
自分が社会から大切にされなかったことに怒っているのか。
本当に著作権を守りたいのか。
それとも、
誰かを罰する権利が欲しいのか。
ここを混同すると、
どんな正義も簡単に暴力になる。
だから最後に、あえて嫌な質問をしたい。
あなたは本当に「推し」を愛しているのか。
それとも、
推しを愛する自分を愛しているのか。
推しを守る自分が好きなのか。
推しの敵を攻撃できる自分が好きなのか。
そしてもし、
推し本人が、
「その人を攻撃しないでください」
と言ったら、
あなたは攻撃をやめられるだろうか。
ここがリトマス試験紙になる。
もしやめられないのなら、
あなたが信じていたものは、
最初から推しではなかったのかもしれない。
あなたが本当に必要としていたのは、
敵だった。
誰もが誰かを罰したがっている
この社会には怒りが溜まっている。
しかし、その本当の原因について怒る言葉を、僕たちは失ってしまった。
格差について怒れば、
努力不足と言われる。
孤独について怒れば、
コミュニケーション能力の問題と言われる。
仕事について怒れば、
転職すればいいと言われる。
貧困について怒れば、
自己責任と言われる。
恋愛について怒れば、
魅力を磨けと言われる。
すべてが自分へ返ってくる。
だから僕たちは、
自分以外の誰かに怒れる機会を待っている。
誰かが失言するのを。
誰かがルールを破るのを。
誰かが炎上するのを。
誰かが「不謹慎」なことをするのを。
そして待ち望んでいた瞬間が来る。
怒っていい。
こいつは悪い奴だ。
そのとき初めて、
長い間内側に閉じ込められていた感情を解放できる。
しかし僕たちが本当に問わなければならないのは、
「今日の悪人は誰か?」
ではない。
「なぜ私は、これほどまでに誰かを罰したかったのか?」
なのだと思う。
彼らが探していたのは、怒るべき敵ではなかった。
怒る権利だった。
そして法がその権利を与えてくれないとき、
彼らは道徳を持ち出す。
推しを聖なるものにする。
敵を異端者にする。
群衆を集める。
そして石を投げる。
でも、その石は本当は、
誰に向けて投げたかったものなのだろう。
そこまで考えて初めて、
僕たちは「推し活」の話をしているのではなく、
推し活という地獄のシステムがこの社会そのものを壊し始めていることに気づくのである。















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