上島竜兵氏の自殺と有吉弘行氏的「平成」の終わり
吉本興業による莫大なプロモーションによって
今や国民行事としてあらゆる人々が「笑い」について語るためのハブとなった
「M-1」や、ロックにおけるインディーシーンのあり様と相似形をなす
いわゆる「地下芸人シーン」が、SNSとライブの攻勢によって
TVを含めたマスメディア上でのお笑いとは一線を画すムーブメントを築いている
現在の日本は俯瞰して世界的に見ても
「アニメ大国」以上の「お笑い大国」だと認識しています。
そうなるであろう事を予見し、現在のあらゆる"お笑い評論・考察"のバイブルとなったのが
小林信彦先生による「日本の喜劇人」でした。
この名著は今のSNS上でのお笑いファンダムの方々の喜劇人・芸人への
「語りへの熱量」を50年以上前に先取りしていたその先見性もさることながら
もっと重要なCOREは
そのお笑いを生み出す本質は時代の本質と密接にリンクしている
その時代がどんな世界であったのか知りたければ
その時代の笑いの本質を知らなくてはならない
という革命的な評論スタイルを確立してしまったことにあります。
芸人が世界を笑い飛ばす時、それはニアイコールで古ぼけた世界を「殺す」時
僕らが芸人を見て爆笑するとき、それは=自らを苦しめていたものが「認識という亡霊」だと覚醒するとき
そんな芸人と観客の「共犯関係」を最初に暴いたのが日本の喜劇人というテキストでした。
今回のエントリー記事はその範に則り、喜劇人・上島竜兵氏の自殺と有吉弘行的なるものの正体について書かせていただきます。
ひこその前に当アカウントが執筆した「無敵の人3.0」で描いているように鬱や摂食障害といった心因性の疾患は今回の上島氏の自殺関連報道に必ず両記されているようなカウンセリングやクスリによって回復を目指すより海外で行われている器質へ直接アプローチする最新の医療がマストだと考えています。日本でもそうした風潮が進むことを願います
「イジり」か「いじめ」かというナンセンス
西に吉本興業があるならば東には太田プロダクション。
そんな巨大芸能プロ所属であったこと、そして昨今の放送倫理規定から
今回の上島竜兵氏の自死に関する報道は収まりのいい物語として収束しようとしていますが
この自殺が、お笑いの時代性という側面において
とてつもなく大きな意味を持ってしまうのはやはり
上島竜兵氏が自殺を選んだ「理由」は何だったのか?
の部分だと思います。
敬愛していた志村けん氏のコロナ死
吉本興業の「レジェンド」松本人志氏が唱える芸風への世間の風当たり
そうした様々な要因は「一因」ではあるけれどもちろん「主因」ではありません。
そして一部に浮上しているのが"リアクション芸人"上島氏が長年受けてきた
「いじり」はどう考えても「いじめ」であり
それが今回の死を招いたという説です
そしてその「いじり」を最も劇的に長年行ってきたのは有吉氏でした。
大辞林によれば「いじり」とは
「他人をもてあそんだり、困らせたりすること」
であり「いじり」を主題とした2006年の小説「りはめより100倍恐ろしい」はベストセラーとなりました。
ではなぜ「いじり(弄り)」は笑いとして成立するのか?
いじりによって発生するもの、それは「烙印」です。
英語で烙印は「Label(ラベル)」ですが、これをもう少し敷衍すると
「Stigma(スティグマ)」つまり日本語で「汚名」です。
他者に対して烙印を押す、汚名を背負わせ事。これが「いじり」という行為の核の部分です。
ではなぜ他者にラベル付けをする事が笑いになるのか?
それはラベル付け・レッテルを張ることでコミュニケーションがショートカットされるからです。
通常、他者とコミュニケーションをとる事は面倒くさいことだったりします。
人は誰でもあらゆる面があり、そこにシチュエーションが倍加されることで
知ろうとすればするほどコミュニケーションは複雑化していきます。
実は誰もがそんなめんどくささ・しんどさからはできれば解放されたいと思っている。
だから
太った奴は「ブタ」であり
鼻くそがついてた奴は「鼻クソ」であり
共感できない長話を嬉々とする奴は「おしゃべりクソ野郎」
“キャラ"化する、人ではなく限りなく"モノ"化してラベル化した時
僕らは「人として接しなければならない」というプレッシャーから解放されて笑い転げる。
「いじり」が笑いになるというのはコミュニケーションのプレッシャーから自由になった喜びの笑いのことなのです。
デブとかチビとかハゲのようにわかりやすい身体的特徴を利用して汚名化する=複雑性から解放する笑いは
太古の昔から存在していました。
しかし平成というERAは「キャラ化」の時代であり
「鬱」という自分を含めた世界の複雑さを処理しきれない事から発生するジレンマの時代
デブチビハゲなんていうシンプルなレッテルじゃあ解放されない
コミュニケーション不全の時代に現れたのが
有吉弘行という芸人でした。
有吉弘行氏とは何者なのか
有吉弘行氏が「悪口あだ名芸人」正にレッテル貼り=いじりの旗手として
再ブレイクしはじめた頃の2008年に出版された
「オレは絶対性格悪くない」という本があります
今のように芸人が生々しい姿を晒すことがマネタイズの手法として有効化される前の
芸人本なのでどこまでがネタでどこまでがリアルなのかの見極めがムズい部分がありますが
3.11の震災直前からコロナ禍の前まで、平成の後半期に完全にお笑いのテッペンを射止めた
正にキングオブコメディの幼少期から上京して芸人になるまでぐらいのバイオグラフィーの記述は
とても興味深いものがあります。
・友達は全くいなかった
・とにかく「可愛い男の子」で女性からモテモテ、しかしそのカワイイというレッテルに反抗していた
・可愛い以外の自らのキャラ(レッテル)を確立するため奇行(ウンコ芸etc)を繰り返していた
・落語家になりたかったが成り方がわからず芸人に。お笑い関係のオーディションは全戦全勝
・そして猿岩石としてデビュー一年で「電波少年」出演、国民的アイドルとなる
なにこの藤井風氏と電気GROOVEの石野卓球氏を足して二で割ったような完璧な「アイドル性」!!!
有吉氏といえば猿岩石としての伝説的ブレイクをデフォルメすることで「一発屋芸人」として
再ブレイクのきっかけをつかんだとおもわれがちですがそれは太田プロダクションの
プロモーション戦略であって実は挫折していない
むしろ猿岩石=アイドル、猿岩石=一発屋という他人によってつけられたレッテルに反抗するために
そうちょうど幼少期に自らを「可愛い」とレッテルしようとした人たちに反抗したのとまったく同じように
奇行(=あだなという名の汚名製造屋)を復活、今に至るという経歴の持ち主なのです。
何故、有吉弘行氏は平成という時代に選ばれたのか
アイドルであるとは容姿4:運命5:人格1 という割合でキャラが確立する事であり
人々がそんなアイドルという存在に熱狂する、自らの「推し」を必要とするのは
人格だけが評価対象となる建前の社会性の外にまだ何かがある事を信じたいから。
有吉氏は平成という時代が生んだ最大のアイドルであり
いじるという他者をレッテルでモノ化する能力
によって自らの人格を規定した芸能史初のアイドルなのです。
容姿も運命も僕らは選ぶことができないので
実はアイドルを推す=自己投影するという行為は
そのアイドルの人格とのシンクロ度の高さが重要になります。
誰もが有吉氏に熱狂し
誰もが有吉氏になりたいと思った時代「平成」
それはほぼニアイコールで誰もがコミュニケーションの複雑さに辟易し
自分以外の他者はできればモノであってほしいと感じ始めた時代だったという事です。
まるでメデューサが魔法で人々を石化してしまうように
有吉氏が芸能人・芸人を次々とレッテル化、汚名でモノ化していく魔法によって僕らは解放され爆笑しました。
今から25年前の電波少年でヒッチハイクを行い、完全に国民的アイドルと化した
22歳の有吉氏をもう一度見てみてください、その姿は驚くほど現在のユーチューバー、
例えばコムドット的なアイドル性が爆発しています。
しかし有吉氏の特異性。「芸人」として特出していたところは
そんな自らのアイドル性さえも否定し、その強靭な自己否定をバネに
自らの核である「奇人」的なふるまいへと回帰したところです。
この場合の「奇人性」とはいいかえれば「トリックスター」という事であり
ほぼ同期のバナナマンとの2007年、ブレイク直線の今から15年前のラジオ番組で
設楽氏が述べているようにその"リミッターが外れた"「いたずら精神」
こそがトリックスター有吉弘行のCOREであり
誰もが平成前半の「昭和を引きづった感じ」を壊したい!
昭和的な嘘から逃れたい!という想いを持っていたからこそ有吉氏はスターダムへと駆け上がっていきます
そして有吉氏が年間のTV出演本数一位になった2011年
起こったのが東日本大震災だったのはもちろん偶然ではないのです
芸人=トリックスターとしての有吉弘行の「死」
昭和の時代にビートたけし氏、山田邦子女史といった偉大なコメディアンを
番組の司会者へと昇格する事に成功した太田プロダクションは吉本興業と同じように
芸人をMCにするメソッドを持っています。
その素晴らしい営業力と影響力、そして近年ではタモリ氏が所属するプロダクションとの関係からも
有吉氏は(勿論「有吉クイズ」や今回上島氏の生前葬ネタで話題となっている「有吉ベース
そしていまだに有吉氏のトリックスター性を求める氏のヲタ=ファンダムの方々のよりどころになっている
ラジオ番組はあったりしますが)実はもう「芸人」というより芸能界のシステムに則ったMCタレントです。
これもネタと心情の振り分けが難しいんですがブレイク後の2012年に出版された
「お前なんかもう死んでいる プロ一発屋に学ぶ「生き残りの法則50」」で将来的には
・とにかく死ぬまでカネを稼げるような存在になりたい
・結婚するなら自分が金持ちの家に生まれた事にコンプレックスを持ってる女性と結婚したい
と書いており、そのたぐいまれなタレント性=アイドル性=運命力こそが現在の氏の立ち位置の根本にある事がうかがわれます
しかし令和と言う新しい時代とそしてコロナによって時代は明らかに変わりはじめています
ちょうど2011年の様に。
さようなら上島氏、さようなら有吉氏
太田プロと奥様の前事務所の影響力により広がりはありませんが
「いじり」か「いじめ」をはじめ上島氏の自殺に関して様々な論調がなされていますが
これまでにこのテキストでお話してきた事からもお分かりの通り
上島氏の死とはCOVID-19と相似形を成す、平成的なお笑いへの最後通牒なのです。
そしてその平成的お笑いの死の後に顕れるもの。
それは昨今言われているような「放送倫理」に則ったゴミみたいな「誰も傷つけない笑い」なんてものではありません。
クレバーな有吉氏は既にそんな時代性を備えた大きな変化に気づいているでしょう。
僕もまた
芸人(すでに90%芸能人ですが)有吉氏を殺すモノ
の正体、新しい笑いの旗手は明確に分かっています。
ただこの今のタイミングで、こういう一歩間違えると有吉氏なら
「SNSクソ野郎」とレッテルを張るであろう人々に正しく彼等の「笑い」が伝わるとは思えないので
ここには書きません。
でもその代わりに彼等の新しい笑いに太宰治のこのテキストを捧げます
さようなら喜劇人 上島竜兵
さようなら喜劇人 有吉弘行
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