自転車という自由とネックスピーカー。誰が青切符制度を推し進めたのか?
有名なトリュフォー監督ほどじゃないけど
やっぱり自転車のイメージは「自由」で!!!
今月よりいわくつきの「青切符」制度がスタートしたことにやっぱりモヤっています
目次
誰が制度化を推し進めたのか?事実確認編
実務的に主導したのは警察庁で2024年に
改正の道路交通法で、これには
自転車のながらスマホ規制強化
酒気帯び運転の罰則整備
自転車への交通反則通告制度(青切符)導入
が含まれていて
2024年3月5日に内閣提出法案として国会に出され、5月17日に国会で可決、5月24日に公布されました。
国会での担当政治家:松村祥史 国家公安委員長
与野党の全会一致に近い合意型でした
この法案には識者検討会が設置され
「良好な自転車交通秩序を実現させるための方策に関する有識者検討会」と命名
川本 哲郎(元同志社大学法学部教授)※座長
飯島 淳子(東北大学大学院法学研究科教授)
川出 敏裕(東京大学大学院法学政治学研究科教授)
絹 代(サイクルライフナビゲーター)
後藤 浩之(一般財団法人自転車産業振興協会 常務理事)
小林 成基(特定非営利活動法人 自転車活用推進研究会 理事長)
髙汐 康浩(全国学校安全教育研究会会長・東京都府中市立府中第八中学校長)
比嘉 里奈(公益社団法人 日本PTA全国協議会 副会長)
藤田 悟郎(科学警察研究所交通科学部 部長)
らが法案に「お墨付き」を出しました。
「法と取締りはすぐ動くが、空間整備や予算措置や都市構造の更新は遅い」日本社会の統治スタイルの象徴
自転車の話に見えて、これはたぶん、いまの日本そのものの話なのだ。
ルールが先に来る。
整備はあと。
条件はあと。
現実はあと。
まず「正しくあれ」が命じられる。
走りやすい道があるかどうかではない。
守りやすい社会があるかどうかでもない。
先に規範だけが降ってくる。
この国の統治はしばしばそういう顔をする。
生活の現場をつくり替えるより先に、行動だけを矯正する。
守れるようにしてから守らせるのではなく、守れという言葉だけが先に発令される。
自転車の法改正は、その日本的統治スタイルの、あまりにも鮮やかな象徴だ。
しかもその背景には、時代の空気がある。
不寛容の時代。
余白がどんどん失われ、逸脱に対する社会の許容量が縮んでいく時代。
かつては「まあ危ないけどね」で済まされていたものが、いまは「危ないから禁止」で閉じられていく。
そこにあるのは、安全の名を借りた正しさの加速だ。
もちろん安全は大事だ。
事故は減らさなければならない。
でも問題は、その正しさがしばしば、世界から風景を奪うことだ。
人間の移動から、偶然と快楽と逸脱のきらめきを剥ぎ取ってしまうことだ。
トリュフォーが自転車に託したのは法の外側にわずかにこぼれ落ちる生の運動だった。
トリュフォーの映画において、自転車はただの移動手段ではなかった。
それは、子どもが世界から少しだけ逃げ出すための装置であり、
都市の隙間をすり抜けるための羽であり、
規律より先に身体が世界に触れてしまう、その速度そのものだった。
自転車とは自由だったのだ。
まっすぐに舗装された自由ではない。
少し危うく、少しよろめき、でも確かに自分の足で漕いでいる自由。
命令されていない自由。
まだ言語になっていない自由。
トリュフォーが撮ろうとしたものの一つは、たぶんその、法の外側にわずかにこぼれ落ちる生の運動だった。
そして都会のサイクリングもまた、ずっとそうだった。
ヘッドフォン。
イヤホン。
耳のすぐ内側で鳴るポップミュージック。
ビル風。
夕方の高架下。
信号待ちの赤。
青に変わる一瞬。
あのとき人は、ただ移動しているのではない。
自分のためのMVを生きている。
街路樹の揺れがバックダンサーになり、
コンビニのガラスが一瞬だけスクリーンになり、
失恋のあとで聴く一曲が、帰り道そのものを映画に変える。
都市を走ることは、都市を消費することではなく、都市を自分の感情で再編集することだった。
そのときイヤホンやヘッドフォンは、音響機器ではない。
自由の編集機だった。
だがいま、その自由が法の言葉で囲い込まれていく。
聴くな。
塞ぐな。
危ない。
もちろんそれは正しい。
正しいに決まっている。
でも、正しいことと、豊かなことは、いつだって同じではない。
安全と引き換えに、人は何を手放すのか。
ここで失われかけているのは、単に「音楽を聴きながら自転車に乗る習慣」ではない。
都市とポップミュージックが秘密裏に結んできた親密な関係そのものだ。
身体のリズムと街のリズムが、ひとつの曲で不意につながる、あの魔法だ。
ネックスピーカーが最高過ぎて超ーーーーーーーーーーーーーオススメ!!!!
だが――
ここで終わる必要はない。
自由は、形を変えて生き延びる。
ここが大事だ。
法が自由を完全に殺すわけではない。
自由はいつも、別の回路を発明する。
そう、解決策はある。
みんな、ネックスピーカーをつけよう!!!!!
これ、冗談みたいに聞こえるかもしれない。
だが違う。
これはかなり本質的な提案だ。
なぜならネックスピーカーは、ヘッドフォンでもイヤホンでもないからだ。
耳を密閉しない。
外界を消さない。
クラクションも、ブレーキ音も、人の気配も、街のざわめきも、ちゃんとこちらに届く。
そのうえで、音楽が首元からふわっと立ち上がる。
この「ふわっと」が革命なのだ。
イヤホンの音楽は、世界を遮断して、内面を深く掘る。
ヘッドフォンの音楽は、都市を切断して、自分だけの映画館をつくる。
だがネックスピーカーの音楽は違う。
世界を消さず、世界の上に音楽を薄く重ねる。
街の環境音とポップスが競合しない。
共演する。
横断歩道の電子音。
遠くの救急車。
カフェから漏れる食器の音。
夕方のタイヤがアスファルトをなぞる音。
その全部の上に、首元から鳴るベースラインがそっと乗る。
これは遮断ではない。
混交だ。
分離ではない。
共存だ。
つまりネックスピーカーは、禁止された自由の代用品なんかではない。
自転車とポップミュージックの、新しい関係を開くメディアなのだ。
ここで初めて見えてくる。
自由は、かつての形式をそのまま保存することではない。
新しい条件のなかで、新しい快楽を発明することだ。
ネックスピーカーで走る都市は、ヘッドフォン時代の都市とは違う。
もっと外に開かれている。
もっと街と混ざり合っている。
自分だけのサウンドトラックではなく、
街そのものをリミックスするサウンドトラックだ。
ポップミュージックは耳の奥で完結しない。
風景に滲み出す。
首元で鳴るメロディが、信号の点滅と混ざり、
夕焼けと混ざり、
通り過ぎる知らない人の足音と混ざる。
それはもう「曲を聴く」というより、
街を一曲に変えるということだ。
だからこれは、単なるガジェット推薦ではない。
不寛容の時代に対する、小さくて鮮やかな反撃である。
法が来た。
規制が来た。
はい終わり、ではない。
そこで終わらせないために、生活者は発明する。
身体の自由を守るために、音楽の自由を更新する。
そういう知恵こそが、本当の都市文化だ。
制度に殴られて黙るのではなく、制度の隙間から新しい快楽を生やす。
そのしぶとさ。
その編集能力。
その勝手さ。
それこそがポップだ。
首元で鳴るポップミュージックとともに、街を走り抜ける自由。
自転車はまだ自由である。
ただし、その自由は昔と同じ顔ではない。
トリュフォーの時代の自由が、風を真正面から受ける少年の自由だったとすれば、
いまの自由は、規制と現実を引き受けたうえで、それでもなお都市に音楽を取り戻す自由だ。
耳を塞がず、世界を閉じず、それでもちゃんと昂ぶれる自由。
首元で鳴るポップミュージックとともに、街を走り抜ける自由。
ヘッドフォンやイヤホンの時代が終わるのではない。
その先が始まるのだ。
ネックスピーカーは、失われた自由の代替品ではない。
自由の第二章である。
さあ、漕ごう。
首元に音楽を灯して。
都市をもう一度、自分のMVに変えるために。










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