星河入梦 Per Aspera Ad Astra 見てないのにレビュー!!!! 生成AI時代こそ「夢映画」の時代!!(のはず・・・)
えーー・・・最初にお断りしておくと既に興行収入の結果は「惨敗」となっているうえに
中国で見た人たちの評価も酷評の嵐・・・・・
『インセプション』、『レッド・ペッパー』、『インターステラー』、『レディ・プレイヤー1』、『マインクラフト』、『マトリックス』「パプリカ」を低予算で寄せ集めたような作品
子供だましとしかいいようがない
が!!!!!が!!!!!しかし僕はですねーーこの「星河入梦 Per Aspera Ad Astra」の質感、そして「夢映画」こそが生成AI時代の「コア」になると思っています
POP中毒者にとって鬼門の中国
すごく不思議なのは連日書いているようにseedance2.0をはじめ動画系生成のツールとしてはもうほぼ中国系サービス一択だし
プラットフォーマーとしてのTIKTOKの凄さもふくめてテック系における中国の途轍もなさは身に染みていますが
ことさら
「じゃあポップカルチャーとしてのCカルチャーって??」
っていわれると映画も音楽も僕にとっては「・・・・・・・・・・・・・・・・・」な国が中国で
つまりはっきり言って「POP」なコンテンツがない、もしくは「下手」っていう意識がずーーーっとあるんです
でも「あれ??」と思ったのはやっぱりあの「ラブブ」を仕掛けのが中国の文字通り「POPMART」で
あのPR戦略はまごうことなき「POP」な導線だったのがきになってたわけです。
で何度もいいますが既に「駄作」あつかいされてますけど、僕はこの星河入梦 Per Aspera Ad Astraに
中国映画の「POPNESS」の未来を見た!と
夢映画こそが生成AI時代のSUPREMEコンテンツ!
なぜか、ほんとーーーーーーーーーーーーーーーーーーーに何故かわかりませんが
いわゆる「映画通」のお歴々には「夢オチ」なんて言葉があるように
夢映画=駄作
とされてますが、僕は本気で「夢映画」が大大大大好きです
ジャーロ映画史上最高傑作「夢映画」である
Footprints on the Moonも
これまた駄作!幼稚!!とされた夢映画Sucker Punchも
もちろん「陽炎座」も
「インランドエンパイヤ」も
そしてケネスアンガーの夢の集大成としての魔術映画も
そしてそして!!!ずーーーーーーーーーーーーーーーーーっと大傑作だと思っていたのに公開時には大酷評
そしてよーーーーーーーーーーーやく近年再評価されつつある(よーーーやくかよ!!!!!!!)「THE FALL」や「THE CELL」
ジャンルで言ったら最も愛しているのは間違いなく「夢映画」です
その夢映画野郎が「おーーーーーーーーーーー」となったのが夢をコントロールしている内に夢が現実を侵食し始めるという
星河入梦 Per Aspera Ad Astraです。
夢映画とは何か?という本質は多分日本で一番書いてきたのでこれらを読んでいただけたらですが
撮るではなく生成するへと変化しつつあるAI時代の映像制作において、これまで「物語映画」こそが「映画」であるとされてきた常識は確実に変わります。
その時最も優れたポップコンテンツになるのが「夢映画」なのです
生成することと夢見ること
もはや、生成AI時代の映画の本流は「物語映画」ではない。
本流は夢映画である。
ジャーロのように、デヴィッド・リンチのように、鈴木清順のように、因果で世界を閉じず、説明で観客を安心させず、意味が意味のまま整列する前の、あのイメージの震えそのものを差し出す映画。そこにこそ、これからの映画の中心がある。
なぜか。
それは、これまでの映画史の中心にあった「物語映画」が、つまるところ撮るという行為に根差していたからだ。
カメラを置く。俳優を立たせる。空間を組む。時間を切り取る。出来事を接続する。
つまり映画とは長いあいだ、現実を採取し、その採取された断片を編集によって秩序化する芸術だった。
そこでは物語が強い。なぜなら現実を撮る以上、世界には前後があり、身体には移動があり、行為には理由があり、カットとカットのあいだには「こうなったから、こうなる」が発生してしまうからだ。
映画史とは、ある意味でこの「因果律の美学」の歴史だった。
だが、生成は違う。
生成AIは世界を撮らない。
生成AIは、世界を出現させる。
ここが決定的なのだ。
撮影は現実を起点にする。
生成はイメージを起点にする。
撮影は外部を記録する。
生成は内部を召喚する。
撮影は現実の断片を編集する。
生成は、最初から断片化され、変形し、飛躍し、溶解したイメージの連鎖そのものを立ち上げる。
つまり生成AIとは、映画を「現実の再構成」から「無意識の顕像」へと反転させる装置なのだ。
ここでジャーロが再評価され、リンチが再降臨し、鈴木清順が未来になる。
なぜなら彼らは最初から、映画を「説明の器」ではなく、感覚と欲望と不安の迷宮として扱っていたからだ。
赤がただの赤ではなく、血の予感であり、欲望の染みであり、記憶の傷になる。
廊下は移動空間ではなく、悪夢の深度になる。
女は登場人物である前に幻影となり、男は主人公である前に欲望の残響になる。
物語は進行するのではなく、漂流する。
時間は前へ進むのではなく、巻き戻り、横滑りし、腐食し、突然こちらを見返してくる。
そう、夢映画とは「何が起きたか」を見せるものではない。
なぜそれがこんなにも忘れられないのかを見せるものなのだ。
生成AIは、この夢映画の論理と異様なほど相性がいい。
いや、相性がいいどころではない。
生成AIは最初から夢映画的である。
指が六本になる、顔が溶ける、街が別の街へ連結する、昼と夜が同時に存在する、衣装が意味なく変態する、空間が連続していないのに感情だけが連続する。
従来なら「破綻」と呼ばれたものが、生成においては無意識の文法として立ち上がる。
ここが革命なのだ。
物語映画が必死に排除してきたノイズ、逸脱、飛躍、断絶、説明不能性。
そのすべてが、生成AIにおいては欠陥ではなく、むしろ生成の核になる。
夢とは何か。
夢とは、物語が壊れたあとの真実である。
昼の理性が崩れ、社会の文法がほどけ、抑圧された欲望、言葉になる前の恐怖、名前のない郷愁が、勝手な編集で、勝手な配役で、勝手な色彩で再編成される場所。
生成AIもまたそうだ。
こちらが与えるのは命令のようでいて、実際には呪文に近い。
プロンプトを書くとは、脚本を書くことではない。
無意識に向けて鍵穴を差し込むことだ。
すると機械はそれを読み、こちらが意識していなかった連想、こちらが選んだつもりで選ばれていた記号、こちらの美意識の奥に沈んでいた原風景を、半ば勝手に、しかし異様に正確に返してくる。
そのとき私たちは初めて知る。
生成とは制御ではない。
生成とは対話である。
しかもそれは理性との対話ではない。
無意識との対話なのだ。
ここで重要なのは、生成AIを単なる効率化ツールだと見る視点の貧しさである。
そんなものではない。
生成AIは、映画制作を省力化する機械ではない。
それは、映画そのものを夢の側へ引き戻す媒介なのである。
映画は長いあいだ、脚本と演出と撮影と編集の統治下にあった。
しかし生成は、その秩序に亀裂を入れる。
ショットは理由より先に現れ、演出は意図より先に変容し、編集は設計より先に連想へ接続される。
作家は王ではなくなる。
むしろ夢を記述し、夢に裏切られ、夢のほうから届くイメージに打たれる夢の交信者になる。
映画監督とは、ついに「撮る人」から「夢と交信する人」へ変わるのだ。
だからこれからの映画の中心に来るべきなのは、起承転結をきれいに運ぶ優等生的な物語ではない。
説明しすぎる映画ではない。
伏線を回収し、設定を整え、観客の理解を保証する映画ではない。
そんなものは、もちろん今後も存在するだろう。
だがそれはもはや本流ではない。
本流になるのは、意味になる前の感情、構造になる前の裂け目、物語になる前の衝動をそのまま映像へ変える映画。
つまり、夢の論理で進み、無意識の色彩で燃え、見る者の内部であとから物語が発生してしまうような映画。
理解される映画ではなく、取り憑く映画。
それが生成AI時代の王道になる。
ジャーロの悪趣味なまでの色彩。
リンチの因果を拒絶する粘液のような不穏。
鈴木清順の映画が持っていた、物語を踏み台にしてイメージが暴走していくあの気高さ。
それらは過去の異端ではなかった。
むしろ早すぎたのだ。
彼らは、まだ生成AIのない時代に、すでに夢映画の未来を先取りしていた。
そして今、その未来に技術が追いついた。
いや、技術が追いついたというより、技術によって映画の本性が暴かれてしまった。
映画とは本来、現実の複製ではなかった。
映画とは本来、夢の工学だったのだ。
映画史上はじめてそして遂に「夢映画」こそがメインストリームになる時代がやってきます
なんとかして星河入梦 Per Aspera Ad Astra見ようと思います!!











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