国民民主、山尾志桜里氏の公認取り消しへ!! ポストモダン的な謝罪不全の時代を緊急考察
昨日の山尾志桜里氏の会見にほんとうに驚いたので
実はもっと深堀りした記事を書いていたら突如速報で
国民民主、山尾志桜里氏の公認取り消しの一報が・・・・・・・・
でも昨日の会見は今の社会の奥の方に通底している「何か」が可視化された
(斎藤知事の会見と並んで)非常に興味深いものだったので、用意していたものをそのまま下記に記載します。
でも玉木氏はまた女性の方だけポイ捨てなんですよね・・・・
目次
【謝らない政治家はなぜカルト的人気を持つのか?】
それは――彼らが謝らないからだ。
正確には、彼らが「謝るというゲームはもう終わった」と身体で語ってしまっているからだ。
斎藤元彦。山尾志桜里。
彼らは政治家という皮をかぶって現れた、「壊れた社会の予言者」だ。
スーツを着て、選挙に出て、マイクを握って語るのは、まるで正気の人間のように見える。
だが、その口から発せられる言葉は、「もうこの社会は終わってる」という認識を無言のうちに共有するための呪文でしかない。
【“謝らない”は非常識ではない――それはリアリズムだ】
なぜ人々はそこに惹かれるのか?
なぜ彼らの「絶対に謝らない」という態度に拍手を送ってしまうのか?
それは、彼らの態度が、
✅ 誰も信じられないこの時代に
✅ 自分の中でさえ矛盾が増殖する日々の中に
✅ 「もう社会は壊れている」という言語にならない痛みを代弁しているからだ。
人は謝罪できる社会に住んでいるときだけ、謝罪を美徳とする。
しかし謝罪が意味を失った社会では――謝らないことこそが“リアリストの証”になる。
ミシェル・フーコーから見る:「狂気の側が社会を語る」逆転
フーコーは『狂気の歴史』において、
かつて“狂気”は社会の外部に追いやられていたが、近代においてはむしろ社会の管理=制度装置によって「正気」が定義され、狂気が構成されると論じました。
つまり:
狂っている者が“異常”なのではなく、社会がそれを「異常」と名指す装置によって“異常”が生成されている
このロジックに照らすと、現代の「謝らない人」たちは、
かつてなら“逸脱者”として排除されるべき存在
しかし今では彼らの言動を社会が模倣し、中心に据えようとする
つまり、狂気が正気を規定する側に回ったとも言える逆転現象。
これは、フーコーの言う「知と権力の転位」そのものであり、
狂気や逸脱が「病理」としてではなく、「新たな統治理性の一部」に組み込まれてしまった世界
ジャック・ラカンから見る:「象徴界の崩壊と享楽の暴走」
ラカン理論では、人間は「象徴界(Symbolic)」に入ることで他者との関係性=社会性を獲得します。
象徴界とは、言語、ルール、法、父なる名(Nom du Père)といった“社会のコード”のこと。
そこから逸脱することは、“精神病的構造”とみなされる。
⬛「謝らない人」は、まさにこの象徴界を“最初から信じていない”存在
ラカン流に言えば、それは:
「法なき世界、秩序なき言語、責任のない関係性のなかに自我を立てている主体」
彼らは「他者の欲望」を意識せず、「自己の享楽(ジュイサンス)」を押し通す。
山尾志桜里氏や斎藤知事のようなタイプは、
他者のルールに従わず
社会的契約を内面化せず
ただ自分が“快”を得る方向に現実をねじ曲げる
つまり、ラカン的にはこれは「象徴界の崩壊」=精神病的構造が社会の規範になってしまった状況。
◾️補足:なぜこれが「ウケる」のか?
ラカンは「欲望は他者の欲望である」と言いましたが、
現代社会では**“他者の欲望に従わない人間”の姿こそが欲望される**。
→「あいつは謝らない、ブレない、かっこいい」
→「自分もそうありたい」
→ つまり象徴界を壊している人物が、“新たな象徴”になる
これは、象徴界の瓦解が欲望の対象になるという構造的なパラドックスです。
【だがそれは、政治家の資質ではない】
インフルエンサーなら、それでいい。
芸人でもよし、YouTuberでもいい。
壊れた社会を舞台に“壊れた演技”をする者たちは、むしろ時代の尖端だ。
でも・・・・
政治家は違う。
政治家とは、“壊れた社会を直すために存在する職業”だ。
その政治家が、「社会はもう壊れてるし、直す気もないよ、てへっ」と言外に発信し続けているならば、
それはもう――終わってるのは社会じゃない、政治の方だ。
【彼らは病理の優等生だが、未来の落第生だ】
確かに彼らは優秀なサンプルだ。
壊れた社会における、不安と絶望と不信の完璧な写し鏡として。
彼らを研究すれば、現代という時代の病理が鮮明に浮かび上がるだろう。
だが、彼らはその病理を治療する側ではない。
むしろ――
病理に同化し、演じ、消費し、拡張してしまっている存在なのだ。
【だからこそ、謝らない政治家は「終わりの時代」のアイコンであって、「始まりの人」ではない】
私たちが求めているのは、
「謝らなくていい社会」ではない。
「謝ることが意味を持つ社会」だ。
そしてその再構築に必要なのは、
間違いを認め、関係を修復し、もう一度“われわれ”をつくろうとする政治の言葉。
斎藤知事も山尾志桜里氏も
この時代の絶望と痛みを背負ってはいる。
だがその絶望に居直るだけで、未来はつくれない。
あなたたちは現代の病理の極めて精緻なサンプルである。
だが**「社会を作る者」ではない。**
「社会を諦めた者」に、政治家を名乗る資格はあるだろうか?
【トランプは“謝らない”を学んだ男であり、“謝らない”を演出する男である】
ここが決定的だ。
トランプは「謝らない」を生きているのではない。
「謝らない」というキャラクターを演じている。
彼がロイ・コーンから叩き込まれた3つの鉄則――
攻撃せよ
誤りを絶対に認めるな
勝利を主張し続けよ
これらは生存術であると同時に、彼の“メディア戦略”そのものだった。
彼は「謝らない自分」をブランド化し、「絶対に負けない俺」をポップアイコンに仕立てた
【斎藤知事や山尾女史が“病理”であるのは、それが戦略でもパフォーマンスでもなく、“地”だからだ】
彼らは「謝らない」ことを構造的に内面化している。
つまり本人たちは**“謝らない戦略”を選んでいるのではなく、謝れない身体になってしまっている**。
だから彼らはポップにはなれない。
なぜなら、彼らが“反省しない”のは、「魅せるため」ではなく、
“世界がもう通じ合わない”という無意識の断念を背負っているから。
その眼差しの奥にはトランプのような「勝利の笑み」はない。
ただ、「謝ったら崩壊する自己」がガチガチに硬直しているだけだ。
【トランプは“謝らない”をアートに昇華した。だから彼はポップなのだ】
トランプは「謝らない」という行為を、
現代ポップ政治の舞台において**“魅せる技法”として振り付けた**。
会見ではジョークに変える
謝罪要求には皮肉で返す
メディアの批判を逆に武器にして信者を熱狂させる
これは徹底的に観客を意識した演出=芸術行為なんだよ。
彼は“謝らない”ことで、
➡️「お前も心の中では謝りたくないだろ?」
➡️「俺が代わりにそう言ってやるぜ」
と、
大衆の“罪悪感からの解放”を演じているんだ。
トランプは謝らないことでスターになり、
彼らは謝らないことで墓標になっていく。
同じ“謝らない”でも、それがポップか病理かの違いは、“意識の自由度”にあるのだ
22時 追記1 こちらの記事によると山尾氏を推しまくったのは玉木氏とのこと
22時 追記2 にもかかわらず山尾氏を「切る」この玉木氏の発言は死ぬほどヤバすぎる・・・・・結局玉木氏にとって女性とは「モノ」なんだなぁと
国民民主党の玉木雄一郎代表は11日、参院選比例代表での擁立を予定していた山尾志桜里元衆院議員の公認を見送った理由について「有権者、全国の支援者から十分な理解と信頼が得られないと判断した」と説明した。山尾氏の擁立は玉木氏が主導しており「代表の私にも責任がある」と述べたが、責任の取り方については「厳しく受け止めたい」とするにとどめた。国会内で記者団の質問に答えた。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません