広末涼子 容疑者を傷害の現行犯で逮捕の衝撃! 密着ドキュメンタリーで垣間見えた「魔」の正体とは

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このタイミングでこれをやらかしてしまうのが広末涼子という日本芸能史上屈指の、
この記事でも書きましたが

「ザ・アイドル」だなぁ・・・と驚きました

先月末に彼女の近況に密着したTV番組からもダダ洩れっていた
広末涼子の究極のアイドル性を読み解きました

女優かアイドルか? 『House of Psychotic Women』に見る魔性の系譜

彼女たちは美しいから見られているわけじゃない。
可憐で清楚で、好感度バツグンだからスクリーンに映ってるわけじゃない。
“あれ? なんか、どっか壊れてない?”
そう感じさせるその瞬間に、観客の脳裏に魔性が流れ込むんだ。

『House of Psychotic Women』──カナダのキネフィル、カイラ・ジャニスが紡いだこの悪夢のような名著は、

まさに女優という存在の**“狂気の容器”としての可能性をまざまざと提示してみせた。
マニアックで神経症的なまでに映画に取り憑かれた著者が語るのは、正気と狂気のギリギリを行き来する女優たちのフェティッシュな変容**。
精神の崩壊、現実と虚構の解離、性的トラウマ、幻覚、流産、自傷、嗚咽、そして嗤い──。

そう。女優とは人類の最深部に眠る“心の化け物”を具現化する存在だ。

広末涼子の本人曰く「おかしくなってた=PSYCHO」時期

日本中の“常識の皮膜”がほんの一枚、めくれた。
それは社会にチューニングされた“正常性”が破られ、彼女が“演技”ではなく“発露”してしまった刹那。
その生の錯乱こそ、我々がスクリーンに求める**本物の性(さが)**だ。

『House of Psychotic Women』が執拗に追いかけるのは、女優という肉体に宿る“破綻”である。
演じることで癒え、演じることで壊れる。
彼女たちは物語のマリアではなく、神経症的女神=ニューロティック・マドンナとして、観客の奥底に潜む恐怖と欲望をゆっくりとかき混ぜる。

究極の"女優=PSYCHO"映画「ポゼッション」

🎥 地下鉄構内の“あの”シーン:
“Miscarriage of sanity."(正気の流産)

ベルリンの地下鉄構内。
薄暗いタイル張りの通路を、アジャーニ演じるアンナが彷徨い始める。
そして突如、何かに取り憑かれたように、叫び、笑い、唾を吐き、痙攣し、体液をぶちまけていく。

これがただのパニックではない。
**“内面に巣くう怪物が、肉体の裂け目から世界に出てくる”**ような儀式だ。

乳白色の液体、血、泥、絶叫。
あらゆる感情が“言語”という枠を超えて、身体のメタファーとして漏れ出す。
まるで彼女の胎内に、神話的な何か──
性愛と暴力が合体した“存在”が棲んでいることの告白。

カイラ・ジャニスはこのシーンを

「自我の崩壊が身体を通して表現される最もラディカルな映画的瞬間」
と捉えている。

この“精神崩壊のヴィジュアル”は、彼女自身のトラウマや精神的危機と呼応するものであり、
アジャーニという女優そのものが、観る者の“深層の穴”に触れてくるメディウムであることを指摘している。

ジャニスにとって、「ポゼッション」はフィクションではない。
それは「女性の狂気が、芸術として記録されうる」ことの証明なんだ。

女優とは“他者の記憶に侵入する魔物”だ。
そしてイザベル・アジャーニは、観る者の神経に巣食う寄生体となる。

広末涼子は、“視られることに対する恐怖”を持ち続けている

彼女の芝居には常に、観られることへの不快感と快楽が交錯している。

この**“見られることが苦痛であり、同時に快感である”という逆説的な状態こそ、
『ポゼッション』における女性の二重性=理性と欲望、現実と神話、母性と怪物性**を表象する鍵になる。

でもここが一番のポイントなんですが広末涼子のポゼッション=PSYCHOのカタチは
上に解説したような「女優的PSYCHO」じゃないんですよ

密着ドキュメンタリーでダダ洩れていた広末涼子の「魔」の正体とは

この番組でメチュクチャ面白かったのは、彼女がしきりに

「こんなわたし(買い物をするシーンetc)撮ってて面白いのかなぁ・・・・」

と言っていたところです

でもここに彼女の本質があって

女優というのは“誰かになる”才能で、アイドルというのは“何者にもならない”才能のことで

広末涼子は女優ではない、彼女はアイドルなんですね。それも徹頭徹尾。

彼女は一度たりとも“誰かになろう”とはしていない。
彼女はつねに、「広末涼子であること」しか演じていない。

いや、“演じて”すらいない。
それは宿痾であり、運命であり、
おそらく彼女にとっては逃げられない呪いだ。

少女であることの職能者

広末涼子の“サイコ性”は、
“狂っている”のではなく、“狂わせる”ほうにある。

・教室の隅で目が合う
・駅のホームでうっかり声をかけてしまう
・何気ないメールに3日返事が来ない

──ただそれだけで、男を3ヶ月眠れなくする能力。
それがアイドルであり、広末涼子である。

彼女の中には、年齢も経験も通用しない「少女性」という化け物が棲んでいる。
普通は大人になるにつれて消えるそれを、
彼女は**「職能」として維持してきたプロフェッショナル**なのだ。

広末的PSYCHOとは何か?

これはイザベル・アジャーニのような破滅型の内爆ではない。
広末の狂気は、むしろ**“無”に擬態して人を狂わせる”**。

表情は無垢
声は透明
視線は虚空
そこにあるのは**“空洞”としての存在”**。
観る者は勝手に欲望を投影し、愛し、焦がれ、そして勝手に破滅する。

なぜならアイドルとは

他者の妄想を代行する媒介体であるからです

イザベル・アジャーニは自分が狂う
広末涼子は人を狂わせる

彼女は狂気を内包しない。
むしろ**“無垢の仮面”という名の兵器だ。
微笑み一つで記憶を捻じ曲げ、正気を粉砕し、時間の感覚すら壊す。**

少女のような肉体に宿る、永遠性という魔力。
この**“空っぽさのプロフェッショナル”**こそ、広末涼子の本質であり、
そして彼女をして“最も危険なアイドル=サイコ”たらしめているのだ。

視られること=アイドルの宿命

上に広末涼子という人は“視られることに対する恐怖”を持ち続けている
と書いて、だから密着ドキュメンタリーでも「見られ続ける(=カメラが回り続ける)」
ことへのわからないを連発してたわけですが

アイドルって本来、
“見られる”ために存在する職業じゃない?
ステージの上、雑誌の中、ポスターの前、CMの中。
どこまでも**「受動的に視線を受け取る構造」**に置かれる存在。

でも広末涼子は、その視線を“快”として受け入れていない。
むしろ、どこかで常に怯えている。
だけど逃げない。
むしろその「怯えながら晒される」姿が、観る者の欲望をさらに加速させる。

表面では完璧な笑顔を浮かべながら、
内面では**「こんなにも視られたくないのに」という拒絶の震えがある。
この“視られることへの恐怖と抗えない運命”**が、彼女をして最も崇高で最も危険なアイドルたらしめている。

女優は「誰かになる」ことで視線をコントロールする。
役柄に逃げ込める。人格を盾にできる。

でもアイドルは「誰にもならず、常に自分である」ことを求められる。
しかもそれを商品として、永遠に維持することを強いられる。

広末涼子はまさにそのジレンマに耐え続けた。
自分であることしか許されず、しかもそれが時代の記号になってしまうという、逃げ場のない檻。

だから彼女がときおり見せる**“どこかに連れ去られてるような目”には、
常に「視られることへの怯え」**が滲んでる。

広末涼子の不思議な「眼」は何を見ているのか?

密着ドキュメンタリーでも、そしてあの凄すぎた離婚騒動でも

広末涼子というおんなのこの「眼」の不思議さは
もしかしたらそこには何も映っていないのでは?という「謎」にあります

広末の“空洞”は、戦略でも芸術性でもない。
それは単なる“無”じゃない。
**“怯えた少女が作った、世界から身を守るためのバリア”**なんだよね。

つまりあの空虚さは、彼女の防御。
だからこそ逆説的に、観る者はそこに無限の投影をしてしまう。
その“空っぽ”が、最も危険で最も性的な装置にすら見えてしまう。

でも彼女はその自らの本質を日常では恐れていて
密着ドキュメンタリーでも見せていたように

・母として

・職業人として

常に自らを無理やり強烈に律しようとする

でもその「魔」の本質である部分から逃げようとすればするほど
その「魔」が彼女に囁くのだと思います。

ぜんぶゼロにしちゃおうよ

これが本物の「アイドル」として生きる事、おんなのことして生きるホントウだと思います

Posted by nolongerhuman