「感情の”不可侵性”」と分断。誰もが絶望的に「神様」を求めている

その他

以前これを書き

常に今社会や政治界隈で起こっている事は「再宗教化」だとお伝えしてきましたが

ただ!! このところAIウィッチハントをしてくる人たちとド真剣に向き合っている内に

あっ!!!これはもう一段「下」があるぞ

「再宗教化」がなぜ起こっているのか? とりわけSNS化した環境でなぜそれが起こるのか?

についてもっと深くDEEPDIVEできた感があるんです。

神が死んだあと、何がが神となったのか?

反AIコメントを大量に眺めながらずっと引っかかっていたことが、ようやく一本につながった気がします。

なぜここまで怒るのか。なぜここまで断定するのか。なぜ「AIは100%無意味だ」「AIを使う人間は間違っている」とまで言い切れるのか。

きっかけは上の記事にも書いた反AI論者の言説ですが
これはこの4-5年の社会・政治空間におけるいわゆる「分断」
当アカウント的いいかたをすると「再宗教化」

そのものの事態でした

最初は環境問題だと思っていました。水、電力、データセンター。次は著作権。その次は雇用、その次は人間性、魂、創造性、本物のアート。

けれど、やりとりをしていると彼等の本質はどうもそれだけでは説明がつかない。

ある種のもっと巨大な「裂け目」がある

その裂け目を生み出したもの

それについて答えが、分析がなされていないからいわゆる「分断」が加速し「再宗教化」がおこっていること

それは現代社会において最後に残った「不可侵なもの」は何なのか

これこそが問題の最奥の最も深いところにあるものだと思います

現代社会において最後に残った「不可侵なもの」を求めて

昔は神がいました。

少なくとも、人間の外側に「自分より上にあるもの」が存在していました。神、宗教、聖典、共同体、伝統、国家、家族、新聞、テレビ、大学、専門家。

もちろん、それらがいつも正しかったわけではありません。むしろ歴史を振り返れば、巨大な権威ほど巨大な間違いも犯してきました。

だから近代以降、人間はそれらを一つずつ疑っていった。

神を疑い、国家を疑い、宗教を疑い、新聞を疑い、テレビを疑い、専門家を疑い、企業を疑い、巨大プラットフォームを疑った。

その営み自体は正しかったと思います。権威を疑うことによって、人間は自由を獲得してきたからです。

しかし、ここで妙なことが起きます。

外部の権威を次々に解体したあと、では最後に何が残るのか。何なら他人に否定されずに済むのか。

国家の判断は疑える。企業の判断も疑える。専門家だって間違う。メディアも偏る。多数派だって正しいとは限らない。

しかし、

**「私はこう感じた」**

という事実だけは、他人が直接否定することができない。

例えば「私は傷ついた」と言っている人に対して、「いや、あなたは傷ついていない」とは言えません。

その人が傷ついたという**感情の存在そのもの**は、本質的に本人の内面に属しているからです。

ここまでは当然ですし、むしろ尊重されるべきことだと思います。

問題は、その先です。

**「私は傷ついた」**

という感情が、

**「だからこれは有害だ」**

になり、

さらに、

**「だからこれは倫理的に悪い」**

になり、

ついには、

**「だからこれを作った人間を非難してよい」**

へと接続される。

しかし本来、この一つひとつの間には別々の論証が必要なはずです。

感情が存在することと、その感情から導かれた解釈が正しいことは同じではありません。
そして、その解釈から導かれた道徳判断が正しいこともまた別の話です。

ところが現代のSNSでは、この境界が非常に曖昧になっているように見えます。

感情の不可侵性が、感情に基づく解釈の不可侵性へ拡張され、さらに道徳判断の不可侵性へと膨らんでいく。

ここが、たぶん一番重要です。

不可侵なのは本来、

**「私はこう感じた」**

という感情の存在そのものです。

しかし、

**「だからあなたは悪い」**

という結論まで不可侵なわけではない。

この二つが混同された瞬間、感情は単なる感情ではなくなります。

感情が、他者を裁くための根拠になる。

昔の宗教的世界では、少なくとも建前上、

**「私がどう感じるか」よりも「神が何を命じているか」**

が上にありました。

つまり自分の外部に、自分自身を裁く基準が存在していた。

超越的な神が消えていったあと、人間の中から「絶対的なものを求める欲求」まで消えたわけではない

ところが、その超越的な神が消えていったあと、人間の中から「絶対的なものを求める欲求」まで消えたわけではありません。

そこで最後に残ったのが、

**感情だった。**

極端に言えば、

**超越性が天空から人間の感情へ引っ越した。**

昔は、

**神は人間には理解し尽くせない。だから神は絶対である。**

だった。

現代では、ときに、

**私の感情は他人には完全には理解し尽くせない。だから私の感情を否定することはできない。**

という構造が生まれる。

そしてここから、さらに重大な反転が起きます。

*感情を公開し、共感を集め、それを数値化し、最終的に道徳的権威へ変換する装置

昔は、

**神が人間を裁いた。**

しかし現代では、

**自分の感情を根拠に、人間が他人を裁く。**

この転換をSNSは猛烈に加速させました。

SNS以前であれば、「私は許せない」という感情は、基本的には個人の内面に存在する感情でした。

しかしSNSでは、

「私は許せない」

という投稿に何万もの「いいね」が付く。

すると、もともとは一人の人間の感情だったものが、突然、

**「これは社会的に承認された正義なのではないか」**

という姿に変わって見えてくる。

つまりSNSは、

**感情を公開し、共感を集め、それを数値化し、最終的に道徳的権威へ変換する装置**

でもあるわけです。

しかもアルゴリズムは、静かな疑問より強烈な感情のほうを拡散しやすい。

「この問題について少し考えてみたい」

よりも、

「これは絶対に許せない」

のほうが反応を生む。

すると人間は学習していきます。

強く断言するほど注目される。怒るほど仲間が集まる。傷つきを強く表現するほど、周囲から道徳的な承認を得やすくなる。

その結果、

**最も強く感情を表現する人間が、最も強い道徳的権威を持っているように見える**

という現象まで起きる。

最も強く感情を表現する人間が、最も強い道徳的権威を持っているように見える

事実についての主張なら、証拠によって検証できます。

「AIはこれだけ水を消費する」

なら、データを確認できる。

「この制度によってこれだけの損害が出た」

なら、統計や一次資料を調べることができる。

しかし、

**「私は傷ついた」**
**「私は怖い」**
**「私は許せない」**

という感情の存在そのものは、データによって反証することができない。

だから、現代社会では奇妙な逆転が起きる。

**検証可能な主張ほど検証されるのに、最も個人的な感情ほど不可侵になる。**

そして問題は、その不可侵性が感情の外側へまで拡張されていくことです。

「私はこのAI作品を見て嫌悪感を覚えた」

これはその人の感情です。

しかしそこから、

「だからAI作品は有害だ」

となり、

「だからAI作品は倫理的に悪い」

となり、

「だからAIを使う人間は攻撃されても仕方がない」

となる。

このとき、最初の感情の不可侵性が、後ろに続くすべての判断まで守る盾として使われてしまう。

これが起きると議論は非常に難しくなります。

なぜなら相手の結論を批判しただけなのに、相手には、

**「私の感情そのものを否定された」**

と感じられるからです。

すると反論は情報ではなく、攻撃になる。

そして感情を守ることが、自分自身を守ることになる。

ここで、感情とアイデンティティが結びつき始めます。

「私はこの問題についてこう感じている」

だったものが、

**「こう感じている私こそが私である」**

になる。

環境問題に怒る私。

AIに嫌悪を感じる私。

本物のアートを守りたい私。

弱者のために怒る私。

感情が、自分が善い人間であることを証明する重要な要素になる。

すると、その感情を疑うことが難しくなる。

なぜなら感情を修正することが、

**「自分が善い人間ではなかった可能性」**

を認めることにつながってしまうからです。

ルサンチマンと感情

ここで、ニーチェ的なルサンチマンの問題ともつながってきます。

現代社会はあまりにも巨大です。国家、巨大テック、気候変動、戦争、資本、アルゴリズム。個人が直接どうにかできるものはほとんどありません。

問題は見えている。

しかし、自分にはそれを変える力がない。

そこには強烈な無力感が生まれる。

けれど感情だけは自分で所有できる。

世界を変えることはできなくても、

**「私はこの世界に怒っている」**

とは言える。

巨大企業を動かせなくても、

**「私はその企業を許さない」**

とは言える。

そしてSNSでは、その怒りを毎日公開することができる。

さらに、目の前に攻撃可能な対象が現れる。

巨大なAI企業そのものには手が届かない。しかしAIを使っている一人のクリエイターならコメント欄にいる。

そこで、

**社会に対する無力感が、個人に向けた道徳的怒りへ変換される。**

巨大な問題そのものは何も解決していない。

それでも、誰かを糾弾することによって、

**「私は問題に抵抗した」**
**「私は何かをした」**

という感覚を得ることができる。

ここで感情は、主体性を回復するための装置にもなる。

そしてこの循環がSNSによって承認される。

怒る。

投稿する。

共感される。

「いいね」が付く。

仲間が集まる。

すると、

**「私はこんなに怒っている」**

という感情が、

**「私は正しい」**

という確信へ変わっていく。

さらにその確信が、

**「私たちは正しい」**

という共同体を作る。

すると感情は、個人の内面から外へ出て、

**感情 → 共感 → 共同体 → 道徳 → 信仰**

という形で変化していく。

ここまで来ると、もはや一つひとつの論点を検証することが目的ではなくなります。

環境問題について説明すれば著作権へ移る。著作権について説明すれば雇用へ移る。雇用の問題が変われば「魂がない」「本物のアートではない」という話へ移る。

なぜなら守っているのは個別の論点ではなく、

**「私はAIに怒っている」**

という感情と、その感情によって支えられている自己像だからです。

ここで初めて、感情が信仰に近づく。

昔の信仰では、

**神が正しい。**

現代の一部では、

**これほど強く怒っている私が間違っているはずがない。**

となる。

これこそが、感情の神格化です。

感情の不可侵性とその神格化

もちろん、これは「感情を信用するな」という話ではありません。

むしろ感情は、人間にとって極めて重要です。

傷つき、怒り、悲しみ、不安、嫌悪。そうした感情は、何かが起きていることを私たちに知らせる重要なセンサーです。

しかし、

**センサーが反応したことと、そのセンサーが示した原因についての解釈が正しいことは別です。**

私は怖い。

だから危険である。

私は怒っている。

だから相手が悪い。

私は傷ついた。

だから相手を罰してよい。

この間には、それぞれ論証が必要です。

「私は傷ついた」

は否定できない。

でも、

「だからあなたは悪である」

は議論できる。

「私は不快だ」

は尊重されるべきです。

しかし、

「だから社会は禁止すべきだ」

には根拠が必要です。

この区別を失ったとき、感情は神になります。

SNSとは「誰が私の感情より上位の判断を下せるのか?」という問いに対して、
「誰もいない」と答えてしまった装置

そしてSNSとは、もしかすると、

**「誰が私の感情より上位の判断を下せるのか?」**

という問いに対して、

**「誰もいない」**

と答えてしまった装置なのかもしれません。

神が消えたあと、人間は自由になった。

しかしその自由の最後に、誰にも否定できないものとして残った感情を、今度は新しい神として祀り始めている

AIをめぐる議論を眺めながら私が本当に気になっているのは、もはやAIそのものだけではありません。

**神を失った現代人が、自分の感情を最後の不可侵領域にしたとき、社会はどんな場所になるのか。**

そしてさらに言えば、

**感情を尊重する社会と、感情を神にしてしまう社会の境界線は、いったいどこにあるのか。**

たぶん、いま私たちが目撃しているのは、その巨大な実験の途中なのだと思います。

たからこの記事で

論理破城してもなおAI攻撃をしてくる人達を「やべ・・・・」で終わらせることもできるし
今やそれで判断停止!になってしまっているけれどもっと奥があると書きましたが

彼等は生きるための「不可侵性」をある意味で"真面目"に求めていった
それを真面目に求めていけばいくほど今この世界では確実に

自分の感情だけが不可侵である

という結論にたどり着きます。

だから彼等は「正しい」んです。

だから彼等はますます感情的になる→ということはその感情がますます正義化されていく→もっと感情的になる→そして・・・・・

というループの中に入ることになります。

いま全ての領域でおこっていることのコアのコアのコアはこれだったんですね

こう書いてくると、アンタ死ぬほど「emo!!emo!!!emo!!!」と感情命!!!って啓蒙してたじゃんというツッコミもきそうですが

ゴメンナサイ!僕には「おんがくとおんなのこ」っていう不可侵性をもった神がいるんでそうならないんです

そして僕がこれだけAIに全振り、それが一番POPだ!!と確信できるのは
徹底的にそうした「疑似」の不可侵性の対極がAIだからなのだと思います。

Posted by nolongerhuman