誰も書かない「ではソニー・ホンダモビリティはどんなEVを作るべきだったのか?」AFEELAシリーズ撤退の本質とは

その他

はっきり言って僕は「クルマ」に全く興味がなく・・・・・
ソニー・ホンダモビリティがEVを開発してたこともこの撤退のニュースで知ったぐらい外様な人間なんですが
急転直下の撤退のニュースが「何かを作ること」という意味においては凄く興味深かったので
色々と調べたりしていました。

これはマーケティングの失敗なのか?

この撤退劇、車好きの方々からは「想定内」と以前から言われていたらしく
とにかくAFEELAシリーズには車としての魅力がほとんどない・・・・と。

それはつまり「マーケティング」が確立していなかったっていうのが最大の原因だ!と言われてるんですが

上に張った動画で開発責任者の方々が「マーケティングとして既存の車好きには刺さらないと考えていた」とぶっちゃけてるんで

ただその物言いがかなり「上から目線」感があるのでそれもまた「車好き」の方々の反感を呼んだんだろうなぁ・・・とはわかります

ソニー・ホンダモビリティとしてはマーケの戦略として「車好き」以外を顧客層として考えていたことになります。

「ではソニー・ホンダモビリティはどんなEVを作るべきだったのか?」

この記事等etcetcetcまーーーーーーーーーーーーーーーこれでもかというくらい
今回の撤退の原因を"表層"的に解説した"ような"記事が大量にあって
でもこれらを"表層"とか

後付け

と感じてしまうのは、無数に書かれたどの記事も

じゃあどんなEVを作るべきだったのか??

というゼロイチのとこは誰もいってないんですよね

だから何故かこの撤退劇をほぼ孤軍奮闘で擁護してるこのチャンネルとか

ゼロイチをやらないやつがこの撤退を語るな!!っていう内容の動画も面白かったんですが

じゃーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!というわけでポップカルチャーの視点から

なんといってもSONYもHONDAもポップカルチャーと共にあったといってもいい会社だったわけで

このBEACHBOYSの曲も映画VANISHING POINTも正確にはHONDAのバイクですが

で!!! 上に張ったソニー側の開発者の方のヘアースタイルごらんになりました???
僕はこれに今回の撤退関連で一番驚いたんですが、これ「NEVERENDING STORY」のリマールヘアーですよね?!?!??!!

というかこの「80年代ニューウェーブヘアー」に今回の開発の全てがあると思っていて

じゃあどんなEVを作るべきだったのか??といえば

レトロEV

を作るべきだったんですよ!!!

ソニーホンダモビリティーのEV撤退を揶揄する人々は、だいたいこう言う。
「高すぎた」「中途半端だった」「テスラにも中国EVにも勝てない」。
その通り。だが、その“その通り”は半分しか当たっていない。なぜなら彼らは敗因を言っているだけで、では何を作るべきだったのかには答えていないからだ。

その答えは明白だ。
レトロEVである。

しかも、ただ古いデザインをなぞるだけの懐古趣味ではない。
丸目ライトをつけて、角ばったボディにして、「昭和っぽいですね」で終わるような安い復古ではない。
そうではない。ここで言うレトロEVとは、日本企業がかつて“未来”として売っていたものが、いまや“記憶”としてしか存在しないという、この反転そのものを商品化することだ。

これが重要なのだ。

テスラは“まだ来ていない未来”を売った。
中国EVは“すでに始まっている未来”を売っている。
だがソニーとホンダに本当にあったのは、そんなものではない。
彼らにあったのは、一度は世界を魅了した未来の残像だ。

ウォークマン。
トリニトロン。
AIBO。
初代プレイステーション。
シティ。プレリュード。CR-X。NSX。モトコンポ。
それらは単なる製品ではなかった。どれも「未来って、こんなにポップで、軽やかで、個人的で、生活に入り込んでくるものだったのか」という感覚を与えた。
つまりソニーとホンダは、スペック競争で勝った会社というより、未来を文化に翻訳した会社だったのである。

だから彼らが作るべきEVは、航続距離の小数点第二位を争う車ではなかった。
0-100km/h加速の数字でSNSをざわつかせる車でもなかった。
ましてや巨大ディスプレイを積み、「走るガジェットです」と言うだけの車でもなかった。

そんなものは、他社がもっと上手くやる。
もっと速く、もっと安く、もっと容赦なくやる。
その戦場に後発で出ていって、「ソニーらしさ」と「ホンダらしさ」を足し算しても、結局できるのは“強い競合の少し後ろを走る高級EV”でしかない。
それは敗北ではない。
存在理由の放棄である。

ではレトロEVとは何か。

それは、まず第一に、速度ではなく時間をデザインするEVだ。
EVの静かさ、滑らかさ、振動のなさ。この特性を「未来的」と処理するのではなく、「記憶の再生装置」として使う。
エンジン音がしないからこそ、都市の残響が聞こえる。
モーターの立ち上がりが滑らかだからこそ、昔の深夜ラジオやカセットのA面1曲目に入る瞬間のような、あの身体感覚に近づける。
EVとは本来、内燃機関の不在によって“何もない”乗り物になれる。
だからこそ、その空白に物語を入れられる。
ソニーとホンダがやるべきだったのはそこだ。
馬力ではなく、空白の演出。
性能ではなく、記憶のUI。

たとえばインテリアはどうか。
ピカピカの未来都市的ミニマリズムではなく、1980年代のオーディオ機器や90年代の国産クーペが持っていた、「触りたくなるテクノロジー」の感触に寄せるべきだった。
押すとちゃんとストロークがあるボタン。
夜になると淡く光るアンバーやグリーンのインジケーター。
液晶は大きくてもいい、だが支配的であってはならない。
主役は画面ではなく、操作の手触りである。
ソニーはかつて、機械を“所有物”ではなく“親密な人格”に変えるのが上手かった。
ホンダはかつて、移動を“移送”ではなく“遊び”に変えるのが上手かった。
この二つが組めば、本来は「情報端末としてのクルマ」ではなく、個人の記憶と移動が溶け合う乗り物ができたはずなのだ。

そしてエクステリアである。

ここでありがちな失敗は、旧車オマージュを露骨にやることだ。
N360風。初代シティ風。プレリュード風。
もちろん参照はしていい。だが単なる復刻ではダメだ。
なぜならレトロEVの本質は“昔に戻ること”ではなく、昔の未来観をいま再起動することだからだ。

つまり必要なのは“昭和デザイン”ではなく、昭和が夢見た21世紀のデザインである。
角はある。だが冷たいだけではない。
コンパクトだが、おもちゃではない。
小さいが、貧しく見えない。
どこか家電っぽい。どこかマンガっぽい。どこかSF映画の小道具っぽい。
そして決定的に、「これ、どこの国のクルマ?」ではなく「あ、日本の未来だ」と一目でわかること。
この“国籍のある未来像”を作れた可能性が、ソニー×ホンダにはあった。

さらに言えば、レトロEVは単なる車種ではなく、文化パッケージでなければならない。

ソニーが絡む以上、やるべきことは明らかだった。
起動音。
室内音響。
車内で流れる専用プレイリスト。
時代ごとの都市風景をテーマにしたドライブモード。
“湾岸の夜”“郊外の夕暮れ”“雨の首都高”“80年代ニュータウンの朝”みたいな、景色の感情をプリセットするインターフェース。
PlayStation的世界観設計、Walkman的個人性、αやBRAVIA的映像美学を全部クルマの体験に溶かし込む。
ホンダ側は、軽さ、見切りの良さ、取り回し、着座感、そして「ちょっと出かけたくなる」車体サイズで応える。
要するにソニーが感情のOSを担当し、ホンダが身体のシャシーを担当する。
この分業が見えたとき、初めてこの会社は存在理由を持ったはずだ。

なぜ高級EVとしてのAfeelaが弱かったのか。
簡単だ。
高級EV市場では、消費者は“記憶”ではなく“優位”を買うからだ。
より長い航続距離。
より速い充電。
より賢いソフト。
より強いブランドの見栄。
その世界では、文化的なほの暗い情緒は後回しになる。
だがレトロEVなら逆転する。
レトロEVを買う人は、数字ではなく人生の編集感覚を買う。
移動手段ではなく、自分がどんな時代感覚のなかを走りたいかを買う。
ここにソニーの勝ち目がある。
ここにホンダの愛される余地がある。

思い出してほしい。
かつて日本企業の強さとは、スペックの単独優位だけではなかった。
ラジカセも、ゲーム機も、クーペも、原付も、みな「便利です」だけでは売れていなかった。
そこにはいつも、生活が少し映画になる感じがあった。
夕方の国道。
コンビニの駐車場。
カセットを入れる音。
助手席に置かれた紙袋。
遠くに見える工場地帯の灯り。
そういう取るに足らない景色を、ポップカルチャーへ変換する力。
日本の家電と自動車がかつて持っていたのは、まさにこの能力だった。

だからレトロEVとは、技術の後退ではない。
むしろ逆だ。
技術をもう一度、文化の側へ引き戻す試みである。
いまEV業界で起きていることの多くは、性能の平準化だ。
いずれバッテリーもソフトも運転支援も、差は縮む。
そうなったとき最後に残るのは何か。
ブランドの思想である。
世界をどう見ているか。
どんな時間を美しいと感じるか。
どんな未来なら乗ってみたいと思わせるか。
その問いに答えられないEVは、全部ただの電化製品になる。
だがソニーとホンダは、本来、電化製品を単なる電化製品で終わらせない会社だったはずだ。

レトロEVとは、言ってしまえばこういうことだ。
失われた未来を、失われたまま美しく載せる乗り物。
未来を約束するのではない。
未来がまだ信じられた時代の感触を、現在の技術で走らせる。
それは敗北したノスタルジーではない。
いまの時代に最も欠けている、速度以外の価値の発明である。

新しいものはテスラや中国EVでいい。
彼らは新しさを売ることに長けている。
その苛烈さ、その合理性、その更新速度を真正面から超える必要はない。
ソニーとホンダがやるべきだったのは、別の時間軸を発明することだった。

最先端ではなく、最深部へ。
未来の先頭ではなく、未来の記憶へ。
まだ見ぬ世界ではなく、かつて見たはずの夢の再点火へ。

それがレトロEVだ。
そして本当に残酷なのは、この発想が“逃げ”ではなく、むしろソニー・ホンダモビリティにとって最も攻撃的な一手だったということだ。
なぜならそれは、市場に合わせて自分を薄めることではなく、自分たちにしか作れない未来の遺物を、未来の商品として蘇らせることだからである。

ソニーとホンダに必要だったのは、もっと未来っぽいEVではなかった。
もっとソフトウェアっぽいEVでもなかった。
必要だったのは、未来がまだポップだった頃の日本を、そのまま電気で再起動することだったのではないでしょうか??

Posted by nolongerhuman