ワタシを手放せ!グルーヴを掴め!! テレビ大陸音頭 傑作1stアルバム『VS Tairiku Ondo』完全レビュー!!!

その他

あの「俺に真実を教えてくれ!!」から二年!!!

遂にテレビ大陸音頭1stアルバム『VS Tairiku Ondo』がリリースされました!!!

テレビ大陸音頭とは何者なのか? そして何故日本のロック史に刻まれる傑作デビューアルバムが爆誕したのか???
徹底完全深掘りレビューです!!!!

JPOPが、洋楽に対する「編集力」を失うことで、いったい何を失ってしまったのか。

テレビ大陸音頭の傑作1stアルバム『VS Tairiku Ondo』が鳴らしているのは、まさにその問いへの、
あまりにも痛快で、あまりにもポップで、あまりにも身体的なアンサーである。

失われたもの。

それは、グルーヴだ。

米津玄師に代表されるボカロ以降のJPOP。KAWAII LAB.や乃木坂に代表されるアイドルポップ。
そしてMrs. GREEN APPLEにまで至る、現在の巨大なJPOPの潮流。

もちろんそこには、メロディの強度がある。言葉の強度がある。物語の強度がある。
ワタシの痛み、ワタシの輪郭、ワタシの救済、ワタシの居場所。
それらは極めて精密に、極めて繊細に、極めて現代的に磨き上げられている。

だが、その代わりに何かが失われた。

それが、グルーヴである。

グルーヴとは何か。

それは「遠心力」である。

グルーヴが解体するワタシという物語

自分の内側へ、内側へ、内側へと沈み込んでいく力ではない。むしろ逆だ。
身体が勝手に外へ持っていかれる力。言葉が意味から解放され、リズムの中でバラバラにされ、
メロディが感情の器ではなく運動そのものになっていく力。

そこでは「ワタシ」は主役ではない。ワタシはグルーヴの中に投げ込まれ、ゾーンに入り、やがてワタシであることを一度手放す。

かつてJPOPが洋楽ともっと濃密に接続していた時代、コトバはリズムによって解体されていた。

日本語は、意味を伝えるためだけのものではなかった。跳ね、転がり、引っかかり、ズレ、反復し、身体の中で別の物質になっていた。
そこでは「私の気持ちをわかってほしい」という内向きの祈りよりも先に、

「このビートの中で、もう私なんてどうでもよくなってしまえ」という解放があった。

ところが、今のJPOPは真逆の場所へ向かっている。

ひたすらワタシの在処を探す。ワタシの傷を守る。ワタシの孤独に名前を与える。ワタシの物語を補強する。
もちろんそれは、現代がそれだけ生きづらい社会になったということでもあるのだろう。
誰もが傷つき、誰もが不安で、誰もが自分の輪郭を守ることに必死になっている。
だから音楽もまた、ワタシを溶かすのではなく、ワタシを守るものになっていく。

しかし、そこでテレビ大陸音頭である。

圧倒的な洋楽への編集力が意味するもの

このアルバムがとてつもなくフレッシュに鳴るのは、彼らがその流れに対して、ほとんど無邪気なほど強靭に、外へ出ようとしているからだ。

外へ。

外へ。

ワタシの内側ではなく、外へ。

自意識の部屋ではなく、グルーヴの荒野へ。

『VS Tairiku Ondo』に鳴っているのは、圧倒的な洋楽への編集力である。
ただの引用ではない。ただのオマージュではない。ただのレトロ趣味でもない。
トーキング・ヘッズ、ニューウェーブ、ファンク、アフロビート、ポストパンク、サイケ、ダブ、そしてどこか盆踊り的な反復衝動。
そうした外来のリズム、外来の構造、外来の身体感覚を、極めて日本語的で、極めて奇妙で、極めてポップなものへと再編集している。

だからこれは、懐古ではない。

これは、奪還である。

JPOPが忘れてしまった、洋楽を日本語の身体で変形させる力。
海外のグルーヴを、そのまま輸入するのではなく、変な日本語、変な節回し、変なユーモア、変な身体性で、
まったく別のポップへと捻じ曲げる力。
その「編集力」を、テレビ大陸音頭はほとんど突然変異のような鮮度で取り戻している。

だから実は、このアルバムは極めてKPOP的でもある。

テレビ大陸音頭は極めてKPOP的であること

なぜなら現在、最も洋楽的グルーヴに対する編集力が高いポップミュージックの現場は、間違いなくKPOPだからである。
LE SSERAFIMが「Spaghetti」でマッドチェスターを現代的にアップデートしてみせる。

CORTISが1980年代のテクノポップを、ヒップホップとして再び召喚してみせる。

KPOPはいつも、洋楽の断片をただコピーするのではなく、過剰に編集し、過剰に圧縮し、過剰にスタイリングし、別のポップとして再起動させる。

テレビ大陸音頭もまた、その意味でKPOPと接続している。

彼らはKPOPのように磨き上げられた肉体を持っているわけではない。
巨大資本のトレーニングシステムを背負っているわけでもない。
だが、洋楽のグルーヴを自分たちの奇妙な身体へ通過させ、まったく新しいポップとして鳴らすという一点において、
彼らは現在の日本のバンドの中で最もKPOP的であり、最も世界標準なのだ

<こうやって3曲並べてみるとその"自由度"に「なーるほど!!」ですよね!!/p>

ストップメイキングセンス!!!! 外へひたすら外へ!!!!

彼らが敬愛するトーキング・ヘッズは、『Stop Making Sense』というタイトルそのものによって、物語からの逃走を宣言した。
デヴィッド・バーンは、アフリカン・グルーヴへとダイブすることで、ロックバンドという自意識の檻を壊した。

そこでは「俺が何を言いたいか」よりも、「この反復の中で何が起きてしまうか」の方が重要だった。
意味を作るな。物語を整えるな。身体を鳴らせ。グルーヴに入れ。ワタシという物語を一度、手放せ。

テレビ大陸音頭もまた、その系譜にいる。

収録曲「超常現象を信じてみる」で、彼らはまるでマントラのように叫び続ける。

「外ってなんかこんなに綺麗だったっけと思う」

この一節こそ、このアルバムの核心である。

内側ではない。

外だ。

自分探しではない。

外へ出ることだ。

ワタシを守ることではない。

ワタシを手放すことだ。

そしてその時、はじめて世界は「こんなに綺麗だったっけ」と立ち上がる。

これは単なるサイケデリックな感覚ではない。これは、現在のJPOPがあまりにも長く忘れていた自由の感覚である。

メロディの中に閉じこもる自由ではない。言葉で自分を守る自由でもない。

グルーヴの中で、自分の輪郭がほどけていく自由。リズムに持っていかれる自由。

意味が壊れ、身体が先に反応し、気づいたら外に出てしまっている自由。

だから『VS Tairiku Ondo』は心地よい。

癒してくれるからではない。

寄り添ってくれるからでもない。

あなたはあなたのままでいい、と言ってくれるからでもない。

むしろ逆である。

あなたなんて一度どうでもよくなってしまえ。

ワタシを脱げ。

部屋を出ろ。

意味を止めろ。

グルーヴに入れ。

外へ行け。

外ってなんかこんなに綺麗だったっけと思え。

その乱暴で、やさしくて、バカバカしくて、切実な呼びかけが、このアルバムには鳴っている。

JPOPが洋楽から距離を取ったことで失ったもの。それは、海外コンプレックスではない。
英語への憧れでもない。ロックの正統性でもない。

失われたのは、洋楽という外部を編集することで、自分自身の内側を破壊する力だった。

テレビ大陸音頭は、それを取り戻そうとしている。

しかも、深刻ぶらずに。

理論武装せずに。

踊りながら。

ふざけながら。

外ってなんかこんなに綺麗だったっけと思いながら。

だからこのアルバムは、とてつもなくPOPなのだ。

そして、とてつもなく自由なのだ。

ワタシではなく、グルーヴへ。

内側ではなく、外へ。

テレビ大陸音頭は、今のJPOPが忘れていたその遠心力を、もう一度、馬鹿みたいな眩しさで鳴らしている。

彼等が戦っているもの。だからこのアルバムの正式タイトルは「JPOP VS Tairiku Ondo」だ

ロック史に残る傑作デビューアルバムだと思います

Posted by nolongerhuman