驚愕の傑作エキゾチカサウンド!!!! The Irons 「The Blue Bongo Bobby Show」完全解説レビュー!!!!!

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すす凄すぎて驚愕・・・・・・・・

にもかかわらず全く情報がなくて二度驚愕!!!!!

なななななんだこの完璧な"エキゾチカサウンド"2026っぷりは?!?!?!??!

最初にプロフィール的なところだけ紹介させていただくとUSオースティンのBAND(というかプロジェクト?)で
中心メンバーはHayden Havard。

BANDとしてのYoutubeチャンネルとかはない!!!んですが個人チャンネルが存在

2018年のファーストアルバムから数えて

この「The Blue Bongo Bobby Show」が2022年以来の新作

というところがインフォ関連で、でもこれまでのサイケフォークな世界観から完全に逸脱!!!

架空のTVショー的メタ構造の1970年代の細野晴臣氏ソロ作品的大傑作エキゾチカコンセプトアルバムじゃないですか!!

聴くとわかるんですけど凝りまくりの編集力バカ高のまるで
Van Dyke Parks のレジェンド的傑作 Discover Americaの2026年版敵でもありとんでもない作品・・・・・・

まるでカルト映画「まぼろしの市街戦」のように

『The Blue Bongo Bobby Show』をどう捉えるべきか。
それはレトロ趣味のコンセプト・ポップではない。
『まぼろしの市街戦』的な意味での、“虚構のショーだけが生き残る廃墟”をポップアルバムの形で作ってしまった作品なのだ。

『まぼろしの市街戦』で、町に入った主人公がいつの間にか“外の現実”より“中の虚構”に引かれていくのと同じ

狂った現実に対して、演じられた虚構のほうが真実味を持ち始めるという反転構造

『The Blue Bongo Bobby Show』は、その反転構造を“想像上のリアリティーショー”としてポップ音楽に移植した作品である。

記憶と虚構とエキゾチカ

マーティン・デニーのエキゾチカを聴いていると、いつも奇妙な気持ちになる。

あれは南国音楽ではない。
ハワイでもない。
ジャングルでもない。
楽園でもない。

むしろ、誰かが一度も行ったことのない南国を、どこかのホテルのラウンジで思い出している音楽なのだ。

鳥の声。
ヴィブラフォン。
ボンゴ。
湿った空気。
ありもしない夜。
ありもしない島。
ありもしない記憶。

なのに、その音はなぜか懐かしい。

ここにエキゾチカの恐ろしさがある。
エキゾチカとは異国趣味ではない。
記憶そのものがすでに虚構であることを、甘いカクテルのグラス越しに告げる音楽なのだ。

細野晴臣のエキゾチカは、マーティン・デニーの作った偽の南国を、さらにもう一度夢の中で録音し直したような音楽だった。
『はらいそ』にしても、『泰安洋行』にしても、そこにあるのは本物のアジアでも、本物の南国でも、本物の異国でもない。

むしろそこにあるのは、本物という概念そのものがすでに負けている世界だ。

東京の部屋で鳴らされる架空の南洋。
戦後日本の記憶の底に沈んだアメリカ。
ラジオから流れてきたカリブ。
港町の匂い。
古い映画の中のチャイナタウン。
どこにも存在しなかったのに、なぜか自分の幼年期にあった気がする風景。

細野晴臣の音楽は、いつもこの境界にいる。

あったのか。
なかったのか。
覚えているのか。
作っているのか。
自分の記憶なのか。
誰かのレコードから感染した幻覚なのか。

その問いの答えは、最初から存在しない。

なぜなら、記憶と虚構に境目はないからだ。

『まぼろしの市街戦』とは何だったのか。
あれは戦争映画ではない。
反戦映画ですら、まだ甘い。

あれは、正気と狂気、現実と芝居、社会と遊戯、死と祝祭の境界が、すべて崩れ落ちたあとの世界である。

戦争という巨大な現実があまりにも狂ってしまったために、精神病院の住人たちのほうが、むしろ世界を正しく演じ始める。
彼らは王になり、将軍になり、貴婦人になり、ピエロになり、街を祝祭に変える。

だがそれは単なる幻想ではない。

むしろそこでは、現実こそが最も粗悪なフィクションであり、狂人たちの演劇こそが、世界の本当の姿を暴いてしまっている。

つまり『まぼろしの市街戦』とは、
現実が壊れたとき、人間は虚構によってしか存在できない
という映画なのだ。

そして『The Blue Bongo Bobby Show』もまた、まったく同じ場所に立っている。

ポップミュージックとは、記憶が虚構へ落下する瞬間に鳴る音である。

それはブラックホールに似ている。

ブラックホールの事象の地平面を越えると、外側からはその物体が永遠に止まって見える。
落ちているのに、止まっている。
消えているのに、そこにある。
死んでいるのに、光として残っている。

ポップミュージックも同じだ。

ある曲を聴いた瞬間、僕たちは過去へ落ちる。
しかしその過去は、本当にあった過去ではない。
音楽によって今この瞬間に生成された過去だ。

ここで、どうしても量子脳理論の話をしたくなる。

量子脳理論とは、ものすごく乱暴に言えば、人間の意識とは単なるコンピューター的な情報処理ではなく、量子的なゆらぎや重なり合いの中から立ち上がっているのではないかという考え方だ。

人間は過去を、そのまま再生しているのではない。
曲を聴く。
匂いを嗅ぐ。
古い映像を見る。
誰かの声を思い出す。

その瞬間、過去はもう一度、現在の中で組み直される。

つまり記憶とは、保存ではなく、観測である。

観測されるまで、記憶はひとつに決まっていない。
本当にあった記憶。
なかったはずの記憶。
他人の映画から盗んだ記憶。
レコードのジャケットから感染した記憶。
古いテレビ番組のノイズから生まれた記憶。

それらが脳の奥で、いくつもの可能性として重なり合っている。

そして音楽が鳴った瞬間、その中のひとつが立ち上がる。

マーティン・デニーの鳥の声を聴いたとき、僕たちは本当に行ったことのない南国を思い出す。
細野晴臣のエキゾチカを聴いたとき、僕たちは自分のものではないはずの港町の記憶に包まれる。
『まぼろしの市街戦』を見たとき、僕たちは現実よりも正しい狂気の祝祭を、どこかで経験したことがあるような気になる。
『The Blue Bongo Bobby Show』を聴いたとき、僕たちは存在しないはずの深夜番組を、なぜか子供のころに見ていたような気がしてしまう。

これこそが、ポップミュージックの量子脳的瞬間なのだ。

ポップミュージックとは、過去を思い出させるものではない。
ポップミュージックとは、過去という可能性を、その瞬間だけ現実化してしまう装置なのだ

超ーーーーーーーーーーーーーーーー傑作です

Posted by nolongerhuman